朝露の啓示|掌編小説
満たされない渇きに呪われていた、肌寒い夜。星の瞬きが、飛び回る小虫のようで妙に癪だった。どこまでも続く闇の支配にうんざりして、従順な者たちの声にまた腹が立つ。潤いへの答えを求める自分にとって、眠りという無意味な時間へと誘うのだから。
霞んでいく視界と意識。子守唄となる夜の息。
飢え渇きの爪痕を残して、身体は停止へと向かう。五感は働くが脳が刺激を処理しきれず。
不快な心地よさの中、ずぶりと無に吸い込まれ、沈んだ。
淡い光の中へと吐き出されて、瞼をきつく閉じたまま。闇の余韻が頭をふわふわさせる。
渇きもそのままで、紛らわそうと肺を膨らました。吐いた息につられて、喉笛が不器用に振動する。遅れて気づく土の香り。僅かに含んだ潤いの跡。
肌を撫でているものはなんだ?ほんのりとひんやりして、しなるように手足と頬をくすぐる。あなたを満たすものはすぐそこだと。早く目覚めろと、そう急かされているような気がした。
瞼越しの眩しさに慣れた頃、ゆっくりと目を開ける。星の代わりに雲の衣が穏やかに漂っていた。移ろう途中の闇と光の境界が、太く広がって薄まって。そして、できた染め物の天幕。思わず呪いを忘れそうになる空の麗姿。
横に顔を向けると、鮮やかな翠の房が立ちはだかった。知らせをくれた小さなものたち。ゆらりゆらりと優雅に踊りながら、まだ急かしてくる。土と水の香りが一層強く鼻に絡んだ。自然の中で静かに、されど気丈に生きている強者の香り。潤いと足ることを知っている。刃のような身が柔らかく、しっとりと艶めいて美しい。
自分が豊かな草むらの上で眠っていたと気づく。
突然の気づきと共に、足元から頭の天辺まで寒気がじんわりと伝った。身体が内側から温まろうと、小さな炎を焚き付けようとする。このまま横になって燻ってはいけない。もう眠りから解放されたのだから。己を満たせ、呪いに打ち勝て。
草むらのように強くありたくて、上体をゆっくりと起こした。気まぐれなそよ風に身震いする。過ぎゆく空気と肌の間に何かが抵抗を生み出した。体温をさらに奪い取るそれは、潤いを示す。腕を撫でると、細胞に浸透していく感覚が時間をゆるやかに伸ばした。渇きを抜け出す道筋が見えてくる。
顔を上げると、視界が一気に開けた。
見渡す限りに栄えている翠の強者たち。少しばかり遠くには立派に育った樹々が守り主のように並んで、この清く尊い場を囲んでいる。天からのご加護を表すかのように、薄衣の霞がふわりと浮かんでは溶けた。
幻でも見ているのだろうか。そう思わすくらい、潤いに満ち足りている。いやしかし、ただ感心している場合ではない。何時で何処に居るのか、わかっていないのだから。
喉の奥、胸の中、やはりまだ呪いは解けていない。掠れた息をしながら、ぼんやりとまた辺りを見渡す。一瞬だけ見えた光の糸が、するりと姿を消してしまった。昇る太陽の光に紛れて隠れている。立ちはだかる樹々よりも高く昇っていく。
大地と空が大きなあくびをした。それはとても深くて、全身の寝ぼけていた神経を呼び起こすようなあくび。産毛がそわりと立ち、髪が乱れ、目を開けていられない。出会ったばかりの土葉の香りが運ばれる。
あくびが収まりはじめた頃。蒼く生い茂った木の葉たちでも享受しきれないほど、陽が溢れ出した。温かい黄金色の光に目が再び眩む。体内の炎が怯んでそわりと揺らいだ。陽を浴び続けて、段々と炎が強く大きく燃える。冷たい鎖が溶けていき、勇気と力が湧いてきた。光の中へと飛び込むように、両の足で立ち上がる。優しく包み込むように、体中が熱を帯びてゆく。潤いとはまた違った恵み。
太陽はさらに顔を出した。陽が広大な草原の上を伸びていく。光の線が何本も浮かび上がった。その先には数々の点が煌めいている。丸く透明な粒が日光を吸収して、内側から放出しているようだ。それも、幾つも。ひとつひとつに、積もり詰まって凝縮された、命の素朴で尊い輝きが宿っている。
近づいて見ると、それはぷっくりとした露だった。草の鋒でぽつんと留まっている。指先でそっと触れると、つんと冷たい感覚が儚げに神経を伝った。眠りから目覚めた時に感じた、大地の体温と同じ。ごくりごくりと肌が、細胞が飲み込んでいく。自然を、魂を頂いたようだ。
しかし、この潤いは、一体どこから生まれたんだ?
宙がまた、さわさわと踊り出し、草むらが律動的に波打つ。見えない何かが迫り来るような。草木がくすくすと笑っている。わからないのか、とからかうように。あともう少し、靄のかかった景色のほんの少しだけ先。
日がまだ昇る。雲がもこもこと湧き上がって流れる。歩みを止めない風。ふっくらとした葉を揺らす樹々。力強い幹は地中深くまで潜った根と繋がって、根は養分や水分を穏やかに分け与えてもらっている。それは小さく短い根を持つ草も同じ。与えられた分を懸命に吸い取って糧とし、逞しく美しく生きている。その豊かさは、その場にあるもので。豊かさのあまり。
考え込んで止まっていた肺に、爽やかな空気が流れ込む。
胸と頭と景色にまとっていた靄が、ふうっと柔らかに薄れていく。
緑による情景の洗礼、高らかな旋律の鼓動と、生命力の芳香。
突き抜ける気づきの瞬間。
そうか。答えはいつもすぐ側にあったのか。渇きはすでに満ちていたんだ。
この呪いは自分が自身に課したもの。何もかもに羨んで妬んで。足りない足りないと嘆いて。今有るものを無いものにしていた。ずっとずっと内側にあった根本的な何か。自分を自分たらしめる潤い。この大地と自然が湧き上がらせたものは、戒めであり証明なのだ。
ずっとずっと探していた。寝る間も惜しんで探し回った。昼夜という概念を恨みながら、悲鳴をあげる肉体も心も蔑ろにして。己の浅い部分をただ広げた。足りない足りないと亡者のように。奥に存在しているものを見出せずにいて。
でも、もがいた時間は無駄ではないと、自然がそっと慰めてくれている。その慈愛にも似た触れ合いに誘われ、思わず目から大粒の涙が零れた。長く仕舞っていた、青く黒かったはずの、余りにあまった澱みが。綺麗さっぱり、どこかへと消え去って、澄んだ水となって溢れ出た。自分から生まれたとは思えないほど温かくて、ぽろぽろりと頬を伝っては冷めていく。
浄化の余熱。
重力の宥め。
枯れていたはずの声が、ドッと腹から解放された。肺が勝手に伸縮して、苦しいのに止まらない。こんなに腑抜けた音を漏らす日が来るなんて。遠目で眺め、見守る樹の衆。それがどれほど心に安息を与えてくれたことか。
嗚呼。救われたようだ。
ぷかぷかと気持ちと思考が浮かぶ。涼しい微風が涙の跡を拭ってくれた。樹たちは変わらず、厳かで寛容な背中を見せる。足元の草たちが表情を窺うように傾いては戻る。露に隠れた涙の粒々。混ざって生まれた光景に清雅さを感じるのは、自惚れだろうか。しかし、今なら赦される気がする。ぼんやりと視界が滲んでいく。また意識が無へと引き込まれる。
だけど、夜も、眠ることも、もう恐ろしくない。深く底のない無意識に身を委ねる。そのことの安らかさが懐かしい。指先と目頭がぬくぬくと熱い。血がどくどく滞りなく全身を巡っている。じんわり、じんわりと。
空が鮮やかな青に染め直された。金色の尾鰭を伸ばし残して、太陽はどこか高くへと飛んでいった。雲は純白で軽やかに泳いでいる。このまま、草原の抱擁の中、そよぐ宙の手に撫でられながら。心臓がどくんと大きく脈打って、すとん。
こんな夢を見ている。玲瓏な潤いの銀水晶に囲まれていて。朗らかな強さと、ありのままの美しさを常に胸に抱いていた。大きな命と共鳴するように。長い息吹を吐いて。心と身体は、素朴で偉大な自然と繋がって、魂が緑に溶け込んでいく。
果てしない世に伸ばされた根と風を辿って、どこまでも駆けていける。
この夢は誓いだ。もう、渇くことはしない。
あとがき
こんにちは。初めましてな方は初めまして。人として生きることに難儀している物書きの霊魂、森悠希と申します。
物書きの趣味を細々と長く続けてきて、昔書いた作品が懐かしく思いまして。2023年に入ってから、それらを引っ張り出して、今のワタシなりに書き直してみようと決めました。今回の投稿は、その第一回目となります。
元の作品は「おはよう、朝露」というタイトルでした。趣味として物語や文章を書き始めた、本当に初期の頃に書いたものでした。幼さがたくさん残ったものだった気がします。わざわざ比較したい方はいらっしゃらないとは思いますが、物好きさんのために、元の文章のファイルを貼っておきます。
個人的に好きな感じの描写が詰まった文章となりました。元の文章から反省して、ちゃんとしたテーマも決めて、もっと強く押し出したつもりです。詳しく語るのは野暮ってもんなので、お任せします。
上手くなったかどうかは置いておいて、今の自分なりに大幅に書き直すことができた気がします。まだ荒いところが見受けられますし、また改稿することになるでしょう。が、ひとまず、リメイクはここで一段落とさせていただきます。
最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。森でした。また次回の作品でお会いできたら。