死考
胃に食べ物を流し込む、3月に検索した簡単に死ぬ方法の履歴を見るたびに吐き気がする、1番上に固定していた恋人との会話は意識することが辛くなって消した、大好きだったものに対する拒絶が突然起き始めて、わたしの大切なものが溶けていく。
目が覚めると呼吸が苦しい、夢の中はわたしの焦りで溢れている、少しずつ貯めてきた寂しさが限界を超えた、体調を崩したと伝えた時、やっぱり側にいて欲しかった、特別な日は意味もなく会ってほしかった、誰にも伝えない、誰にも見せない、形にしなかった言葉が少しずつ自分の中に貯まっていく、何もしないと涙が出るし、何かしていると疲労する、食事も睡眠も人も、全て受け付けなくなって、せっかくもらった愛情を跳ね返す、ずっと言語化できていたわたしの願望が、全く読み取れなくなった。
ストレスを感じる状態が続いて鬱になってしまった、という友人の話には納得しているし、涙が勝手に出ることは普通じゃないし、痛みが薄くなっていくのは強くなったということではないし、頑張れると頑張れないの境目が大きくなりすぎることは正しさではないと分かっている、はずなのに、わたしはわたしをまだ大丈夫だと位置付ける。ただ単純に、わたしは大丈夫ではないわたしのことが嫌いなんだと思う。
大学生の間に冷め切った家族との縁を切ろうとしていたけれど、今まで目に見えなかった愛情が毎日送られてくるようになって、それを跳ね返しながらも愛を持っているわたしの存在に気がついて、やるせない気持ちになっている。わたしの人生、1つも落ち着きがなくて、すべてどうにかしないといけない状態のまま、放置している。つねに焦りと生きていることは苦しい、自分を楽にするために、ひとつずつ変えていけたらいいものの、向き合うのがこわかったり、長期的に変えていかないといけないものばかりで気持ちが長続きしなかったり、都合のいい言い訳に守られてここまできた。向き合うことはこわい。わたしは案外わたしのことを知らないのかもしれない、恋人に言われた言葉、こういう時に限って思い出す、
また、ぐるぐる。
他人についての話がSNS上にあるとつい見てしまう。でも、他人についてあれこれ意見する人の気持ちは分からない。わたしは、答えが不明確な他人の話に対してモヤモヤを消せず、ついつい答えを探してしまう。納得すればそれで終わり、納得できなかったり思考が理解できなかったりすると、理解したいという欲に駆られてその人自身になりきろうとする。そうすると、その人が抱えている苦しみを感じ、心がすり減っていく。SNSを見ていて苦しくなるのは、単なる嫉妬ではなく、思考を理解しすぎたり理解できなかったりする苦しさ、からだった。
愛している音楽は、苦しみから生まれたものたちばかりで、愛している食べ物は、体を蝕んでいくものばかりで、愛している人は、うまく生きることを放棄した人たちばかりで。愛しているものが、全部自分にとって毒になると安心する。まっすぐな愛を受け取れない、受け取らない。わたしが愛している言葉は、過去の弱いわたしが吐いた言葉たち。
はやく、大丈夫になりたい。
友人の言葉が頭から離れない夜、わたしはようやく、死についての検索履歴を消すことができた。