漂白される他者
ちょっとカッコいいね、タイトル
例えばYouTubeで動画をみて、コメントを見る。もうこの時点で多くの人は自分の感想とか意見を失っている。
例えば気になる映画がある。(ブランチの映画コーナーで紹介されてたから)もうこの時点でおすすめされた切り取り方、視点によって、作品の受け取り方に先入観とかが生まれる。これはレビューに大きくかかわっている。じゃあレビューは純な自分じゃない、かもしれない。
例えば将来一軒家のようなマイホームを手に入れることを夢想する。もうマイホームとか一軒家って言われた時点で、影だけの家族と、リビングがありダイニングがあり、子供部屋があり、夫婦の寝室がある。ということを想像するだろう。もう、これも社会によって知らぬ間に形成された枠組み。
例の上二つ(作品とそれに対する自分の評価)に関しては、もはや他者(誰かの意見)が作品と完全に乖離したものを見つけることは至難かもしれない。もうほぼすべては。知らぬ間に自分っていうものが他者となり、他者も自分となり、自分は漂うのである、ただ。
そして、家の件に関していえば、住宅という建築(ハード)にはもはやものとしてこうあるべき、であろう、という先入観や意味、枠組みがこびりついている。住宅という器に収まる家族(ソフトといっていいかな?)にも、同じ名字の夫婦とその子どもを想起する。
就活で、ハウスメーカーだとかマンションデベロッパーをみていると、いかに家族とその器となる住宅にながらぐ醸造されたステレオタイプのものをあてはめて、あたかもそれが[普通]であることのようにその住宅に収まる、住宅に働かされるのである。普通であることは悪ではないと思うが、ぼくはこの住宅に使い古された社会の常識みたいなレッテルを貼って売りさばく、これは騙されてるとか、言いくるめられてるのかもしれない。
話がずれるかもしれないが、マンションや一戸建ての住宅(企業が作った)が必ずしも暮らしを送る場ではないのだ。主体はどこか。売る側、買う側か。
作品(建築に限らず映画、音楽など)から、こびりついた意味とか枠組みは漂白しえない。だから、自分の物事に対する感想とか、ユニークさの実体とはなにか、というのは難しいのかもしれない。
学部三年のゼミで、形而上学とか構造主義とかいろいろうだうだやってた内容が少し分かってきたかも、って最近思ってきた。
結論はないけど、ふと思ったので。