【ゆのたび。】22: 新潟県 妙高温泉 関川共同浴場 大湯 ~地元民御用達の湯にかつての姿を偲ぶ~
「妙高は、昔はそれはそれは賑わっていたんだよ」
父がそう言っていたのを思い出す。今となっては白髪ばかりの父が若き日々を過ごしたのは、温泉やスキーが娯楽の中心にいた時代だった。
高度経済成長期やバブル期など、昭和の中頃から後期にかけては日本が大いに活気づいていた時期に思う。
24時間働けますか、とは言ったもので、企業戦士たちが昼夜を問わず働くことで日本の経済は勢いよく回っていた。
国鉄が国内に線路を網の目のように張り巡らし、数多くの地方都市にまで特急を走らせ、東京や大阪とをつないだ。
様々なものも生まれ、消えていった。良し悪し問わず、人々はそれらに一喜一憂しながらも次々とそれらを消費した。
ベビーブームを経て人口の増えた人々は、その雑多で忙しなく、どこかおおざっぱで騒がしい時代を駆け抜けた。
在りし日の光景だ。かの時代を語る人々からは望郷に似た雰囲気を感じる。
私はすでにその世代ではなく、上の世代から当時をただ伝え聞くのみである。
古き良き時代、だと思うのはもしや、隣の芝が青く見えているだけだろうか。
今よりももしかしたら自由さは少なく、選択肢の幅も狭かったかもしれない。
しかし一方で、やたらと規律と配慮にうるさくなった今の世間ほどに息苦しさは少ない気がする。
実際どうだったのかは分からない。そして私がこの目と肌で触れ、それを判断する日はきっと永遠に来ない。私はまだ、タイムマシンを持っていないから。
しかし、今の時代にはないある種の活気があったのは事実だろう。
そしてその時代、妙高が温泉やスキー場に求めて訪れた多くの人々で賑わっていたのもまた確かな事実なのである。
さて新潟県の西側、長野県都の県境に妙高地域はある。
妙高地域は野外遊びにもってこいだ。人を楽しませる様々な要素がたくさんあり、個人的にはかなり満足度の高いエリアに思う。
山もある、森もある、川もあるし雪もある。少し足を延ばして長野に入れば、野尻湖という国内有数のウォータースポーツのフィールドもある。
空気は美味いし、飯も美味い。そして、疲れた体を癒すにぴったりな温泉も数多く湧いている。
火山である妙高山の山麓には、赤倉、新赤倉、池の平、妙高、杉野沢、関、燕という7つの温泉地がある。それらを総称して妙高高原温泉郷というのだ。
野尻湖からの帰り道、車を走らせる私は疲れと汗にまみれた体をきれいにしようと、妙高の温泉に立ち寄ることにした。
疲れたときには温泉が欲しくなる。温泉に浸かって育ったこの国の人間として、自然な欲求だ。
だが妙高には数多くの温泉がある。
どこも魅力的だが、さてどこに行こうか。
一瞬悩んで、うん、とうなずく。
疲れているし、安くて近い所でいいか。
そう思って私は、ハンドルを妙高高原の市街地へと向ける。
目的地は妙高温泉。そこの共同浴場。
今日も温泉を求めて、である。
妙高温泉
市街地への下り坂を降りると、シームレスに妙高温泉の温泉街に入る。
看板に気付かなければ、そのまま通り過ぎて駅前まで行ってしまいそうになる。かなり住宅地に溶け込んだ温泉街だ。
それも仕方がないともいえる。何せ妙高温泉には現在、営業している温泉宿は一軒しかないからだ。
かつては他にいくつか温泉宿があったと聞く。しかしそれらは時代の中で店を畳んでしまい、今では図らずも一軒宿の温泉地となってしまった。
父がかつて私に漏らした言葉は決して嘘でも妄想でもなく、事実として妙高に横たわっている。
妙高の街中は随分と静かだ。およそ賑わっていた時など一度も無かったかのように閑静である。
これは決して妙高に限らず、全国各地で等しく問題となっていることだ。
かつて温泉は人々の主要な娯楽だった。経済発展とともに公共交通機関が整備され、各地への往来が簡単になったことでそれはより顕著になったのだろう。
社員旅行ともなれば行先としていの一番に挙がるのは温泉だったはずだ。数十人、数百人が一度に訪れ、多くの金を温泉地へと落とした。
そしてそれにより温泉地は活気づき、発展した。新しい宿ができ、同時に既存の宿の建物は大きくなった。より多くの客を向かい入れるために。
しかし時代が経つと娯楽の多様化や価値観の変化により、温泉を選択する人口は減少した。
そうなると温泉地から人の数は減り、活気が無くなり、気づけば一つ、また一つと宿は閉業していった。
残るはかつての栄華が消えて空洞となった廃墟ばかり……寂しさと虚しさがその空白に溜り、よどんでいる。
そのよどみを無くそうと廃墟を取り除けば、今度はかつての栄華の気配さえも消え、忘れられてしまうのである。
妙高温泉もまた、その世間の潮流に流されるままであるのは違いない。
だが一方で、その消えていきそうな地の雰囲気に私はえも言われない侘しさを感じてしまうのである。
さて、車を走らせていると案の定目的地を通り過ぎてしまった。上手いこと空き地でUターンして、道を引き返す。
対向車線の左側、背の低いコンクリートブロックの壁に仕切られた空き地が見えてくる。
ただの空き地ではない、そこが駐車場だ。
妙高温泉にある共同浴場の駐車場なのだ。
よく見ればすぐそばの街灯の柱、そして壁に駐車場を示す看板がある。
そうだそうだ、ここだった。
実は以前にも私はここへ来たことがあった。その時も私は同じように駐車場を見落として通り過ぎてしまったのを思い出す。
2度あることは3度あるが、3度目もきっと私はこの駐車場を通り過ぎてしまうのだろうなと思いつつ、私は車を停めた。
道路を渡り、はす向かいにある細い道を下る。正面に夕暮れの妙高山を眺めながら歩いていると、左側に建物の壁から突き出た看板が目に入る。
そこが妙高温泉の共同浴場、『関川共同浴場 大湯』だ。
関川共同浴場 大湯
大湯はどこかひっそりと、街に溶け込むようにそこに佇んでいた。
まるで目立つことを忌んでいるかのようである。
あくまでワタシは、地元民のために湯を貯めている場所です――そんな振る舞いをしているように見える。
うん、この渋さ、飾らなさ。人々の生活臭のする感じがなんとも心をくすぐる。
このそこはかとない、外部の者を積極的には歓迎していない雰囲気は洒落っ気を求める者には腰が引けてしまうかもしれない。
しかしこういうところでしか味わえない湯というのもあるのだ。そしては私はそういう湯を望んでいたりするのである。
暖簾をくぐればすぐに受付がある。入浴の料金は近くにある券売機で支払う。
おとな400円。こども200円。地域住民やシニアならより安い特別料金で入れるらしい。
券を受付に渡して脱衣所へ向かう。こじんまりとした脱衣所で服を脱ぎ、浴室の戸を開ければもうもうとした湯気が目の前を曇らせてきた。
中には先客として地元住民と思われる人々が何人かいて、私の入室へ一様に目を向けてきた。
注目を浴びて居心地の悪くなった私はその視線に背を向けるようにシャワーの前に腰を下ろした。
シャワーで体の汚れを流し終え、いよいよ湯へと入る。
浴室には浴槽が1つしかなく、露天風呂はない。シンプルな造りだ。
浴槽もそこまで広いものではなく、5,6人が足を延ばして入れるくらいの大きさだ。
入ってみると、湯は熱めだが辛いほどのものではない。肩まで浸かればすぐに慣れる温度だ。
湯は無色透明で、匂いも特殊なものはない。
妙高温泉は赤倉温泉と同じ妙高山の南地獄谷の源泉を用いている。南地獄谷は妙高温泉からは結構離れた場所にあり、結構な長旅の末にこの湯船に注がれていると思うとまた味わい深い。
ゆっくり足を延ばし、できれば声でも絞り出すように漏らして湯に浸かりたい思いだが、周りに他の客もいるのでそれは気恥ずかしくてできない。仮にやったとしたら変な目で見られてしまうだろう。
そう、ここは地元民の生活の場。訪問客の私が大きな顔はしづらい。
湯の熱さで体の疲れが外へと沁みだしていく。
が、手足を思い切り弛緩させるのはなんだか忍びなくて、少々心の底からくつろげない所がある。誰もいなかったらそれもできたが、それを望むのはこの場では少しわがままである。
長風呂好きの私としては少し早めに湯から上がり、体を拭いて服を着る。
思いのほか体は温まり、なかなか汗が引かなかったが何とか汗を拭ききって脱衣所から出た。
かつて存在した幻の共同浴場を想う
脱衣所を出ると、すぐそばには休憩室がある。椅子と机だけのシンプルな部屋だが、WIFIもつながるのでスマホいじりにも完璧だ。湯冷ましには十二分である。
腰を下ろして周囲を見渡せば、季節ごとの周辺の風景写真が飾られている。
その中に、かつての大湯の写真を見つけた。
昭和40年ごろの写真らしい。今よりもいかにも共同浴場といった風貌の建屋だ。
野沢温泉や他の温泉地で共同浴場(いわゆる外湯)をいくつか見てきたが、こんなような建物をしていることが多かった。
この形が浴場として理にかなった形なのだろうか。
ともかく、住宅地に違和感なく混じることのできてしまう今の建物よりも、かつての建物の方がより浴場らしく見える気はした。
また、当時は木製の入浴券を持って入浴をしていたようだ。
家庭ごとに札が配られ、これを持っている者たちだけが利用できたのかもしれないし、料金を払う今の紙の入浴券の代わりにこれを渡していたのかもしれない。
いずれにせよ時代の感じる乙なやり方である。
と、それらの写真の横に新聞の一部分がラミネートされて掲示されているのを見つけた。
紙が茶色く日焼けしている。いったいいつの物だろうか。
そして中身を読んでみれば、興味深い内容が書かれていた。
古い写真には、原野の中に移る立派な建物が移っている。
どうやらこの建物は、かつて妙高温泉にあったこことは別の共同浴場らしい。
そして今となっては、その共同浴場があったことすら地元の人々のほとんどが知らない存在となっているようなのだ。
人々から忘れ去られた、幻の共同浴場……なんとも好奇心のくすぐられる話だ。
内容を読んでみれば、曰く明治時代の末期、妙高温泉がまだ赤倉温泉からの分湯であり、今の妙高高原駅がまだ前身の田口駅という名であった頃にこの共同浴場は建てられたらしい。
この共同浴場は昭和の初期頃には取り壊されたようで、つまり戦時中から戦後間もない頃までにはすでに無くなっていた可能性が高い。
つまりその当時実際に利用していた者はどんなに若くても現在80歳近くである。
そんな彼らも当時はかなり幼い子供だったことから、当時それなりの年齢で、かつ利用の事実を確かな記憶として今も覚えている可能性がある者となれば、それは90歳近くかそれ以上になるだろう。
新聞の写真は絵葉書を映したものらしく、絵葉書の余白には『赤倉分湯株式会社及共同浴室』と記されていると書かれている。
記事の中ではこの会社の後進である会社の役員にこの共同浴場について尋ねてみたらしいのだが、あくまで聞いたことがある程度の認識で本当に記憶からほとんど忘れ去られた存在になっている。
しかし取材の中で、かつて共同浴場があった場所に家を構えていた家族の女性に話を聞いた内容が記されていた。
80歳近いその女性が言うには、かつて改築する前の自宅には漬物を置く場所として大きな浴槽を使っていて、それがかつて共同浴場として使われていたものなのだと彼女の亡き母から聞いていたそうだ。
今となっては誰からも忘れ去られた、かつて多くの人々を癒したであろう共同浴場……空想するしかできないその湯を想うのは、なんだか小さなロマンである。
妙高温泉は駅に近い利便性から、昭和30年代には8軒もの温泉旅館が軒を連ねており、多くの観光客で賑わう歓楽街だったと記事は記している。
しかしやがて世間が車社会に移行するとともに旅館と賑わいは減っていき、今となってはたった1軒の宿を残すのみとなっている。
細い路地でひっそりと建つここ大湯は、この温泉の寂しい未来を暗示しているようである。
この地にあったかつての繁栄はすでに無く、気付かなければ通り過ぎてしまうくらいに存在感は無くなり、やがて知らぬ間に消えてしまいそうな風前の灯火。
もしかしたら、地図や観光ガイドからこの温泉の名が消えてしまう日もいずれ来てしまうのだろうか。
そしてやがて、地元の人でさえもこの地に温泉があったことを忘れ去ってしまうときが来てしまうのだろうか。
想像はしたくない。
しかし温泉離れも、地方も過疎化も止まらない。
私にできるのはただひたすらに湯へ浸かるのみだ。
日がとっぷりと暮れ、妙高山を背景にいつの間にか大湯の看板へ蛍光灯の明かりが灯る。
その明るさに、私はかつての賑わいを偲ぶのである。
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