『恐怖の世界』正式リリース1周年に際して
『恐怖の世界』正式リリース1周年、おめでとうございます。
日本語版の翻訳を担当させていただいた藤田です。
もう1年が経つのですね。今まで様々なタイトルに関わってきましたが、色々と思い入れのあるプロジェクトだったということもあり、とても感慨深い気持ちになっています。部屋に飾られた灯台のポスターを見る度、ブースの試遊後にいただいた「お清めの塩」を見る度、このゲームに携われて本当に良かったなとしみじみ思います。
このゲームについて紹介するのは、すでに他のゲームメディアさんがしておられるので、私はこのゲームに対してどのように向き合ってきたのか、赤裸々に語り尽くすことで興味を持っていただくことにしました。本作については地球で3~4番目くらいに詳しいので、怒られない程度に何でも話せる特権をここで遺憾無く発揮しようと思います。
簡単に内容を説明しておきます。本作は伊藤潤二先生やCoC、TRPGが好きな方には大変オススメなゲームとなっております。
超自然的現象や都市伝説、クトゥルフ神話をベースにした邪神、伊藤先生が描くおどろおどろしくジメジメしたジャパニーズホラーなどが上手く融合した世界観で、単純に怖いだけでなく、何となく気持ち悪い(褒め言葉)感覚になれるゲームです。
※このような機会でないと筆をとる気が起きないので、しばし駄文にお付き合いください。
正式リリースに至るまで
晴れて正式に日本語版が発売された『恐怖の世界』。製品版リリースに至るまでの開発期間は約6~7年。企画・構想も含めれば、もっといくかもしれません。日本語化については、過去にも水面下で様々な検討が重ねられていたようです。その辺りの事情は開発者のみぞ知るといったところですが、彼の本業がそもそも歯医者さんであること、最初は学生時代に趣味でこのゲームを開発したこと、そして開発期間中に洪水被害に遭われたことなど、それ以外にも様々な要因が開発上のプロセスを阻害していたようです。
ただ、そういった状況でも日本のゲームイベントでデモ版を出しておられたり(TGS2018)、度々日本に(観光で)来られたり、開発期間中も日本語化に向けて意欲があったのは間違いなかったと思います。
実は本作の打診を受けた際、私も開発者もお互いにダブルワークをしておりました。ワンマン開発スタジオPanstaszの設立者、Pawel Kozminski(パウエル・コズミンスキ)氏はポーランドの歯医者さん。そして、伊藤潤二先生も元は歯科技工士をされながら、楳図かずお先生の漫画賞受賞に向けて原稿を出されていたという謎の共通点。
(現在、Pawel氏は歯医者を辞めて独立されたようです)
私が打診をいただいたタイミングは、会社を辞めて専業翻訳者として独立する"前"のことでした。それまでも他のゲームの翻訳はしていたのですが、このご依頼をいただいたのは「旧き神」のせいとしか思えないほどヤバいタイミングで、毎日がてんてこ舞いだったのを覚えています。昼は別の仕事をしていたということもあり、家に帰ったら始発の電車が間に合うくらいの時間まで作業を続けざるを得ず、まず寝れない。納品した時には、破滅値にして99%というところまで迫っていました。
その後、日本語で300個以上のバグチェック(全言語で1000個以上)と包括的な訳文修正が入り、この期間は他の仕事はほぼ全てストップ。収入は途絶え、あらゆる人に頭を下げ、あらゆる予定をキャンセルし、その代わりに私ができる全てを、ありったけの情熱をこれでもかというほどぶち込みました。この狂気の世界を言葉で彩るには、私自身も狂気に染まる必要があったのかもしれません。作りたいものがある人間には「執念」があり、彼らと二人三脚で走る翻訳者もまた、同量の「執念」が要るのだと身をもって知らされました。
振り返れば、本作には色々な思い出があります。
2022年の東京ゲームショウ。
私はそこで初めて、本作のデモ版翻訳を担当させていただきました。
以前からその注目度の高さは耳にしており、実際に依頼が来た時は皆様の期待に応えねばというとんでもない重圧と、自身も日本語でこのゲームをプレイしたいという興奮が混在して、ぐっちゃぐちゃな気持ちになったのを鮮明に覚えています。仕事中、胃腸炎になって何も食べれなくなったり、たった一つの言葉の解釈を巡って楽しい議論が始まったり、結婚したり、あまりにも設定情報に余白がありすぎて絶望したり、歯医者さんからの助言でガタガタだった歯の矯正を始めたり、あっという間に季節は巡り、アトゥ=ヨラズスは地球の外で周回し、クトゥ=ルフは今か今かと星辰が揃う時を待ち続け、ようやくリリースの時を迎えた次第でございます。正直、リリースの日を迎えるまで、苦労がなかったとは言えません。ですが、それ以上にゲーム翻訳者としてこの上ない幸せを味わわせていただきました。
「日本語化してないのに日本にクトゥ○フ召喚すんな」
リリース前、とある媒体でこんなコメントを目にしたことがあります。
いざリリースされて分かりましたが、このゲームの面白さに気づいてくださっている / 気になるけど日本語がないからできない...と思っていた方々は想像以上にたくさんいらっしゃったようです。色々な都合で日本語化が立ち消えてしまうタイトルも多い中、無事に7言語フルリリースとなったのは裏でご尽力いただいた方々のおかげです。まずは開発者のPawel氏、本作のパブリッシングを手がけてくださったPLAYISM様とYsbryd Games様、関係各社の方々、この長い道のりを共に歩いてくださった皆様に感謝を申し上げたいです。とにもかくにも、令和の世においても決して色褪せることのない本作の魅力が、日本語化によって引き出せていれば幸いです。
込めた思い
翻訳にあたってはホラー漫画界の巨匠・伊藤潤二先生の漫画を改めて読むことから始め、オンライン/オフライン含めたクトゥルフTRPGへの卓参加、関連書籍(ルルブなど)の読み込み、英語版を約200時間プレイ(実績・謎・キャラなどの全アンロック)、後発のバージョンアップでは改訂された表現を確認し、panstasz氏のパトロン(https://www.patreon.com/worldofhorror/posts)になって初期からの開発情報をチェックし、塩川のモデルかもしれない場所を実際に巡ったり、公式Discordでの海外ファンが繰り広げる激アツな議論を見たりするなど、本当に色んなことを裏でやっていました。
これらはほとんどお仕事の打診をいただく前にしていたことです。ですが、実際に仕事の打診をされる保証は全くありませんでした。
度々「私に担当させてほしい」と各関係者に連絡していましたが、その場で明確な答えを得られるわけでもなく、ただただ悶々とする日々が続きました。(秘密保持があるのだから当たり前)
そんなこともあり、本当にお仕事の連絡が来た時は嬉しくて思わず職場のトイレでジャンプしてしまいました。
「ゲーム翻訳」というと、皆様はどのようなイメージを持たれるでしょうか?本作は確か2017年から早期アクセス版がSteam上でプレイできたこともあり、その時点で公開されていたコンテンツは容易に確認することができました。ですが、これはポーランドの歯医者さんが手がける処女作。開発者は一人、尚且つMSペイントで描画をされている以上、全プロセスにおいて開発が優先されるのは当然で、それゆえに多言語展開の準備をするにも様々な苦労がありました。まさか開発当初はPC以外のコンソールに移植するなど夢にも思わなかったでしょう。実際、私も直前まで知らなかったので驚きました。
本作は「ただローカライズすること」ができません。開発者の頭を覗こうとするくらいの勢いで、かなり綿密に事前情報を調べる必要がありました。
というのも、本作にはクトゥルフ神話や伊藤先生の漫画以外にも、日本あるいは海外由来の小ネタがこれでもかというほど詰め込まれているのです。
どれくらいかというと、おそらく全てのテキストやキャラに元ネタ/インスピレーションを受けた部分があるんじゃないかと勘ぐってしまうほど。Pawel氏は昭和の日本への解像度が異常に高いのです。関わっていた分、まあまあ詳しい自信はあるんですが、未だに想像が及ばない部分もあります。
仕事を引き受ける前にしていたことの数々。それらは今思えば、間違いなく必要な準備だったと思います。先程、伊藤潤二先生の漫画やクトゥルフ関係の本を読み漁ったみたいなことを言いましたが、これは他のゲームでも当たり前のようにやっている準備です。元ネタに気づけるかどうか。そして、開発者の作りたいものは何か。そこを推察するには今のAIでは限界があると思います。何しろ足が無いんですから。私は日本にいようがいまいが、ゲームのモデルとなった土地に行ったり、関係者に会いに行ったりします。「動き」を伴った訳を世に送り出すことで、開発の思い描く世界に少しでも寄り添いたいのです。もちろん「動き」が無いのが悪というわけではなく、私にとってはその方が作品に入り込みやすいというだけの話です。
で、特に海外ファンがDiscordで繰り広げていた議論は、訳を考える上でとても参考になりました。海の向こうにいる恐怖の世界のファンたちは、今でも東京の電車くらい止まらないホットな議論を続けています。直接関わることはありませんでしたが、その熱意に勇気をもらっていました。本当に、本当にありがとうございました。
翻訳という面では、ビジュアルノベル的な読み心地や80年代の日本という時代性を考慮し、セリフ上のカタカナ文字や難読文字のフォント、二重カギ括弧などの表記は開発と相談の上、一部変更しました。
また、読みやすさについてもできるだけ配慮したつもりです。ただ、「1バイト」の英語と違って日本語が「2バイト」であることから文字数制限の問題(枠からのはみ出し)が作業後半で発覚したり、説明文を中央配置から左揃えにする余裕もなく、テキストに多少の読みづらさが生じてしまったり…こちらが確認できていない範囲で、変な位置での改行や枠からの文字はみ出しなどがあるかもしれません。行頭に句読点が来ないように調整すること(難しい言葉で「禁則処理」と呼ぶ)は時間ギリギリまで行いましたが、徹底してできなかったのは私の力不足でしかなく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
※私は主にSteam版での翻訳作業に従事していたため、コンソール版への移植については関知しておらず、別会社の管轄となっております。プレイヤーの皆様からすると混乱を招くかもしれませんが、上記の理由でお問い合わせ窓口は異なるということを予めご了承ください。
仕事については妥協しづらい性格なので、「これは全部仕様です」とは口が裂けても言えません。クリエイターが汗水垂らして作り上げた作品を、体のいい言い訳で流すことなど心情的にできないのです。そのため、訳の方針として開発者の魂の色が薄まらないように留意しました。
あまり他のゲームでは見られない独特な表記(キャラのセリフを<<○○>>で括るなど)や、開発がハードコードで埋め込んだ機械翻訳はあえてそのままにしました。また、プレイヤーをびっくりさせる演出(いわゆるジャンプスケア)や、テキスト表現を抑え気味にしたり、そういった無駄なことは一切していません。思いっきりやらせてもらいました。CERO Dですからね、はは。ぜひ、様々な方の魂をのせた恐怖を存分に味わっていただければと思います。
最後に小話を。探索者たちが調査する謎タイトルの「頭韻を踏む法則」や「海外でしか知られていないミーム」については、開発者の意図に寄り添いつつ、日本人やホラー好きな方々に馴染みやすい表現に置き換えるなど頭をひねりながらローカライズをしました。それらが英語版でどのようになっているのか、見比べていただくのも面白いかもしれません。
このゲームが持つ陰鬱でどろどろとした雰囲気はそのままに、開発者が長年心血を注いで作り上げたこの作品を、短いテキストから伝わる息遣いを、そのまま皆様にお届けできるように心を砕きました。果たして、それは上手くいきましたでしょうか?
これから塩川に向かう探索者の皆さんは部屋の電気を消して、ヘッドホンやイヤホンなどでプレイしていただければ、よりこの恐怖の世界にどっぷり浸かれるかもしれません。
そして、その場で飛び上がるほど怖がっていただければ、翻訳者としてこれ以上の幸せはありません。
あ…どうやら、塩川行きの電車が来てるみたいですね。どうぞ、怪異には気を付けて、行ってらっしゃいませ。
お仕事のご依頼や、翻訳に関係ないご相談もどしどしお待ちしております。お気軽にご連絡ください。
メール:fujitayuki.jp@gmail.com