その記憶はあなた自身が体験したものか? [体現記憶] と [想像記憶]
おじさん・おばさんになってからの学生時代の同窓会で盛り上がるのは、昔の「◯◯事件」的な話。近況報告も一周し、ほどよくお酒も回ってきたころに、どこからともなく始まる。そういうオモシロい話は、当時も繰り返し語り継がれ、各々がそれぞれのツボで覚えていて「そうそうあの時、あいつがさぁ・・・」などと語り手が順々に入れ替わり、爆笑の連続で会話が進んでいく。時に大げさに話が盛られたり、多少の脚色はご愛敬。「今だから白状するけど、、」なんて新たな真実も出てきたりしたら、もう止まらない。懐かしいタイムスリップ感満載の、同窓会の ”あるある” ではないだろうか。
「だけど、おまえホント良く覚えているよな」と同窓生に言われることがある。記憶力は良い方だと思っているし、自分としては、それら数々のエピソードの記憶は、断片的だとしても映像になってしっかり脳裏に焼き付いているのだ。なので、間違いない。はずである。がしかし、よくよく考えるとその場に自分は居たのかな?ん?おかしいな、どうだったっけ? でも居なかったとすると、脳裏に保管されているこの「映像」は、何なのだろうか?
驚異的な記憶力の持ち主は、何かを記憶する際に、絵などに置き換えたり、規則性や関連性を持たせて覚えるというが、それとは違う。別に将来の同窓会のために、しっかり憶えておこうとしたわけではないから。
その事象を体現した当事者や目撃者では無くても、皆の話を何度も繰り返し聞くことで、その場面をこと細かにイメージする。小説を読んで、自分なりに登場人物やシーンをイメージしていくのと似ている。また噂話の拡散の如く、さらに別の仲間にそのエピソードを自らのコトバで語り継ぐことにより、着実にそのイメージした映像は、自分自身のものとなっていく。想像記憶が体現化されていく感じだろうか。
時を経ても記憶の内容自体は鮮明に残っているが、それが『想像記憶』なのか『体現記憶』なのか、時を経るとともに、自分自身でも判別できなくなる現象である。(体現記憶=エピソード記憶?)
人間の記憶は3歳から4歳当時のものから残っているそうだが、中には5,6歳の時点で、親とかに「3歳の時XXしたの覚えてる?」というような会話から、その際、一生懸命 思い出そうとして、想い描いた映像が、大人になっても残っていて、「私は3歳の時にXXしたことを鮮明に覚えています」と断言してしまうこともあるのではないだろうか。
心理学の世界だろうか。脳科学か。
これが世の中のホントの事件、刑事事件の目撃証言や自白の類だと厄介である。さらに意図的に第三者に刷り込まれた記憶だとしたら。。。上述の幼少の記憶のケースで、あるいは、思い出そうとして、想い描いた映像ではなくても、その際に見せられた写真(実際の画像)から、思い出した気になってしまい、その時点での想像記憶だとしたら。本人は、あくまでも脳裏に残っている像(写真を元に無意識に映像化して脳裏に格納してしまっているかもしれない)をありのまま語っている認識なのだから、少なくとも大人になった本人にとっては 体現記憶 なのか 想像記憶 なのか、もはや記憶には残っていないのである。
実際に自分自身で学生時代に体現した◯◯事件の記憶も、絶対的な事実と脚色された部分の区別が付かなくなっているものもある。それを曖昧のまま回想録にして残したら。。(と考えると歴史上の史実もどこまでが本当の事実なのか)
同窓会などの飲み会のネタのうちは重宝されて良いのだが、記憶には「取扱注意」が必要かもしれない。もっともここ最近は新型コロナの影響で、◯◯事件などおもしろいエピソードの「記憶」(体現したものも想像したものもネタはいっぱい持っている)を披露する場も無くなってしまっているのは残念な話だが。
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