ふたつの問いに対するひとつの答え
幼少期、私は男の人が苦手だったようだ。エレベーターの中で知らない男の人と一緒になると、必死になって目をつぶって見ないようにしていたそうだ。母の実家にいった際も、祖父の前ですらそのような感じだったとのことだが、祖父を大層悲しませたのではないか、と今となっては申し訳ない気持ちになる。さすがに父に対してはそこまでではなかったが、長めの出張から帰ってきた父にビックリして泣き出したそうだ。どうやら知らないおじさんだと思ったらしい。
それらのことについての記憶は一切なく、全て大人になって母から聞いた話だ。物心ついた頃には私のこの性質は消えていたが、だとすると何歳くらいまでのことだったのだろうか。
「特定のものに対しての恐怖心」というのはその「トリガーとなる体験」によってもたらされると勘繰ってしまうが、それに関しての記憶は、朧げなものも含めてないし、母からそれになりうる出来事についても聞かされたことがなかった。よって、幼少期の私の男性嫌悪は先天的なものであった可能性が否定できない。
もちろん、今となってはそのレベルでの男性嫌悪はないし、仲のいい男友達もたくさんいる。見知らぬ男性とだって問題なく会話ができるし、エレベーターで一緒になっても怖くない。
とはいいつつも、今でもどちらかというと女性と一緒にいる方が気楽であることは否定できない。きちんと数えたことはないものの肌感覚として女友達の方が男友達よりも多いはずだし、遊びに行くのも女友達との方が頻繁だ。私は後天的に男性嫌悪を“克服”したものの、先天的なものであるその根っこまでは解消されていない、ということなのだろうか。
または、これは私の両親との関係性に依っているのかもしれない。母親とは深い絆を結べた一方で、父親との間にそれはなかった。それが他人との付き合いにも反映されている、という可能性もあるのだろうか。どうなのだろう。
きっと女性の側も、私のこの雰囲気が自然と伝わるのか、あまり気負わずに一緒にいてくれる。だからお互い異性という意識がなくなる。そんなわけで、女友達は多いものの、そこから恋愛に発展することは基本的にはない。
若い時はそこにギャップがあった。私の方は異性として意識している一方で、相手はどういうわけかそう認識してくれない、ということが多々あったのだ。当時はその状況をあまり“嬉しくない”と感じていたが、今となっては逆に男女の垣根を超えた女友達がたくさんいてくれていることがありがたいとさえ思う。
ちょっと前のことになるが、女友達から「君の周りにはいつも君をサポートしてくれるいい女友達が複数人いるよね」と指摘された。実際にその指摘は的を射ていると思う。私はいつも、女友達に頼り、そして助けられている。
つい最近も、ひどく落ち込んでいる中、ある女性のおかげで立ち直ることができた。きっとそれは男性ではどう頑張っても成し得なかったことなのだと思う。
男性性に対しての嫌悪というものが根底にある一方で、私自身はストレートの男性なので、結果的に私は常に自己矛盾を抱えていることになる。だからといって女性になりたい、あるいは女性らしくなりたい、という願望は一切ない。この矛盾とどのように折り合いをつけているのか私自身も正直よくわからないが、それにあたって「香り」というものが重要な意味合いを帯びてくるような気がしてならない。私を「香り」の世界へと導いたものは、私の中の不均衡であるのではないか、と思っているのだ。
ここ最近つらつらと考えていた、そして感じていた、私の性に関することを書いてみた。オチも結論もない。
ただ、いつの日か、一見なんの関係もなさそうな「なぜ私は男性が苦手なのか」と「どうして私は香りに強く惹きつけられるのか」というふたつの問いに、共通するひとつの解答を見つけられるのではないか、と最近ふと思った。そんな日が本当にくるのかはわからないけど、その日がくることの“予言”として、この記事をここに残しておくことにする。
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