好きでいいんだよ
愛されようとするから間違う、自分が愛する方が先。同義の言葉を多く見かけるようになった。愛について、知ろうと何度も本を開くけれど、すんなり言葉が入ってくる日はない。だから、何回も何回も、数日に分けてすり潰し、飲み込んでいる。
好きだよ、と言ってくれる人ができて、何回も聞いたことのある言葉にいまだに温もりを感じられる、わたしのことを好きになりました。また、愛してみようと思えば思うほど、不安になることがなくなりました。愛されようと思うと、愛されていないことがとてもこわくなる。でも、愛していると、相手がどうであろうと、愛している自分のことが尊くて、愛している相手のことが、なによりも大切で、それ以外のことなんて、もうどうでもよくなる。しっかりと、恋の病に落ちています。
情報を選択する人間は、自分に甘く、時に賢い。わたしのSNSは、わたしを守るための情報で溢れている。わたしを守ってくれないSNSはきらいだ。でも、わたしの知らない情報を食べている人間は、とても賢い。甘やかせば甘やかすほど、現実や、人間らしい生活から遠ざかっていく。買うことのない服、することのない髪型、やる気のないダイエット、エモーショナルなタバコと酒。好きなものに触れる、満たされるためだけに存在するわたしのSNS、なんだか突然ちっぽけに見えて、悔しかった。
なにをするかより、だれとするか。なにをしているかより、だれがしているか。それって、SNSも一緒だ。情報で溢れる社会の中で、愛する基準は本当に情報の質なのか。人気があるというだけで全てが正論になってしまうインフルエンサーよりも、その人の中にある「わたし」を守り続けている小さな発信者が好きだ。これも一種の、愛するということ、なのかな。
エモーショナルな日々、描くけれど現実にはあんまり起こらなくて、誰にも言えないんだ、と親友が言った。あなたの思うエモーショナルは、好きでもない異性とふたりっきりになって、なにかがはじまるわけでも、なにもないわけでもない、男女にはなりきれないけれど友達でもない、そういう都合のいいことをお互いに理解している関係の人と、ちょっと悪いことをする、そういう夜でしょう。と、返したあと、わたしは誠実という言葉をひとり追いかけ続けています。男性らしさ、女性らしさという言葉から離れている、わたしと親友、きっと本当はとても男性らしく、女性らしい、そんな自分たちを認めたくなくて、都合よく正当化して、大きくなった自己顕示欲の行き場がなく、ぶつけ合っている。大人になりきれなかった、子どものままのわたしたち。
だれかに否定されることや、だれかがいなくなることや、だれかが不幸になることや、とにかくだれか、に関することに、あんまり興味を持たなくなりました。避けることが上手になった証拠かもしれないし、わたしを好きになれた証拠かもしれないし、単純に人として冷めた証拠かもしれない、この答えもどうだっていい、この文章の意味が分からなくてもいい、自分が好きな自分でいられるなら、自分の支配下にないだれかがなんと言おうと、関係ないんです。と強がりたい、まだ未熟なわたしです。
愛する恋人のタバコを求めるタイミングが分かるようになってきた。お互いの生活に少しずつ互いの存在がすりこまれていく。恋人との生活は豊かだ。愛することを楽しんでいる、今のわたしのことを人は幸せというらしい。