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【音楽】翻訳作業の意義 | 私は最強
2022年に公開された映画『ONE PIECE FILM RED』この映画では、主題歌と劇中歌の7曲を7組のアーティストが楽曲提供を行うという形がとられ、そのプロジェクトの第2弾である本楽曲は、Mrs. GREEN APPLEによりプロデュースされ、ウタの歌唱パートを担当したAdoの名義でリリースされた。本noteは、そんな『私は最強』という楽曲が、元々は『私が最強』だったという話を聞いて、よりこの楽曲への解像度が上がった話である。
概要
アーティスト : Ado
収録アルバム:ウタの歌 ONE PIECE FILM RED
リリース : 2022年6月22日
レーベル : Virgin Music
作詞作曲 : 大森元貴
プロデュース:Mrs. GREEN APPLE
Mrs. GREEN APPLEによるセルフカバーバージョンもリリースされており、そちらは10枚目シングル「Soranji」にカップリング曲として、また5thアルバル「ANTENNA」にも収録されている。
助詞の一つ一つにまで宿る意図
助詞である「が」を「は」にすることによって、強くあろうと自分自身を鼓舞する、本当はそんな強くないウタというキャラクターが出てくる。そんなウタの儚さをたった一つの助詞で表してしまう大森元貴の凄さ、日本語の美しさ、やばい。音の制限がある歌詞においては普段の文章以上に一つの助詞の選択が重要で、そういった助詞の一つ一つにまで宿る作詞家の意図を丁寧に汲み取るために、翻訳は本当に、本当に、細部までこだわらなきゃいけないんだ。翻訳という作業の細かさ、一語単位での責任の重さを改めて感じた。
ニュアンスという壁
『私は最強』の英題は“I’m invincible”だ。最上級ではなくinvincibleで表現したところになんとなく本家と似た美しさを感じたのだけど、ネイティブ的にはどうなのだろうか。英語学習の範疇なら“I’m invincible”も“I’m the strongest”もS=Cで「私は最強」と翻訳してマルとなる。でもそれは完全には一緒ではないはずだ。完全に一緒なら二つも単語はいらないわけだから。翻訳という作業は、英語教育の中で合理性を求めた結果切り捨てられてきた本当の意味たちと向き合う時間なのかもしれない。それを“ニュアンス”と呼ぶのだろうか。しかしこれはネイティブにしか知り得ない領域なんだろうか。翻訳について学ぶ中で、自分には干渉できない領域なんだと諦めたくなるタイミングは多くある。
最強が仮に“Saikyo”という英語でそのまま翻訳できる単語だとしたら「私は最強」は“I’m the Saikyo”となるのか。強調したいのが「私が」ではなく最強であることだから。Theで最強であることを共通認識にして(太陽も地球も共通認識のものだからtheがつく)自分に何度もそれだと言い聞かせているニュアンスを出せるみたいな。でも逆に“最も”強い存在であるはずなのに“a”をつける矛盾が自信のなさを表し得る可能性もあるような。ぜひネイティブの意見を聞きたい。
韓国語と日本語の親和性
「は」と「が」に関しては、韓国語は完璧に翻訳できると言っても過言ではない。「은/는 =は」「이/가 =が」っていうのは、韓国語学習の初歩でバカの一つ覚えのように習う。「は」と「が」は、日本人なら他の単語を元にそれらとのつながりで簡単に使い分けられてしまうから、実際「은/는 =は」「이/가 =が」を学習中に意識したことは少ない。どちらも「は」であり「が」だからだ。
でもこの日本語と英語の互換性を考えた時、これが“本当”だったことに気がついた。不定冠詞(a)のつく名詞には「が」がついて、定冠詞(the)につく名詞には「は」がつく。だから新情報には「が」で、旧情報には「は」になる。
【不定冠詞・新情報】
A cat is in the room. 「部屋に猫がいます」
【定冠詞・旧情報】
The cat is sleeping. 「その猫は寝ています」
韓国語も新情報には「이/가」 旧情報には「은/는」 がつく。新情報・旧情報の観点から見たときに、このバカの一つ覚えみたいだと言ったルールが、学習者が一周した上で導き出した完結で完璧なルールだということが分かる。参考書を舐めたらあかん。実際にミセスの方での公式訳では「나는 최강이야」とされ、日本語の「は」に素直に適応する形で「는」が使われている。
翻訳アプリがある現代における言語学習の意味
良い歌だな〜とライトリスニングしていた楽曲たちが、翻訳を考える作業を挟むことにより、より深く、より美しいものに感じられるようになる。この楽曲は特にそれを強く感じた。
翻訳には限界がある。言語だからどうしても“ネイティブ”という領域が存在する。そんな壁を前に諦めの気持ちが勝ってしまう時もある。でも自分の研究のゴールは完璧な翻訳ではないように思う。“完璧な翻訳”というものはありえないという極当たり前のことに最近になってようやく本当の意味で気がつけたように思う。
翻訳を通した異文化・自文化理解に興味がある。翻訳とは結果ではなく、過程にこそ価値があると思っている。でも日本にあるたくさんの名曲たちを、翻訳を通して世界に輸出したい、そんなおこがま野望があるのも事実で。だからこそそんな翻訳の過程の中で切り捨てられてしまう元々の歌詞の意味たちを考えると罪悪感がある。本当に小さな単語の選択たちが大森元貴の優しさなのに、それを翻訳に出しきれないもどかしさ。楽曲を翻訳することは果たして“正解”なのか。翻訳アプリを使っていると言語は置き換えゲームのように感じられるけど、元の意味が100%完全に伝わる翻訳はおそらくなくて、そんな中で100%を求めて試行錯誤する。それが“翻訳”なんだ。自分が翻訳する時はもちろんのことだけど、翻訳されたものに触れる時もこの感覚を大切にしたいと思う。その壁を知ること、その壁に挑んでいくこと、そのために言語学習は必要なんだ。翻訳アプリがあるのに、それでも外国語を学ぶ理由とはここにあって、だからこそ自分の韓国語学習にも意味はあったのだと改めて思う。
⚫︎表紙出典