日独比較文化論
日記より28-17「日独比較文化論」 H夕闇
令和七年正月四日(土曜日)曇り時々雪
年頭に当たり、日本の文化に纏(まつ)わる小話しを一つ。
昔々ある所にキー君とミーちゃんと云(い)う夫婦が居(お)りました。幾多(いくた)の子を設(もう)けて、幸せに暮らしていました。所(ところ)が、この幸運は永くは続きません、ミーちゃんが病に倒れて、死んでしまったのです。キー君は嘆き悲しみ、悶々(もんもん)として、恋い女房の面影(おもかげ)を忘れられません。居(い)ても立ってもいられず、亡者(もうじゃ)が住むと聞く黄泉(よみ)の国へ亡き妻を求めて旅に出ました。そして艱難(かんなん)辛苦(しんく)の末にミーちゃんを探し出すことが出来(でき)たのです。
邂逅(かいこう)の歓喜に溢(あふ)れて、感涙が滂沱(ぼうだ)と頬(ほほ)を伝う夫妻。疾風(しっぷう)か怒濤(どとう)の如(ごと)く相(あい)擁(よう)し、「おお、妻よ、こんな国ではない!ここではなく、もっと仕合わせに暮らし直そう。又もっと喜びに満ちて。」(とドイツ人は詩を原文で朗読して一同の拍手と喝采(かっさい)を博(はく)したのだが、)シラー風に夫が誘(いざな)えば、妻は快諾。手と手を繋(つな)いで現世へ帰り、以前に変わらぬ幸福を取り戻しましたとさ。愛が死に打ち勝ったのですねえ。めでたし、めでたし、、、とハッピー・エンドになるのが西洋文学の底流(浪漫(ろうまん)主義)である、と語ったのは、先日来の客人。
この年末年始、自称ドイツ人が我が家へ四日間ホテルから通った。(ドイツ人である証拠に⦅帰省した娘に依(よ)ると、⦆寝言もドイツ語なのだそうだ。)そして、この屋の主(あるじ)と和風に炬燵(こたつ)で対座し、日欧の比較文学論を連日ぶった。
さて、最愛の夫と再会した大和(やまと)なでしこミーちゃんへ、話しを戻そう。ドイツ人音楽家が九番目に作曲した交響曲みたいに「喜びに満ちて」云々(うんぬん)とはならなかった。それ所(どころ)か、病で肉が腐(くさ)れ爛(ただ)れて醜(みにく)くなった顔を見られたことで、ミーちゃんは激しく怒り狂い、恐るべき般若(はんにゃ)の形相(ぎょうそう)。(女は百歳までも髪を洗って装(よそお)うと言う程、美しさを求める女性の情念。その反面、醜態を目撃されれば怒髪(どはつ)が冠(かん)を衝(つ)く点、大変にリアリティーが有る。)鬼と化したミーちゃん、狂乱の余り、そこらに垂れ流された汚物を拾っては、キー君へ投げ付ける。幾(いく)つも幾つも礫(つぶて)を放ち、情(なさけ)も容赦(ようしゃ)も無い。果ては、元かれに噛(か)み付き、喰(く)い殺そうとする。己(おのれ)の醜さを目にした者は生かして置(お)けぬ、と云った具合いだろう。相擁する大団円「喜びの歌」を夢見たロマンチストは、意外な展開にビックリ仰天(ぎょうてん)、這(ほ)う這うの体(てい)で逃げ出した。そして、国境の長いトンネルを抜けると、我が国であった。
かくも猥雑(わいざつ)にして且(かつ)えげつない神話が、日本文学のスタート・ランナー「古事記」の冒頭に登場する。キー君とは伊耶那岐命(いざなきのみこと)、ミーちゃん即(すなわ)ち伊耶那美命(いざなみのみこと)である。この二柱が、日本民族のアダムとイブとか。
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ロッテを恋い慕(した)って悩んだ若きウエルテルの純情に比べて、これは何と屈折した物語りだろう!これでは余(あんま)りだ。素直でない。臍(へそ)曲(ま)がりの文学だ、とドイツ的な目には映るそうだ。ううむ、と捻(ひね)くれ者の僕は唸(うな)った。確かに、この国の文人は一癖(ひとくせ)が有る。例えば、吉田兼好が「徒然草(つれづれぐさ)」に言う。
花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。(第136段)
花見は満開の時にだけするもんだろうか、と反語。いや、家に閉(と)じ籠(こも)って桜(さくら)の様を思い描くのも、また良いじゃないですか。或(ある)いは未だ咲かぬ梢(こずえ)に期待を込めて見上げたり、又は半(なか)ば散った庭に俯(うつむ)いて花の宴(うたげ)を振り返る余韻(よいん)も、闌(たけなわ)とは又チョッと違った情緒(じょうちょ)が有る。一捻(ひとひね)り有って、趣(おもむ)きが深いのである。
同様に、絵に描いたような満月が、月見に最適な訳じゃない。だだっ広いノッペラボーな夜空にチッポケな衛星を眺(なが)めて、本当に興(きょう)が有るだろうか。十五夜お月さんの頃(陰暦で八月(はづき)十五日の秋の最中(さなか))を過ぎ、いざよって(ためらって)遅く出る月(十六夜(いざよい)月)、前夜は立った侭(まま)で待つことが出来た月(立ち待ち月)も佇(たたず)み疲れて座って待つ月(居(い)待(ま)ち月)、もう横になって待つしか無い月(寝待ち月)、、、夜毎(ごと)に待ち時間が増えても、(風流人なら、)酔狂(すいきょう)を全(まっと)うするだろう。雨空を恨(うら)めしい思いで見上げたり、群(む)ら雲(くも)が流れて来てハラハラさせられたり、黒い木陰からチラチラ月影が見え隠れしたり、、、そんな観月も一興(いっきょう)ではないか。月光の射す木の葉が濡(ぬ)れたように照る情景を、心ある同好の士と共に自然観照できたら、きっと最高だろう。
そんな審美観が世捨て人の感性である。混じりっ気(け)の無い一筋に沿って(率直に正攻法で)物事を受け止める欧米人の合理的な整合性に対しては、斜(はす)に構えた偏屈(へんくつ)な見方と云(い)えよう。ううむ、確かに。
ドイツを学んで初めて我が国の文化的特徴が見えて来たのだろうか。外国語を習うことが母国語を知る契機となるのと、同じ経緯である。
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かかる議論で肩が凝(こ)ったか、娘が独学者の背に回って揉(も)む。脚も揉む。疲れたろうとて、炬燵で横になるよう勧める。そして、母と二人で琴の連弾を聞かせると、軈(やが)て気持ち良さそうな鼾(いびき)。琴の音を子守り歌と聞き乍(なが)ら昼寝した学友は初めてであるが、こんな贅沢(ぜいたく)が許されるのは娘の婿(むこ)殿(どの)だからである。
今は役所も正月休み。入籍の挨拶(あいさつ)がてらの帰郷を終えて二人で上京したら、「婚姻届」を提出するそうだ。
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娘が小さかった頃、よく家族でカルタ取りを楽しんだ。おとうさんの解説が付くのは仕方が無いとしても、お年玉の賞金が出るから、子供たちも大いに張り切った。それが我が家の新春恒例行事だった。
百人一首を取るなど、今日では裕福な階級に限られるようだが、特に娯楽が少なかった戦後は、庶民にも復興したらしい。貧しいH家でも隣り近所が集(つど)ってワイワイやったそうだ。
その日本の伝統的な遊び(正月の風物詩)を継承すべく、寝起きのドイツ人にカルタ大会を提案。ホテルでの宿題として文庫本一冊を渡した所(ところ)、件(くだん)の外人は早々に逃げ出した。
娘一人を貰(もら)って行くなら、和歌の百首ぐらい安いものだろうに。次回の帰省は、覚悟して来(こ)よ。
かのドイツ学者と議論したテーマは、他にも多々有った。アドラーの「嫌われる勇気」、「ドイツ観念論は科学である」、曖昧(あいまい)の美と「蛍の光り」、シベリヤ抑留と沖縄戦と長崎原爆を搔(か)い潜(くぐ)った帰還兵、、、、、
娘の曰(い)わく、「おとうさんの話し相手になってくれる家族が出来て、良かったねえ。」と。
年の瀬に、娘の推薦で辺見じゅん原作「ラーゲリより愛を込めて」を読了。石川達三著「生きている兵隊」で年を越したが、子や孫が一堂に会する殷賑(いんしん)で、チッとも進まなかった。 (日記より)
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学友が婿となりたる元日や
琴音(ことね)を枕(まくら)に昼寝する君 H 夕闇
新(あらた)しき年の始めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪の
いや敷(し)け吉事(よごと) 大伴家持