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【考察】映画「君たちはどう生きるか」を、僕はこう解釈した【ジブリ】

【注意!!】
本記事は映画本編のネタバレを多大に含んだ内容となっております。
また、僕自身、ジブリの熱狂的なファンという訳でもなく、民俗学や考古学などに精通している訳でもない、ただの一般視聴者です。
個人的な解釈を中心に述べておりますので、誤解している部分や間違っている解釈もあることかと思います。ご了承くださいませ。
それでも大丈夫という方だけ、スクロールしてご拝読お願いします。

 宮崎駿監督にとって10年ぶりの長編監督作品である「君たちはどう生きるか」。映画公開まで、キービジュアル以外の情報を徹底的に隠してきたに本作について、僕が感じたことを気の赴くままに書いていこうと思います。
 まずは簡単にあらすじの振り返りから。

 母親を火事で亡くした少年眞人は、新しい母親である夏子が待つ「青鷺屋敷」へと引っ越しをする。そこに待ち受けていたのは、言葉をしゃべるアオサギと不思議な世界。眞人はその中で、創造主である大伯父と出会い、生き方を決めていく——。

 キービジュアルを見ただけでは、まさかこんなにもスケールの大きな話が出てくるなんて夢にも思いませんでした。
 Twitterの初動を見ていると、「なんだかよくわからない」という意見や「これまでのジブリの寄せ集め」なんて酷評も出ていたので、一歩引いた態度を取りながら過剰に期待をしないよう、僕は劇場に足を運びました。

「かなり良かった!」というのが素直な感想です。
 冒頭の炎の描写は圧巻だったし、物語が進むにつれて描かれる、眞人の心理描写は「さすがジブリ!」という感じがしました。
 ただ、Twitterでも言われている通り、難しい話と言いたくなる気持ちもわかります。ディズニーやマーベル作品と違って、完全に受け身で楽しめる作品ではありません。視聴者側の”面白さを探しに行く積極性”が必要にな作品だと思います。

 だからこそ、なぜ面白かったのか、その正体を突き止めたい。
 こうして筆を執ったのは、僕自身も、この作品の面白さを整理したいという気持ちがありました。長くなると思いますが、お付き合いくださいませ。

1.僕が感じ取った、作品のテーマ

 いきなりですが結論。
 エンドロールが終わり、館内に明かりが灯る。ドリンクのゴミを捨て、沸々と込み上げてくる感情を意識しながら映画館を出た僕は、一緒に映画を観に行った相手から「どう思った?」と聞かれました。
 僕はその時に答えた感想がこちらです。

『夏子をお母さんと呼んで、アオサギを友達と呼んで、自分の周りの人物をどういう立ち位置か決めていくことで、世界は作ることができる。つまり、君たちはどう生きるか、ってことなんじゃないかな?』

 ……伝わってますかね(笑)。
 この感想は、観終わってから2週間以上経つ今でも変わっていません。

 ただ、これを説明していくためには、僕が物語全体をどう感じ取ったのか共有しなければなりません。その経緯を章ごとに話していきます。

2.「君たちはどう生きるか」シーンごとに考察

物語の序章(頭に傷を作るまで)

 物語の序盤には、眞人の心の葛藤がいくつか描かれています。特に印象的に描かれていた部分として、大きく4つ、眞人の心境も予想しながら挙げていきたいと思います。

シーン①東京から人里離れた「青鷺屋敷」へ引っ越し。

 終始仏頂面の眞人。おそらく、引っ越しをすることに眞人の意思は含まれていなさそうですね。父親の傍若無人な性格からして、反論しても無駄と悟っているかもしれません。眞人は一見、礼儀正しく、世話のかからない少年という印象でしたが、その内側から「絶対に懐柔されないぞ!」という強い意志を感じました。

シーン②母が火事で亡くなってから一年後、母の妹である夏子と再婚。

「妻の妹と結婚!?どういうこと!?」って思いながら観てました(笑)。
 ただいろいろ調べてみると、この時代にはそういう形の再婚が割とあったみたいで、順縁婚やソロレート婚なんて言う名前があるくらい、認知はされているそうです。

 眞人は新たに母親となる夏子に対して、他人のような態度を取っています。夏子から話しかけられても、無視とまではいかないですが、心を閉ざしている描写がいくつかありました。眞人にとっては、亡き母こそが本当の母。心の傷が癒えていないのは、当然というべきでしょう。

シーン③夏子の口から、お腹の中に新しい命を宿していることを知らされる。

 もしかしたらすでに父親から聞かされていたのかもしれませんが、心の傷が言えていない眞人にとって、新しい母親と同等に受け入れ難い話だったことでしょう。

 現代を生きる我々の感覚からしても、あまり馴染みのない話ですよね。
 母親が亡くなってから一年で結婚して、すでに身籠っているだなんて……‼ 母親が病気と闘っている間、夏子に手を出していたと考えてもおかしくはないのですから……。

シーン④転校先の学校で馴染めない。あるいは、馴染みたくない。

 丸坊主の男子たちに比べて、眞人は耳にかからない程度に髪を伸ばしています。いかにも都会から来た転校生という感じがして、ここの対比はわかりやすくて良いですね。
 また、父親の提案で車で登校したり、小綺麗な制服を着ていたり、明らかに眞人は他から浮いていました。その上、ちょっかいをかけられただけで殴り合いのケンカをしてしまう。馴染むどころか、馴染みたくないという意思を感じます。

眞人の心理。頭に傷をつくった理由。

 これは僕の憶測ですが、眞人は上の4つシーンに対して、自分が変わらなきゃいけないことを理解しているのだと思います。
 ただ、納得はできていない。
 夏子のことを「お母さん」と呼んだ方が良いし、家族として向かい入れる姿勢でいた方が良い。学校では愛想よく振る舞って、友達を作った方が両親も喜んでくれるだろう。頭ではわかっている。でも納得できない。なぜなら眞人にとって、お母さんは夏子ではなく、絶対的に久子なのだから。
 そんな「受け入れたくない!」という葛藤がピークに達した時、眞人は衝撃的な行動に出ます。

 そう。落ちていた大きな石で、頭を打ちます。

 眞人は、頭の中に巣食う「悪意」を壊したかったのではないでしょうか。
 悪いのは自分の考え方なんだ。すべてを受け入れて前に進めば良い。それはわかってる。でもそうしたくない。
 11歳の眞人にとっては母の死は、そう簡単に割り切れる話ではありませんよね。彼にとっては、頭を傷つけることでしか解決できなかったのかもしれません。
 あの傷は、眞人の心の苦しみと、のちに語られる「悪意」の具現化だと僕は感じました。

物語の中盤(死と生の世界について)

 このあたりからいきなりリアリティレベルがガクンと下がりましたね。
 綺麗な青鷺が登場したかと思えば、突然歯茎を剥き出しにして喋り出し、挙句にはかわいらしい?ハゲ頭のおじさんがくちばしの中から姿を現します。
 そしてアオサギの挑発に乗る形で、手作りの弓を携え、失踪した夏子を探しに死と生の世界へと向かいます。そこでは若かりし頃のキリコさんや炎を操るヒミ様、インコの王国と出会います。

なぜファンタジーにする必要があったのか?

 そもそも、なぜこの物語をファンタジーに仕立て上げたのでしょうか。
 眞人が抱えた問題を解決するなら、別にファンタジーじゃなくても良かったはずです。ジブリ映画なんだから、そこまで深く考えなくてもいいと思われるかもしれませんが、戦時中という時代背景を描いている以上、ファンタジーの世界に大義がなければならないと僕は思います。

 これは作り手側の都合が大いに関わってくると思っているのですが、眞人にはタイムリミットがあり、それまでには「悪意」と向き合わなければなりませんでした。
 何の時間かと言うと、赤ちゃんが産まれてくるまでの時間です。

 普通の人生であれば、眞人が抱いている葛藤は時間と共に軟化し、少しずつ許せるようになってくるものだと思います。
 ただこの物語において、「悪意」を抱いたまま生まれてくる赤ちゃんと出会ってしまうと、眞人の心の葛藤をさらに複雑化させてしまい、夏子や父親、自分自身をも許せなくなってしまう恐れがありました。
 だからこそ作者は救いの手を差し伸べなければならない。
 それを担うのが、ファンタジー世界という設定なのではないでしょうか。

死と生の世界について


 作中のファンタジー世界のことを「死と生の世界」と僕は言い表していますが、これは劇場パンフレットに記載があった「生と死の世界」から引用しております。
 ただ僕の感覚的に、生から死ではなく、死から生に繋がっていく世界だという感じがしましたので、あえて逆で言い表しておりました。

 そして今僕は、死と生の世界と一緒くたにしていますが、作中では「死の世界」と「生の世界」の間には見えない隔たりがあったように思います。

 キリコや船を漕ぐ人、ペリカン、わらわらがいる世界が「死の世界」。

 インコ王国と大伯父が控える世界が「生の世界」。

 それぞれの世界を深掘りしていくために、まずはペリカンといセキセイインコの意味について考えてみます。

死の世界とペリカンについて


 死の世界にたどり着いた眞人を最初に迎えたのはペリカンたちでした。墓の門の先を見つめていると、眞人の背中を押すように、ペリカンたちが群がってきます。何かに急かされているのでしょうか。墓の王の前なので、死に場所を求めていた、という捉え方もできるかもしれないです。
 また、他の鳥たちと比べると、現実世界のペリカンに則した見た目をしておりましたね。そこにも意味があるのでしょうか。

 ペリカンについて深掘りしていく前に、まずその世界の創造主、大伯父について考えていく必要があります。

 世界を築く役を担った大伯父は、13個の白い積み石を積むことで自分の理想とする世界を築きました。
 さて大伯父は一体どんな世界を築きたかったのでしょうか。

 想像するに、悪意が一切ない優しさに満ちた世界を築きたかったのではないでしょうか。
 ですが、皆様よくご存知の通り、悪意なき世界など存在しません。
 人はそれぞれの正義のために争います。
 その最たる例が”戦争”です。

 大伯父は優しい世界を作りたかった。しかし、大伯父の理想とは違い、人々は正義のために争いを起こしてしまう。ようするに、失敗してしまったのだ。だからこそ、”創造主”という任を次の世代に託したかった。そこで眞人が選ばれたのです。

 ペリカンはそんな戦争の”被害者であり加害者”です。
 キリコの家の甲板で、傷だらけの老ペリカンはそのようなことを言っていましたね。本当はわらわらを殺したくはないが、自分たちが生きるためにはそうせざるを得ない。まさに現実に起きた戦争を模しているようなシチュエーションです。

生の世界とセキセイインコについて

 火や道具だけでなく、言葉すら扱えるようになったセキセイインコ。それだけでなく、インコたちは意思を持ち、一国を築くまでに進化しています。それはさながら人間のようでした。 もしかすると、他の動物から見た我々人間も、この世界のセキセイインコたちのように、恐怖に満ちたビジュアルをしているのかもしれませんね(笑)。

 我々が住む現実世界のセキセイインコは、昭和の頃にペットとして多くの飼われブームとなった外来種です。飼育放棄によって、多くのセキセイインコが野生化したことなど社会問題になった例もあります。
 作中のペリカンが絶滅寸前なのと違い、セキセイインコは数が増えすぎてしまったような印象です。キリコの家に入った時やインコ大王を激励する彼らの人口密度はすごかったですね。
 これは大伯父も当初、予想していなかったのではないでしょうか。
 もしかすると飼育放棄で犠牲になったインコたちが、偶然死と生の世界に迷い込み、そこで独自の進化を遂げてしまったのかもしれません。
 死だけではなく、生も歪になってしまった世界。
 これはファンタジー世界に限らず、私たちが生きる現実でも似たようなことが起きています。

物語の終盤(夏子と再開、眞人と大伯父の対峙)

 さて物語もいよいよ終盤です。
 ヒミの協力を得て、眞人は夏子と再会を果たします。産屋の中は大量の紙垂で守られていました。紙垂は鳥居などにも使われる神聖なもの。悪いものを寄せ付けさせない性質があります。眞人が産屋へ入ると、紙垂は龍のような形で牙をむき、眞人は拒絶しておりました。
 また夏子自身も、冒頭の優しい表情とは打って変わり、悪意剥き出しの顔をしておりました。

 この時の夏子は陣痛のストレスに加えて、眞人が懐いてくれないことへの不安でいっぱいだったのではないでしょうか。眞人は何度も家を出ては、夏子やおばあちゃんたちに世話をかけておりました。これから自分の子どもとなるのに、懐く気配が全くない。
 子どもの眞人なら、そういう態度を取られた時、同じように態度で意思表示をしても許されますが、夏子は大人の女性です。大人は「我慢をする」ということを知ってます。「大っ嫌い!」と叫んだあの瞬間まで、我々は夏子が抱えていたストレスを知ることができません。それほどまでに、彼女は不安をひとりで抱えていたのでしょう。だからこそ、目の前の悪意から離れたくて、死と生の世界の産屋に来たのではないでしょうか。

 夏子と再会を果たせたのも束の間、今度はヒミと眞人がセキセイインコに捕まってしまいます。その後、アオサギが助けに来てくれたおかげで間一髪逃れることができ、そのまま大伯父の元へと向かいます。

 先ほど大伯父の話に触れましたが、大伯父は眞人に「より良い世界を作りなさい」と言って、世界の命運を託します。
 そしてご存知の通り、眞人は大伯父の望みを拒否しました。

 では、なぜ拒否したのでしょうか。

眞人が考える、世界の在り方

 眞人は大伯父と対峙するまでの間に、様々なことを学び得ております。
 母親が残した「君たちはどう生きるか」の小説を読み、自らの心に巣食う「悪意」を受け入れるという選択をしました。夏子のことを「母さん」と呼び、アオサギを信頼し、友達と呼ぶ間柄になりました。

 ここで僕が最初に言った結論に戻ります。
 つまりこのシーンで、

自分の周りの人物をどういう立ち位置か定義することで、
積み石を積まなくとも、世界はいかようにも変えることができる。
眞人はそういう選択をした。
この映画を見ている諸君はどうだ?

 どれだけ純白な優しい世界を目指したとしても、人間に悪意の感情がある以上、それはかなり難しい目標です。
 ならば悪意を受け入れ、その上でどう向き合うかを考えた方が良い。
 それはおそらく長い年月がかかるし、たくさん考えなければならない。一朝一夕で解決してくれる問題でもない。第三者の誰かが決めてくれるものではない。そうしていつかは、自分の世界が構築され、あなたにとって有意義な人生が訪れる。

 そんなメッセージを僕はこの映画から感じ取りました。

ラストシーンからエンドロールまで

 インコ大王が積み石を崩し、死と生の世界は一気に崩壊へと向かいます。出口はもちろん、あの無数の扉です。扉の番号にもなにやら意味がありそうですが、僕の知識ではわかりませんでした。きっと他の方が明かしてくれることでしょう。

 長かった冒険もここで終わりです。ヒミとキリコ、眞人と夏子、それぞれ別のドアノブを握ります。ヒミと眞人は本来、”母親と息子”の関係です。当然、同じ時代を生きることはできません。

 眞人の心情としては、やはりヒミ(久子)に生きていてもらいたい。
 病院が火事になり、家を飛び出したあの日、眞人は子どもながらに、母を助けられなかったことを後悔していたのではないでしょうか。
 別れ際、「眞人のお母さんになる」と言うヒミに、眞人は「火事で死んでしまうよ」と言い、母親の最期を案じております。それに対してヒミは「火は平気だ。それに素敵じゃないか。眞人を産めるなんて」と返しました。
 死ぬことよりも、生きることの素晴らしさを説くようなこのセリフ。
 短いですが、なかなかに秀逸なセリフだなと思いました。

 その中でも、「火は平気だ」という発言について考えてみましょう。
 彼女の力のことを思えば、何の変哲もないセリフに感じます。だけど、このセリフがあることで、もしかするとヒミ(久子)は、燃え盛る炎の中、苦しまずに、天寿を全うすることができたのかなと想像させられます。

 ヒミと別れを告げた眞人は夏子と共に元の世界に戻ります。
 そういえば、眞人が現実世界に戻ってから、エンドロールが流れるまでの間がかなり短いように感じました。人によっては唐突に終わったような感じ方をするかもしれません。気がつけば戦争は終わり、赤ちゃんは大きくなっており、眞人の背も少しばかり大きくなっていたように感じます。

 後腐れなくさらっと物語を終わらせたのは、タイトルでもある「君たちはどう生きるか」という命題について、考えてもらいたかったからではないでしょうか。
 眞人が死と生の世界で得た体験を持ち帰り、現実世界を強く生きていくように、僕たちも劇場という空想世界で得た体験を、なにかしら現実世界に投影してもらいたかった。眞人が最後に持ち帰った一つの積み石には、そんな意味も含まれているように感じました。 

3.全体的な感想

 映画を観に行く前に、僕はTwitterでいろんな人の感想を見ました。
 その多くが、「よくわからない」「難しい」といったもの。その時はレビューサイトの評価もあまり良くはなく、批判的な意見もはありました。
 ただ僕は結果的に、この映画を「良い作品」だと思っています。
 他の作品と比べることはもちろん、大衆的な物差しで測って評価を下すような作品ではありません。米津玄師さんが地球儀ラジオでおっしゃっていた言葉を借りると、この作品は「象牙の塔」です。宮崎駿監督のこれまで培ってきたアニメーション映画に対する想いや人生経験が生み出した一つの”芸術的至高”なんじゃないかと思います。

4.アオサギの視点からも考えてみる

 ここまで主人公の視点やそれに付随する他の登場人物について語りましたが、肝心のアオサギについて触れてこなかったので書き足させていただきます。

 前情報ほとんどなしで見ていたので、菅田将暉さんが演じていると知り、かなりの衝撃を受けました。完全にアオサギの声でしたね。
 さてアオサギについてどういうキャラクターだったか、僕なりの印象を書かせていただくと、ずばり「仲間が欲しかった」です。

 アオサギについて一番印象的に残っているのは、老ペリカンを埋めた後、キリコと三人で食卓を囲むシーンです。
『全ての青鷺は嘘つきだと青鷺は言ったが、それは本当か』
 この問いにアオサギは「その嘘は本当だ!」と言いましたね。
 これがもし「その本当は嘘だ!」だったら、アオサギは本当の嘘つきって感じがしますが、ムキになって「本当だ!」という彼の口調には真実味があったように感じます。

 また、彼のビジュアルにも言及していきます。
 大きなくちばしから出てくるアオサギは、背が小さく、でかっぱなで、禿げ頭のおじさんです。元は人間だったのでしょうか? どういう経緯であの魅力的なビジュアルになったかはわかりませんが、彼は容姿についてコンプレックスを抱いていたと思います。その反動から、美しい見た目の青鷺に変身するようになったのではないでしょうか。

 もしかすると人間時代のアオサギは、容姿が原因で周りから煙たがられていたのかもしれません。今でこそルッキズムという言葉があり、寛容になっていく流れがありますが、昔の時代は、今よりも差別が濃かったように思います。
 容姿が原因で人から避けられていたアオサギは、周りの気を引きたいがために嘘をつくようになり、嘘が原因で相手にされなくなってしまったのかもしれません。嘘に嘘を塗り固めている状態です。寂しさを覚えたアオサギは、何らかの方法で青鷺に変身できるようになり、”嘘つき”という生き方を覚えてしまったのではないでしょうか。
 先述した「嘘か本当か」のシーンで、アオサギはこんなことを言ってます。「ずるいのは自分が生きる知恵だ」。嘘で生きてきたアオサギらしいセリフかもしれませんね。

 最初は騙すつもりで眞人に近づいたアオサギですが、悪意を受け入れるようになった眞人にとっては、アオサギの悪意も許容範囲内です。いがみ合いながらも受け入れていく眞人に、アオサギも段々と心を許すようになり、最終的にはインコに捕まった眞人を助けるまでに至ります。
 大伯父との対面で”友達”と言われたことは、内心嬉しかったんじゃないかと思います。

5.まだまだわからないことだらけ!

 この映画について考察記事を書いているにも関わらず、正直まだわかっていないことがたくさんあります(笑)。
 墓の主とはなんなのか。門に刻まれた「ワレヲ學ブ者は死ス」の意味は。キリコとヒミはあの世界でどういう役割をしているのか。船を漕ぐ黒い人たちは何者なのか。わらわらとはなんなのか。挙げたらきりがありません。
 その辺りについて、同じように考察記事を挙げている方にヒントがあるかもしれませんし、もう一度映画を観ると、わかってくる部分もあるかもしれません。引き続き、考えていきたいと思います。

 長々となりましたが、ここまで読んでくださってありがとうございます。
 もしかするとこれまで語った考察のすべてが僕の妄想なのかもしれませんが、それでも僕なりの解釈で、宮崎監督からメッセージを受け取ったつもりでいます。会話と違い、映画は一方通行のコミュニケーションなので、受け取り方に個人差はあってしかるべきだと思います。でも、「何かを受け取った」という感覚さえあれば、それがその人なりの「面白い」に繋がるはずです。僕はそう信じております。
 僭越ながら、この記事が「君たちはどう生きるか」の面白さを示す一助となりますよう願っております。

飛由ユウヒ




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