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【自己分析】自分探し症候群

就活の面接で割と深めの話をする機会があって、その際に自分の留学を含めこれまでの経歴が「行動力がある」と評価されると同時に「自分探し」の文脈でなんか響き悪く片付けられた。そこからずっとモヤモヤしている。今日はそんな自分探しについて書いていこうと思う。


自分探し症候群

なんかの本で読んだ「自分探し症候群」という単語。そこには「自分が何者なのか」その答えを求めて外へ向かうこと、それは一種の現代病だと書かれていた。一昔前はインドに行くのが流行ったとか。直近の韓国留学は置いておいて、その前(大学2年生の時)の台湾留学は確かに自分探しの旅だった。外を見れば、新しい環境に身を置いてみたら、また違った自分が見えると思った。実際に台湾留学では自分ってこんなことも出来るんだ〜って気がつけたことも多い。でもそれは知らなかっただけで「新しい自分」ではなかった。自分の中に元から確かにあって、ただそれを外に行くことによって気がつけたと言う感じだ。

韓国で読んだ本に書いてあった「やりたいことは運命的に出会うものではなく既に自分の中にある」っていう文と、自分でたどり着いた「自己愛とは自分の過去を肯定すること」っていう答え。これらを踏まえても外に出ることよりも内を見ることが重要だということが分かる。今は外よりも内を見ることのほうが大切であること、本当の答え(的なやつ)は内にあるということを理解することができたから、面接官やその本の作者が「自分探し症候群」のようにどこかマイナスなニュアンスの言葉で形容する意図も分かる。でも自分はそうやって存在するか分からない何かを求めて外を見ることを、見てきたことを後悔したことはないし、間違っていることだとは思わない。

自分探しをしていた過去

自分の意識が強く外へ向き始めたのは発声障害になってからだ。発声障害になった時の話はまた今度詳しく書くつもりだが、簡単に言うと人前で声が出せなくなる病気である(人によって症状に違いがあります)。この病気を克服しようと、必死に外にあるいろんな情報に触れて、効果がありそうなことは片っ端から行った。何にでも挑戦すること、それは外から見たら行動に一貫性がなく、そうやって彷徨っている様は滑稽だったかもしれない。

あの時自分が外を向かなかったら出会えなかったものがたくさんある。それにその出会いがなかったら自分は今ここにはいないとさえ思う。自分の内をみることは確かに大切なことだ。それに外を見て途方に暮れてしまう、そんな感覚もわかる。でもあの時は確かに外に出る必要があったんだ。この感覚、当事者である自分以外分かるわけない。と言いたくなってしまう未だに。あの自分の病み期(この言葉嫌いなんだけども)を体験してもないくせに、あの時の自分の行動力を「自分探し症候群」だなんて軽い言葉で片付けられたことに怒りを覚えたんだ、きっと。あなたも同じ状況で、あのドン底にいたら、きっと同じ選択を取る。というかそうせざるを得なかったはずだ。

自分で自覚して納得すること

あるか分からない何かを求めてぷらぷらしている人を見ると、確かに私も釘を刺したくなってしまう。そのぷらぷらが現実逃避のように思えるからだろうか。というか自分の過去のぷらぷらが一種の現実逃避だったからだ。でもそのぷらぷらの果てに、それが「ぷらぷら」であるということを本人が自覚することが大切なんだ。いくら他人が「それは自分探し症候群だ」と釘を刺しても、当の本人には届かない。本人が、それが自分探し症候群であることに気がつくこと、そしてその行為すらも愛してしまうこと、その段階を自分で踏むことが大事なんだきっと。

外じゃないよ、内を見なさいねと他人に促されて内を見ても、見れるものは限られてくる。勉強にも仕事にも言えることだけど、自分がそれに納得した上で行動することって本当に大切で、遠回りのように見えて実は1番の近道だと最近強く思う。だからこそ自分は、自分で直接見て、自分で経験して、そこに納得すること。なによりも自分が納得してから行動することを大切にしているし、これからもそんな態度を貫きたいと思う。

勘違いされそうで怖いので再度強調しておくが、自分探しは悪いことではない。そもそも個人による個人のための行動に良し悪しってないと思うんだけども。それに他人のそれを止める・責める権利は誰にもない。「自分探し症候群」だとそれをマイナスの文脈で片付けてしまう人、それはきっとその過程を丁寧に踏んでこなかった人なんじゃないだろうかとすら思う。間違いなく人間の成長にとって必要なフェーズだ。それに、他のnoteでも散々書いているが、自己というものは外を見ないと分からない。自分を知るために外を見ること、そことの比較で自己を知る行為は当たり前に必要なものだ。


発言で傷つく・傷つける恐怖

今回「自分探し」だとどこかマイナスな文脈で評価されて、モヤモヤした自分がいた。他人の発言で自分が傷つくたびに、他人に自分の価値観を押し付けることの恐ろしさを思い知る。でもそれを恐れてしまうと自分の意見を何も言えなくなってしまう。言えない度に自分はつまらない人間だと思ってしまう。このジレンマにずっと悩んでる。自分の意見はある、大事にしてる価値観もある。でもそれを相手に見せるかは毎度毎度すごく悩む。相手が大切な人であればあるほど、思考のティップスとして意見を提供したくなる。でもそれは本当に相手のためなのか。自分が意見して気持ちよくなりたいだけなんじゃないか。

相手に何か指摘される時、勉強になるな〜って素直に受け取れる時と、ハァ?ってなる時がある。結局は相手との関係性なのだろうか。いろいろ悩むことはあるけど、やっぱり結局は自分が魅力的な人間になることが必要なんだっていう結論に辿り着く。相手を変えることは不可能で、自分が変わった方が楽だ。自分の意見を飲み込むか、自分の意見に耳を傾けたいと思ってもらえるような魅力的な人間になるかの2択だと思う。他人に期待しない、そんなつまらない人間になってしまったのはいつからだろうか(重)「魅力的」って何だよって感じだけど、それでいい。よく分からないけどなんかプラスの方向に、思慮深い人間になりたいと思う今日この頃。


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