キャンプ今昔2

     日記より28-13「キャンプ今昔」2       H夕闇        
 内(うち)のテントの裏に大きな東屋(あずまや)が有って、夜には明かりが点(つ)いた。苔(こけ)の生(む)した切(き)り妻(づま)屋根の下に、長い木造りの飯台(はんだい)。その両側に据(す)え付(つ)けられたベンチには、二十人や三十人は座れそうだ。昔ここに大勢の若者が集(つど)って、話し合ったり歌ったり、飲んだり喰(く)ったり、したのだろう。隣接した炊事場に(水道や流しの他)煉瓦(れんが)で竃(かまど)が設(もう)けられているのは、雨の日の対策に違い無い。バンガローの立ち並ぶ奥には、キャンプ・ファイヤーを営(いとな)む為(ため)の擂(す)り鉢(ばち)状サイト。炉(ろ)のグルリを丸く囲んで、階段式の席が設(しつら)えて有(あ)る。
 いかにもキャンプといった佇(たたず)まいが、そこはかとなく郷愁を誘う。フと既視感(デジャヴュ)が漂った。或(ある)いは、少年の頃ここへ叔父に連れて来られたのかも知(し)れない。そんな気がして、半(なか)ば確信となった。父の(年の離れた)弟で、隣りに住んだ。進取の気風を持ったラガー・マンだった。サイホンでコーヒーの味を洟垂(はなた)れ小僧(こぞう)に教えたのも、この人だった。顕微鏡や一眼レフ・カメラを与え、押し入れに作った暗室でフイルムを現像して呉(く)れた。当時は珍しかった八ミリ撮影も得意とした。少年の生きる手本(モデル)だった。
 僕が今も毎朝(吹き降りでない限り)土手で夜明けを眺(なが)めるのは、いつかキャンプで見た朝焼けの自然美が忘れられないからだ。いつ又どこで見たか忘れたが、機械文明に抗(あらが)って自然を志向、矛盾に葛藤(かっとう)しつつもシンプル・ライフに憧(あこが)れるのは、それが遠い契機だろう。その意味で、僕の一生の方向性を規定した。
 嘗(かつ)てマイ・カーが若い庶民の夢だった頃(従ってオート・キャンプ場など無かった頃)、リュックを背負った青年たちが、このキャンプ場に集まったのだろう。列車の通路を大荷物しょって横に歩いたから、蟹に擬せられて「蟹族(かにぞく)」と呼ばれた。冬にはスキー場のリフトに長い行列が出来(でき)、(当時スノー・ボードなんか無かった。)夏休みの北海道旅行やキャンプ場も若い連中で賑わった。

 けれども、今日これらの施設がフル稼働することは、有るのだろうか。家族や気の合う仲間で、数人がテント毎(ごと)に火を焚(た)き、煮(に)炊(た)きはしようが、例えば学校や職場から団体で繰(く)り出(だ)して親睦(しんぼく)を深める、なんて行事は最早(もはや)はやらない。同じ釜(かま)の飯(めし)を喰(く)った若(わこ)う人(ど)が(見ず知らずの相手も含めて)皆で歌うなど、もう遠い昭和の催(もよお)し物(もの)、セピア色の思い出だろう。集団の中には大概ギターを抱えたお道化者やハモニカ吹きが居(い)て、そんな時の歌はドボルザーク第五交響曲「新世界より」の第二楽章「遠き山に日は落ちて」(堀内敬三・作詞)だった。キャンプ・ファイヤーを囲んでフォーク・ダンス、という趣向(しゅこう)も多かった。それが、一昔前は、若い男女の馴(な)れ初(そ)めの形ともなった。
 キャンプ今昔(こんじゃく)の相違のみならず、町にも歌声(うたごえ)喫茶(きっさ)が繁盛(はんじょう)した。今日のカラオケ店と違うのは、見知らぬ客同士も一緒(いっしょ)に肩を組んでは飲んで歌ったことだ。顔なじみの常連さんがフォーク・ソングをリクエストすると、マスターは大抵の曲をギター伴奏できた。マイクを半(なか)ば奪い合うようにして誰かが歌えば、店中が大合唱になった。軈(やが)て贔屓(ひいき)の店が出来、いつか仲間意識が醸(かも)された。かれらの合い言葉は自由や自然だったように思う。その意味で、「翼をください」(山上路夫)や「四季の歌」(荒木とよひさ作詞)は象徴的だった。
 プロテスト・ソングなども、そういう場でも歌われたようだ。店内には工場の労働組み合いや学生運動の闘士も居(い)ただろうが、こんな所で小むずかしい議論を始めるのは、野暮(やぼ)と云(い)うもの。増(ま)してや、口角に泡(あわ)を飛ばしてのオルグ(組織づくりの宣伝勧誘)など、御法度(ごはっと)だった。普段の主義主張をチョイと横に置いといて、今だけは共に楽しくやろう、という不文律(ふぶんりつ)が有った。フォーク・クルセダーズの「イムジン河」など一緒(いっしょ)に歌うと、朝鮮戦争で分断された民族の悲劇に皆が共感し、優しい雰囲気(ふんいき)に包まれた。
 旧制高校の名残(なご)りも、古い学舎には未だ残っていた。事ある毎(ごと)に、数十人数百人の蛮(ばん)カラ学生が、肩を組んで大きな輪を作り、中央の火(ひ)櫓(やぐら)へ突進しては退いて、横へも大きく回り乍(なが)ら放歌(ほうか)高吟(こうぎん)。これは(ファイアー)ストームと称された。「下駄(げた)を鳴らして奴(やつ)が来る、腰に手ぬぐいブラ下げて。学生服に染(し)み込(こ)んだ男の臭いが、やって来る。」(吉田拓郎「我が良き友よ」)という歌も当時はやった。この時ばかりは、右翼も左翼も大同団結、セクト(党派)も内ゲバも解消したものだ。
 僕が北海道へ渡ってロシヤ文学を学んだ頃、恩師のO先生が(源氏研の自主ゼミの後)大学正門前の居酒屋YKへ学生たちを連れて行って飲ませて呉(く)れた。かれは太宰のリアル・タイムの読者で、「年少の友」を相手に文学談議を楽しんだ。僕らが卒業する時(御自身の学生時代だったか、いなか教師をされた頃だったか、)「土地の人から教わった歌だ」と言われて、門出(かどで)に一度だけ歌って聞かせられたのは「古い顔」(チャールズ・ラム:原詩、西城八十:訳詞)だった。
 道に迷っていた僕は、月刊の同人雑誌に小説を一年余り連載しており、それも読んで頂(いただ)いた。類型的、と厳しい評価を受けた。後に、妻の琴の師匠N先生の夫君からは、この日記を修身の教科書と。頼り無い僕の導き手だった。今も感謝して已(や)まない。
 他にも(親戚や師弟関係でなくても、)僕は多くの人の世話になった。回りの乙名(おとな)たちが皆で子供を育てる風土が有ったのだろう。この国には、「育ての親」「恩人」と云った深いニュアンスの言葉が有る。
 分断の時代から顧(かえり)みれば、皆それぞれに懐かしい連帯の光景だった。そう言えば、(少し時代が下るが、)ソ連が崩壊し東欧改革が進められた前世紀末、ポーランドで一党独裁を倒したワレサ議長の率(ひき)いる全国労組は、その名も「連帯」と云(い)った。

 このキャンプ場も、そんな世相の下で開設されたのだろう。少年の僕が叔父(おじ)にキャンプへ連れて行かれ、野営の仕方をイロハから仕込まれたのも、そんな頃だったか。ボーイ・スカウト団も有ったが、貧しい庶民には遠かった。石を組んで竃(かまど)を作り、古新聞紙や段ボール箱にマッチで火を付けて、うちわで煽(あお)ぐ。その火種を薪(まき)へ移す焚(た)き付(つ)けに失敗すると、モクモク白い煙りで燻(いぶ)されて、涙が止まらなかった。だが、これを旨(うま)く果たさない限り、空きっ腹を抱えて寝る羽目(はめ)になるから、歯を喰(く)い縛(しば)って何度も試(こころ)みた。おじは僕に試行錯誤して自力で学ぶことを教えようとしたのだろう。煙りの臭いが服に残ったものだ。
 今むすこは(フェザー・スティックと云(い)うそうだが、)斧(おの)で小さく割った薪(まき)をナイフで更に細く薄く削(けず)り、それにライターで着火。それへ伸縮自在の金属棒(ぼう)(昔の火(ひ)吹(ふ)き竹(だけ)に当たる送風器具)で空気を送る。
 火熾(ひお)こし一つにも、今と昔に差異(ギャップ)を痛感する。青年の楽しみ方、交友の形と興じる趣向、愛唱歌、フォーク・ダンス、酒、議論、その為(ため)の道具や施設、、、アナログの人間関係からデジタル機器の情報社会へ移り変わり、あの頃の若者たちは今どこへ行ったのだろう。
                         (日記より、続く)

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