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突出した武器を持っていればいい

小学生のころ、通知表はぜんぶ「とてもよくできる」いわゆるオール5の評価をもらっていた。
中学生になって徐々に悪くなった。高校受験には通知表の総合得点がもろに響くため、足を引っ張っている苦手な教科を改善しようと努めた。


弱みを改善して何でもまんべんなくこなせる、五角形のチャートができるだけキレイな形を描く人間にならなければいけないと強く思っていたが、社会人になってみると意外とそうではなかった。

むしろ就活では自分の特徴・得意なことを披露しろと言われる。自分の個性って何なのか、はじめて真剣に向き合っては頭を悩ませた。


自分の弱い部分の克服ばかりに気をとられ、自分の個性に目を向けることがなかったのだ。


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高校サッカー選手権の大阪府決勝で、履正社高校との死闘を繰り広げた興国高校。全国大会は逃したものの、めちゃくちゃ強くていいチームだった。

Jリーガーを多数輩出しているという興国高校の育成方針は、個性を伸ばすことである。


興国では選手の個性を尊重しながらも、組織の中でも輝ける選手の育成を考えて指導しています。そのため入学直後の選手には、チームカラーで縛りつけるようなことはせず、選手がやりたいと思うプレーをまずはしてもらいます。
(中略)
もっとも、個性とチームプレーは相反するものだったりします。わかりやすいのは、特筆すべき攻撃能力を有しているけど、守備をしない選手。僕の場合、メンバーから外すのではなく、起用しながら「もっと活躍するには守備もできなければいけない」と意識改革を促します。

根っこがなければきれいな花は育たない<サッカー育成年代のカリスマ指導者が明かす「最強マネジメント術」>内野 智章


監督のいるチームスポーツ、強豪校だとさらに「監督の言うことは絶対」だというイメージがある。

また、学校教育の現場で規律性を重んじるために「連帯責任」を課されることがある。自己主張をしてしまうと出る杭は打たれてしまう風潮が否めない。
興国高校の内野監督も著書で触れ、学校教育の現場でもっと個性や多様性を認めるべきだと言っている。



学校教育の現場では画一的な教育がされ(致し方ないが)、全員が平等に同じようにできることが良しとされる。できればオール5・キレイな五角形に近づくことを目指しているように感じる。

そういう学校教育がベースにあるため、わたしたちはいざ社会へ飛び出すまでに自身の個性を見失ってしまうのではないだろうか。


無論、弱い部分の克服をしなくていいとは言っていない。自分の主となる個性を伸ばしつつ、周りの足りない部分を埋めていくということだと理解した。
学生時代、こんな風に指導してくれる人がいるのはラッキーだろうなと感じる。


日本には、最初から何でもできる選手を育てようとする指導者が多いと感じています。その結果、何でもそこそこできるけれど、武器を持たない選手がたくさん生まれているのだと思います。

根っこがなければきれいな花は育たない<サッカー育成年代のカリスマ指導者が明かす「最強マネジメント術」>内野 智章



わたしは全くサッカー経験者ではないが、サッカー選手への憧れがすごく強い。生まれ変わったらサッカー選手になりたい。


そんなかっこいいサッカー選手たちは全員、何でも器用にできる、完璧な五角形の側の人間かと思っていた。

もちろん突出したものが凄すぎるのと、本人の努力の賜物だということは大前提で大尊敬しているが
完璧な五角形にできない自分を後ろめたく思っていたわたしにとって、ほんの少しだけ勇気になった。


「初めはできないプレーが多くても、突出した武器を持っていればいい」




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