黄色の花火
日記より28-7「黄色の花火」 H夕闇
八月二十二日(木曜日)曇り
土手の下に作ったコスモス畑、西の一画が今年は初め不作だった。他の二区画で春先に芽がドンドン二葉を擡(もた)げたのに、ここではチッとも発芽せず、かたばみ等に気圧(けお)されていた。今も猫じゃらしが多く混る。それで(基本的に僕は成り行きに任せ、自然の侭(まま)を眺(なが)めたい方針なのだが、)黄花コスモスの種などを改めて植えてみたのは、初夏の頃である。
それが芽を出し、伸びて、おととい漸(ようや)くオレンジ色の花が一輪。亡父と共に「父の日」に(父の孫たちも協力して)耕(たがや)した花壇で、もう二十年ばかりコスモスたちが代々に自生している。僕ら家族が職場や学校へ出掛(でか)け、疲れて帰って来ると、まるで手を振って送迎するかのように、可憐な姿で風に揺れたりする。
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庭の朝顔は順調である。但し、今年は花の色に異変が有った。
いつも我が家では赤っぽい色に咲く。紫という赤と青の中間色から、かなり赤の側へ偏(かたよ)っている。土が酸性だと赤い花が咲く、と教わった覚えが有る。リトマス試験紙の原理である。プランターに庭の土を入れて育てたから、内(うち)の土は酸性なのだろう。赤花が圧倒的に多く、稀(ま)れに薄い桃(もも)色や藤(ふじ)色の花が現れて、珍しい思いをしたのが、夏の初め。ピンクと云(い)えば、聞こえは良いが、夏に赤系統は暑苦しい色だ。爽(さわ)やか清涼な水色に、目を引かれてしまう。
そこに驚くべき変化が起こった。この半月ばかり、永らく憧(あこが)れて来た濃い紫色の朝顔が出現。更に、ハッキリ青い者さえ咲き始めたのだ。
つゆ時に妻の勧めで(自然主義者も)科学肥料を入れたのだが、それがアルカリ性だったのだろうか。肥やしのアルカリと土の酸が交錯して、赤や青が入り混ったのではないか。
一様に赤ではなく、又は青一色でもなく、色とりどりな所(ところ)が好ましい。僕は落ち着いたモノ・トーンの美しさも知っている積もりだが、それでも種々様々な乱れ模様の彩(いろど)りには心が躍る。赤と青に中立を保つ濃紫(こむらさき)、その色合いを柔らげた藤色、中庸(ちゅうよう)から赤か青へ若干(じゃっかん)の偏向を示す赤紫と青紫、更に赤味を敢然(かんぜん)として拒(こば)んだ紺碧(こんぺき)の花には殆(ほとん)ど感動した。
僕は毎朝コーヒーと夜明けの川景色で自(みずか)ら潤(うるお)った後、庭へ回って朝顔へも水を与え乍(なが)ら、蔓(つる)が巻き上った緑の網(あみ)を見上げ、ここ半月ばかり青花を探した。競争で木登りし繁茂(はんも)する蔓や葉で隠れた謙遜(けんそん)家(か)は、青い花に多いような気がする。
朝顔を内の庭で最初に始めたのは、先ごろ嫁(とつ)いだ末の娘である。プランターに種を蒔(ま)き、自室だった一階の天窓から網(ネット)を吊(つ)るして、それに這(は)い上らせ、緑のカーテンを作った。娘が軈(やが)て実家から自立したなり、朝顔は影を潜(ひそ)めた。そしてプランターとネットが残された。
そこへ、二番目の孫が、学校の理科の実験で育てた朝顔の種を、持って来て呉(く)れた。好意を無にしては気の毒なので、その残された二つを再利用する気に僕はなった。
出産前つわりが重くて偶々(たまたま)里帰りしていた長女が、プランターに植えるのを手伝った。それの種を採(と)り、翌年に次代を蒔(ま)いたのは、三番目の孫だったと記憶する。
かくして、子やら孫やら幾人(いくにん)もが、この朝顔には関わって来た。嘗(かつ)て末娘が未だ階下に暮らしていた頃から、かれこれ十星霜にも近いだろうか。
その蔓(つる)が今夏もグングン伸びた。僕は二階の寝室の窓のカーテン支柱から緑のネットを吊るしたのだが、今週は到頭(とうとう)その先端が僕の窓まで上って来て咲いた。そして、藤色の花が三っつも四っつも覗(のぞ)きに来る。昨秋(大騒ぎして、結局コロナではなかったが、)僕が発熱して寝込んだ時も、窓辺へ見舞いに来てくれたが、その時は赤味の強い花たちだった。
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長女が盆休みに里帰りした時の動画を、きのう妻のスマホへ送って来た。今月十六日(盆の送り火の晩)近くのⅠ神社の祭りが有って、例年その夜に花火が上がる。それが見たくて、親子三人で実家に一泊したのである。来れないかも知(し)れなかった伜(せがれ)親子も、夕方だけ合流できて、我が家は賑やかになった。姉と弟だけでなく、いとこ同士も会いたかったらしく、姉妹のように睦(むつ)み合い、お世話する。
夕食後、皆は花火大会へ繰(く)り出した。僕は散々(さんざん)飲んで、(酔い潰(つぶ)れた訳ではないが、)腰が少しばかり重くなり、一人で留守番(るすばん)となった。危いから、とて妻が厳しく外出を禁じたのである。けれども、実を言えば、僕は裏の土手のベンチから皆で見物したかったのだ。
僕には人に誇れる程の財産は無いけれども、ここの土地柄が大いに自慢である。我が家の直ぐ裏に川が流れ、その土手に上れば、空が悠々(ゆうゆう)と広い。壮大な茜(あかね)色の朝焼けを眺(なが)め、月見も出来る。花火だって、居(い)乍(なが)らにして見られるじゃないか。打ち上げの位置関係に依(よ)っては、川面(かわも)にも大輪の花が咲くのだ。その為(ため)に僕は土手に上がる階段を設(しつら)え、ベンチへ至る草も刈って、花火大会に備えて置(お)いた。でも、どうやら、そういう野趣は余り受け入れられなかったようだ。
むすこの方の孫娘など、(母方の実家から帰った足で、疲れも見せずに、直(す)ぐ様(さま)こちらへも訪れてくれたのは良いが、)初めっから縁日の屋台が目的だった。娘方の孫は、(幼い子は体温が高いからか、)ひどく蚊(か)に刺(さ)される。草刈りをしたとは言え、土手の叢(くさむら)に包囲されたベンチなど、親たちが怖気(おぞけ)を振(ふ)るって、近付けない。虫よけスプレーで予防した上で、皆ゾロゾロとN橋の袂(たもと)の祭り会場へ出掛(でか)けて行った。
夕方六時にI神社で祭礼が始まり、六時半から夜店、との張り紙がして有(あ)った。花火の時間帯だけハッキリしなかったが、八時に最初の一発がドーンと夜空に轟(とどろ)いた。
(日記より、続く)