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掌編小説『銭と絆創膏』

 目の前の背中になにを思うでもなく、社会の対流に身を任せていたはずだった。
 頭が真っ白になる。茶坂は行く手を阻まれ、えっ、と声を漏らした。赤い警告音。人混みから飛び出る舌打ち。手に持った定期券。寝ぼけた意識がすこしずつ戻り、そうだ、更新してなかったんだ、と思い出す。
 体を小さく丸めながら、へこへこと改札を抜け出る。まるで不良品にでもなったような気分だった。
 窓口から小綺麗なスーツの行列が伸びていて、茶坂もそこに並ぶ。財布の中身を確認すると、欲しい分だけの金額が用意されている。余裕はない。空っぽになることを思うと、やるせない気持ちになる。
 仕事にだって、行きたくはないのに。
 前の太った男性が横にずれ、前の方どうぞ、と呼ばれる。
「一か月、更新お願いします」
 その言葉を口にした瞬間、なにか途方もない覚悟を強いられているような気がした。紙幣を抜く手が止まる。――定期券をお願いします、どうかされましたか、と呼ばれる声が遠い。
「ごめんなさい。やっぱり、だいじょうぶです」
 茶坂は列から外れた。電光掲示板を見上げると、路線の名前が点滅している。
 突然、肩に衝突があった。
 ぶつかった相手は振り返ることもなく、走って改札を抜けていく。文句を言う隙もない。出発時刻が迫っていた。茶坂は壁一面の路線図から、職場までの運賃を慌てて探す。
 六五〇円。
 その金額が妙にかわいく思えた。
 切符を手にすると、人の流れに戻る。階段を下りた先に、開いているドアが見えた。足がもつれそうになりながらも、そこを目指して走った。

「えー、更新しなかったの」
 北春のハスキーな声が夏の喫煙所に響く。太陽に限りなく近いビルの屋上。青いベンチに並んで座りながら、茶坂は冷えた缶コーヒーを喉に流し込む。
 灰皿へと伸ばす彼女の手から、最近変えたばかりというターコイズのネイルが見える。彼女はアスファルトに横たわるパンプスをつま先で日陰の外へと追いやり、ため息をついた。お金持ってなかったの、と尋ねる。持ってたよ、と茶坂が返す。
「だったら払っちゃえばよかったのに」
「そうなんだけどさ、なんか払っちまうと、最低でも一ヶ月頑張らなくちゃいけない気がしてくるんだよ」
「あー、なんかわかるかも。わたしは逆に、自分に鞭打つつもりで定期買ってるけどね。あと高いコスメ買ったときとかも、仕事頑張ろうって思うよ」
「きっとそれが正しい生き方なんだろうな」
 しっかりしてんなぁ、と残りの缶コーヒーを飲み干す。
 北春は唯一生き残った同期だ。茶坂は煙草を吸わない。が、彼女の喫煙に付き合う昼休憩をえらく気に入っていた。
 胸ポケットから振動が走る。スマホを取り出すとメッセージが数件届いていた。こずえちゃんからでしょ、と冷やかしの声が聞こえる。北春の予想通り、それは同棲している恋人からだった。文面から、彼女の慌てっぷりが目に浮かぶ。
《会社行く途中で自転車がパンクしちゃった! 修理代、千三百円も取られちゃったよ》
 千三百円という金額に、胸がざわつく。
 茶坂は返事を打ちながら、「こずえがさ」と話しかける。
「自転車、パンクしたんだと」
「こんな暑い日に災難だったね」
 茶坂は、そうだな、と答えた。朝の天気予報では、日傘を推奨していたことを思い出す。
「……同じ金額なんだよな」
「なにとなにが?」
「自転車の修理代と、今日の電車賃」
 彼女は脚を組み直し、煙草をくわえる。そして暑さを恨むかのように、太陽に向かって煙を吐いた。茶坂は一連の動きが終わるのを待ってから、話を再開する。
「こずえが払った千三百円は必要なものだと思うんだ。でも俺の千三百円は、いったいなんのために払ったんだろうな」
「そんなこと、わたしに聞かれても」
 意味わかんない、という顔を向けられ茶坂はたじろぐ。説明が悪かったのかもしれない。今一度、言葉を整理する。
「千三百円って、仮に定期を買っていたら出てこなかった金額な訳だろ。いまさらだけど、もったいないことしたなって」
「へぇ、後悔してるんだ」
 静かにうなずく。
 金額が同じというだけで、なんの関連性もない。ましてや別々の財布から出ている。どちらか片方の金額が倍になったという話でもない。
 千三百円あればなにが買えただろうか。ひび割れたアスファルトの形を見つめながら茶坂は考える。意外と、贅沢ができるような気がした。
「それならさ」北春は指で挟んだ煙草を見せつけて言う。「わたしが吸ってるこれはどうなる訳?」
「どうって?」
「健康に悪いし、税金は高いし、そのうえ手放せなくなる。これは無駄なの?」
 無駄じゃない、と茶坂は思う。煙草がないと彼女はすこぶる機嫌が悪くなる。仕事の効率も最悪だ。煙草は彼女にとって必要なもの。
 北春は腕時計に目を配り、煙草の先端を灰皿に押し付けた。両手で太ももを二回叩き、よいしょ、と言って立ち上がる。ん、と彼女は背筋を伸ばした。
「理にかなってるかどうかはともかく、無駄遣いなんてこの世にないと思うよ。こずえちゃんの千三百円はチューブの穴をふさいだだろうし、あんたの千三百円だって、傷口をふさいだんじゃないかな。絆創膏みたいに」
 彼女が腕を下ろすと、スピーカーからしゃがれた予鈴が聞こえた。本鈴の前にトイレに行こう、そう思いながら茶坂は、空き缶をゴミ箱の穴に押し込んだ。このコーヒー代も無駄じゃない、と思った。
 下る階段の途中で、スマホが再び震える。そこにはやはり、人柄が滲み出ていた。
《ごめん、今日帰りに買い物寄ってきてくれないかな! 牛乳二本と卵とトイレットペーパー。わかってるとは思うけど、牛乳は成分無調整で、トイレットペーパーはシングルだからね!》
 簡潔に、《わかってるよ》とだけ打って、ポケットにしまう。その中で、こずえはまだなにか伝えたかったようだが、気付かないふりをする。
 茶坂は腕を十字に重ね、筋を伸ばした。提出期限の近い書類が、まだ残っていた。
 先を行く北春が、どうしたの、と視線を送る。茶坂はなにも答えず、最後の一段を抜かして降りた。


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