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短編文学的エッセイ 【邦楽と僕のリフレイン】

僕が音楽に目覚めたのは、小学一年生の頃だ。父がTOYOTAのハイエースで流していたMONGOL800のアルバム『MESSAGE』が、僕にとっての最初の衝撃だった。正直言って、そのときの感情を鮮明に覚えているわけではない。しかし、ハイエースの助手席に座り、雑多に積み上げられたCDの中で、この『MESSAGE』のジャケットだけが不思議と目に焼き付いており、今でもその光景が脳裏に残っている。

小学生の頃、嵐やGReeeeNなどのJ-POPアーティストのCDを集めるのが僕の趣味だった。お小遣いを持って自転車で中古ショップを巡り、お気に入りの曲を手に入れることが何より楽しかった。友達とCDを貸し借りするのも日常の一部で、僕は友達のiPodに憧れつつ、親に買ってもらったCDプレイヤーで繰り返し曲を聴いた記憶がある。

中学生・高校生になると、軽音楽部に入ったことをきっかけに洋楽ロックにハマっていった。20歳を過ぎる頃には、友達の影響でHIPHOPにも興味を持ち始め、日本の音楽から徐々に距離を置いていった。世界的に評価される洋楽がどこか洗練されているように感じ、邦楽は時代遅れでつまらないものに思えてしまった。

実際には、日本の音楽にも素晴らしいものが多いはずなのに、その頃の僕はそれを認められなかった。そして今思うと、同年代のアーティストたちが活動していることに引け目や劣等感を抱いていたのかもしれない。
その擦れた気持ちが、邦楽に対する偏見を生んでいたのだ。

その偏見を変えるきっかけとなった出来事があった。
好きだったラッパーKOHHが宇多田ヒカルのアルバム『Fantôme』にフィーチャリングされていると聞き、そのアルバムを聴いてみた。
そこで気づいたのは、日本語で歌われる音楽が心にしっくりと馴染んでくる感覚だった。初めて音楽に魅了されたのは、日本のアイドルグループやバンドの曲だったことを思い出し、それらには懐かしさだけでなく、言葉の意味を超えて感情に直接訴えかける何かがあった。また、宇多田ヒカルの曲はサウンドメイクも優れており、その美しさが耳を奪った。

日本の音楽には、文化や歴史の積み重ねが音楽そのものに流れ込んでいるような深みがある。それを認めざるを得なかった。
とはいえ、邦楽を探求するようになってから、一つ大きな欠点にも気づいた。それは邦楽の「音圧」である。

音が過剰に詰め込まれ、せっかくのメロディーや歌詞が埋もれてしまうことがある。せっかく好きなメロディーが耳に入ってきても、デジタル臭さのあるギスギスした音が耳に痛みを与え、その瞬間にその曲への興味を失ってしまうこともある。だからこそ、音楽を探すときはまずサウンドメイクがしっかりしているかを確認する。また、各楽器や声が明瞭に聞こえる整理されたサウンドが好きだ。

音楽は国境や言語を超えて楽しむものだが、母国語で紡がれる音楽には特別な力がある。邦楽の中に流れる歴史や感情、そして僕自身の思い出が交錯する瞬間に触れたとき、再び邦楽と向き合う原点に立ち戻ることができた。

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