社会人3ヶ月目で父親になった男の27年間の生き様と未来|ゆうた
社会人3ヶ月目にパパになった僕は、「心も身体も強いテニスコーチ&トレーナーになる」というGOALに向かって挑戦しています。
多くの人が、自分が本当にやりたいことができずに心の本音に蓋をしていると思います。僕もその1人でした。
人間の行動は、過去の体験や経験をもとに起きることが多いとされています。
僕は、過去の嫌な経験から、他人の言うことに従うように、他人に好かれようと 一度しかない自分の人生を、他人軸で左右されて生きていました。同じような思いをした方は他にもいらっしゃるんじゃないでしょうか。
しかし、僕はむしろパパになったことで価値観が大きく変わり
「他人軸ではなく自分軸で生きよう!」
と決めることができました。
その結果、子供が産まれる前よりも本音に従って生きる充実した人生を送っています。
なぜ、父親になり自分軸で生きようと決断できたのか。
父親になっても挑戦に溢れる人生を送っている僕のこれまでの生き様とこれからのGOALや未来について書きました。
簡単に自己紹介をします。
<自己紹介>
【名前】秋吉 雄大(あきよし ゆうた)
【年齢】27歳
【家族】妻と2歳の息子と3人暮らし
【仕事】大学受験予備校の進路指導(2020年4月〜2022年3月末)
→大手テニススクールのテニスコーチ(2022年4月〜)
【性格】基本穏やかだけど、熱い🔥
【好きなこと】テニス・筋トレ・UVERworld
【BIG3】スクワット160kg ベンチプレス100kg デットリフト200kg
【将来のGOAL】
◆家族にとって自慢のパパ
◆日本一BIG3が強いテニスコーチ
◆テニスを通じて人生が豊かになる人を増やすこと
この記事では、より多くの人に自分のことを知ってもらいたいという想いで書きました。
コロナ渦の真っ只中に、社会人と同時に親となった僕のこれまでのの人生と これからについて書きます。
【特に読んで欲しい人】
✓今後の人生やキャリアを迷ってる人
✓自分の本音で生きれてない人
✓これから親になる人
✓最近親になった人
今回の生き様noteを書くにあたり、とても勇気を出しました。
1万字以上にわたって赤裸々に書いています。
その分、魂を込めて書きました。
長いですが読んでもらえると嬉しいです。
僕はこれまでTwitterやInstagram、YoutubeなどSNSを通じて
多くの色んな人と繋がることで、人生を変えることができました。
これからもSNSを活用していき、より多くの人と繋がりたいですし
自分と関わった人がより幸せになってほしいと思っています。
この記事と僕の行動を通して、
・やりたいことがあるけど一歩が踏み出せない
・周りの目が気になりやりたいことができない
そんな人たちが前に1歩踏み出す勇気を与えたいです。
僕は今までの人生で多くの挫折を経験してきました。
上手くいったことなんてほんと僅かで、99%失敗ばかりでした。
「こんな自分でも変わることができた。あなたも絶対に変われる。」
「僕と一緒に、今の自分から一歩前に踏み出しませんか。」
そんなメッセージを届けたくて、この記事を書きました。
この熱量と勇気を多くの人に繋げていきたいと思っています。
少しずつでも構いませんので、最後まで読んでいただければ幸いです。
では早速ですが、小学生時代から入っていこうと思います。
①小学校時代:典型的ないじめられっ子
そこら辺にいる普通の子供だった。
運動もそこそこ、勉強もそこそこ。
小学校時代は、とにかくいじめられていた。
楽しかった思い出あったっけ?って思うくらい嫌な事しか思い浮かばない。
上履きを盗まれたり、喧嘩に巻き込まれたり、教室で無視され陰口を言われたり・・・。
1年生の時から6年生の時まで、いじめられていた。
向こうはいじったりからかったりしているつもりでも
「つらい。しんどい。なんで僕ばかり。」ずっと思っていた。
原因はなんだったのか。
周りと違うことをした結果、「調子乗ってんな」といじめられた。
自分がいじめられっ子を庇った結果として、代わりに僕がいじめられた。
塾に行ってたから学校のテストが早く終わったので「調子乗んな」といじめられた。
漫画でも他の小学校でもよくある話だと思う。
今もいじめは社会問題となっており、根絶できていない。
「正しいと思ったことをしたはずなのに」
人のためにしたことで自分を苦しめていた。
この経験が、「他人の目を気にしながら生きる」きっかけになった
と今では思う。
他人に嫌われないようにするにはどうしたらいいか。
常に何かに怯えながら学校に行っていた。
小学4年の1月から中学受験対策の塾に通い始めた。
地元の中学校はヤンキーの巣窟だった。
地元の中学校に行きたくない思いと、医療ドラマを観て
「俺も医者になれたらいいな」というぼんやりとした夢ができたので
中学受験を決意。
両親はもともと教員志望で教育熱心だった。
ピアノや剣道など習い事をたくさんした。
しかし、これらの習い事は「親が僕にやらせたかったこと」であり
「僕がやりたいこと」ではなかった。
しかし、やりたくないとは言えなかった。
怒られたくなかったから。
この塾に通う決断こそ、人生で初めて自分で行った決断かもしれない。
塾に入ったはいいものの、賢いわけでなく集中力もなかった。
3年間通ったが、一番上の賢いクラスには一度も入ることができなかった。一番どん底のクラスも経験した。
模試で悪い点数を取った時には厳しく怒られ、夜遅くまで勉強をさせられた。できない自分が悔しかった。
しかし、6年生にもなると積み上げてきた成果が少しずつ出始め、憧れの中学校への合格の可能性も見えてきた。
しかし、勉強ができるようになって、いじめがエスカレートした。
小学校のテストの問題は中学受験の問題に比べると簡単。
一番乗りで終わらせて、暇な時間は受験勉強しようと思ってたが
僕を気に入らない奴らにいじめられた。
夜遅くまで塾に通い、ご飯の食べる量も増えたのでどんどん太った僕を見て
「デブ」「ブス」「ガリ勉」
と呼ぶようになった。
いじめがエスカレートして耐えられなかった僕は、
「いじめられるから、もう学校に行きたくない。」
といい、しばらく学校を休んだ。
幸いにも、校長先生がとても良い人で問題解決に真摯に向き合ってくれた。
いじめを乗り越えなんとか学校に戻った僕は
なんとか無事に第一志望の中学校に合格。
いじめっ子たちともおさらば。
これでもう大丈夫。何事もうまくいくだろう、そう思っていた。
②中学時代:テニスを本格的に始める
2008年4月。中高一貫の私立中学に進学。
もうすぐ創立300年になる広島の伝統校である。
長い受験生活を乗り越えて、憧れていた学校生活が始まった。
家族全員テニスをしていたので、趣味程度でテニスを少ししていたので
中学でも緩くテニスできたらいいなと思い、硬式テニス部に入部。
そこがテニスの強豪校であることを知らずに。
入学した学校は、進学校でありながら
インターハイや全国選抜など全国大会に何度も出場している強豪校。
同学年には、県1位や全国大会経験者が2人入学した。
(彼らをまとめて“Wエース"と勝手に呼ぶことにする。)
彼らは入学したその日から中学校のレギュラー。
中学のレギュラー練習だけでなく、毎週土曜に行われる高校生との合同練習にも参加できるようになる。
新入生紹介で2人だけ待遇が圧倒的に違い、チヤホヤされていた。
「なんか悔しいな」という気持ちになったのを今でも覚えている。
入部するときはゆるく部活できたらいいなと思っていたが
テニスにのめり込んでしまった。
もともと負けず嫌いな性格なので
同級生でこれほど待遇に違いがあるのは悔しい。
早くレギュラーになりたい。試合に出たい。
どうやったら強くなれるか。
どうやったら2人を倒せるか。
授業中もテニスのことをずっと考えていた。
しかし、練習量も環境の質も明らかに劣っていた。
Wエース→週5,6のスクール+高校生レギュラーとの練習4時間
俺→週2のスクール+週2の1年生の練習1時間(レベル低い)
1年生の練習では、1面に20人集まった。
まともな練習はできず、2人との差はますます開くばかり。
このままじゃやばい。
親に「もっと強くなりたい」と伝え
家族とのテニスはワイワイ楽しくやるものではなく
勝つための厳しい練習に。週5〜6でほぼ毎日練習した。
その後、中1の秋のランキング戦でノンレギュラーの中で優勝。
なんとかレギュラー入りを果たした。
レギュラー入りしたことにより高校生との合同練も参加できるようになり、高いレベルで練習できた。
団体戦では2年連続全国大会へ出場することができた。
テニス雑誌の特集で、初めて自分の名前が載った嬉しさは
今でも忘れられない。
個人戦でも県大会で少しずつ勝てるようになった。
成長を感じていた。
しかし、トップ2人との差は埋まらなかった。
むしろ開く一方だった。
自分の成長が嬉しい反面、「まだこの程度なのか」と哀しくもなった。
③高校時代:大きな怪我
高校生になり、テニスの幅を広げるために
通うテニススクールを2つの拠点にしながら部活も参加していた。
スクールと部活だけで週6以上テニスに捧げ
部活後や休日も家族やスクールの仲間と練習漬けの毎日。
【練習スケジュール】
<①平日>
7:30〜 5kmを20分以内で走るランニング
↓
8:30〜16:05 授業
↓
16:30〜18:30 部活(2時間)
↓
テニススクールへ移動(60分)
↓
20:00〜21:30 レッスン(90分)
↓
22:30頃 帰宅し、学校の宿題や風呂を済ませる。
<②土日>
8:00〜13:00 部活
↓
学校の宿題
↓
テニススクールでレッスン(90分)or自主練
5年間この繰り返しだった。
テニスのために学校に行っていた。
全日本選手権で準優勝した徳田廉大プロをはじめとした
県のトップ選手たちと練習していた。
今でも年末に集まって、徳田プロのイベントの手伝いをしながら
一緒にテニスしたりしている。
今思うと、恵まれた環境で練習できていた。
しかし、ハードスケジュールに身体が悲鳴を上げていた。
高1の夏に右手首と腰を痛めてしまった。
診察の時に、医師に
「もしかするともうテニスができなくなるかもしれない」
「逆に今までこの腰でよくテニスができたものだ」
「テニス以外の部活でもやってみるといい」
と言われた。
学校の先生や保護者など、色んな大人たちが声をかけてくれた。
「もうやめておこう」
「勉強があるじゃないか」
しかしどの言葉も自分には何も響かなかった。
いじめられていた時とは違う悔しさ。
絶対にここから這い上がりたい。這い上がってみせる。
練習ができない間は、プロの打ち方を雑誌や動画を見てとにかく学んだ。
「ジョコビッチのようにバックハンドを打ってみよう」
「ナダルみたいなスピンを打つにはどうしたらいいんだろう」
夕食の呼びかけも全く聞こえなくなるほどほど没頭していた。
学ぶ時間とエネルギーは無限にあり、テニスオタクになっていた。
その後、必死のリハビリの甲斐もあり
再びテニスコートに戻ることができた。
1つ上の先輩が引退し、いよいよ自分達が最高学年になった。
全体で3番手となり、レギュラーの主力選手として抜擢された。
ダブルスで大会での結果も出していた。
チームとして全国ベスト16以上を目標にした。
個人戦でも併せて全国大会を狙っていた。
しかし、監督から言い渡されたのは
「ダブルスからシングルスへの転向」である。
中学の全国大会でも勝利を挙げることができたので
ダブルスなら全国レベルでも通用するという自信があった。
しかし、シングルス3本ダブルス2本の団体戦において
エースと2番目以外の選手はシングルスでの実力・戦績がなかった。
そこで、部内で3番手の自分にシングルスの出番が回ってきた。
高校テニスをよく知らない人は
「3番手の人がシングルスに入るのは当たり前じゃん」
と思うかもしれない。
ところがそんな単純な話ではない。
団体戦においてダブルスは重要なポジションでありポイントゲッター。
ダブルスを確実に勝ち、シングルスの3つのうち1つ確実に勝ちに行くのが
これまでのチームの基本的なオーダーの組み方。
また、このシングルスやダブルスの順番にはルールがあり
大会での結果(≒実力)によって決められる。
つまり、1番手の選手がシングルスに出る場合は
シングルス1しか出られないのだ。
最初は、ダブルスとして見捨てられたのかと心配していた。
しかし、監督の考えを聞き安心した。
Wエースたちと同じシングルスのポジションで戦えるようになった。
怪我もあり、彼らに追いつけないんじゃないかと徐々に薄れていた
ライバル心に再び火を灯すことができた。
試合シーズンが近づくにつれ、シングルスに出るメンバーは
ゲーム形式の練習が増えた。
Wエースの同級生と何十回も試合した。
初めはボッコボコにされた。
1ゲームも奪うことができず全く歯が立たなかったが
徐々に対策やコツを掴みポイントを奪えるようになってきた。
練習後にはアドバイスをもらい、すぐにトライした。
強い選手と普段から練習したことで、レベルが格段に上がっている。
そう感じることができた。
元の実力がないので、伸び代しかなかった。
この成長速度なら、勝てるかもしれない。
そう思っていた。
たくさんの方のご支援のおかげで
高校3年間で全国大会に3回出場することができた。
インターハイにも出場することができ、部活を引退。
6年間でなかなか得ることのできないたくさんの経験をすることができた。特に県大会の決勝は最後に僕が勝ち、優勝を決めることができた。
あの時の興奮は一生忘れられないくらいと思っているし、満足している。
しかし目標の2人には、最後まで勝てなかった。
引退後は受験勉強に切り替えて頑張るも
テニス漬けの毎日しかしてこなかったため、大失敗。
医学部合格を目指して浪人生活を迎える。
④浪人時代:悪夢のような2年間
浪人生活が始まった。
同じ高校出身の浪人生が多く、どこか高校4年生のような感覚だった。
部活で体力と根性は相当鍛えられたので
朝の開館時間から夜の閉館時間まで勉強し続けた。
中学・高校の6年間はペンではなくラケットばかりを握っていた。
基礎学力なんてものはない。
穴だらけで医学部はおろか普通の学部すらいけるのか怪しい。
しかし、医学部合格するためには
レベルの高い問題集や参考書をやる必要があると思った僕は
ネットで評判の参考書を買いまくり
授業で習ったことを生かして解こうとした。
が、基礎学力がないので解説読んでも理解できなかった。
時間とお金の無駄をしてしまったと後悔した。
そして1浪目のセンター試験。
高校生の時よりは得点が上がったもののの結果は不合格。
一緒に浪人した高校の友達は東大や京大に合格した中
不合格だったのは僕だけ。もう1年浪人することになる。
2浪目となるとほとんど友達のいない孤独の浪人生活。
もう高校5年生なんて言ってられない。
1浪目の失敗を反省し、基礎から学べる参考書を何周もやりまくった。
ボロボロになりすぎてカビでも生えてるんじゃないかと
親に心配されるほど、とことんやりこんだ。
僕の第一志望の大学の医学部の入試は
他の学部との共通問題でどれほど高得点を取れるかが大切な世界。
普通の学部(工学部や理学部)では得点率6割ほどで良いが
医学部は8割以上必要となってくる。
第一志望の大学の問題が難しくない大学だったので
難しい参考書なんてやる必要なんてなかった。
1年目の時は、賢く見せたいがために見栄を張っていたのかもしれない。
基礎学力がついてくると、少し難しい問題も解けるようになった。
解けなくても解説を読むと理解できるようになってきた。
模試でも良い判定が出るようになり、自信がついてきた。
勉強が面白い!自分ならできる!今度こそは・・・!!
しかし、忘れもしない2016年1月2日
ストレスによる急性胃腸炎で倒れる。
1週間も机に向き合うことができず、寝たきり。悔しかった。
ここまでせっかく頑張ってきたのに。
単語帳を眺めることしかできず、ベットでずっと泣いていた。
復帰してなんとか追い込みをかけるも、良い点数ではなかった。
この点数では到底医学部なんて出願できない。
家族会議をした。
「もう1年はない」
と、ずっと言われていたので
受かりそうな学部に行くしか選択肢はないと思っていた。
しかし父親が
「ここまでやってきたんだから医者になったほうがいい。」
「もう一度医学部を目指して頑張ろう。お金はなんとかしてやる。」
「父さんも昔は医者になりたかったがお金がなくて挑戦できなかった。」
「でもお前にはチャンスがある。挑戦してみたらどうだ」
と、背中を押してくれた。3度もチャンスをダメにした息子のことを。
すごく嬉しかった。
だが、僕にはそんなエネルギーが湧いてこなかった。
心も身体も、ボロボロだった。
「ごめんけど、医者にはもうならない。」
「どうせ何度やっても受かりっこない。自分には無理だ。」
「受かりそうなところ受けて、早く楽になりたい。」
泣きながら父に伝えると
父は「そうか・・・。」と寂しそうな顔をしていた。
こうして、小学校からの夢見ていた医師への挑戦を諦めた。
地元の広島大学で文理融合型の学部があった。
そこを受験して入学してからやりたいことを探そうと決めた。
結果は無事合格。4月から大学生になることが決まった。
合格した喜びというよりも
受験勉強から解放された喜びの方が大きかった。
⑤大学時代:自分のやりたいことを見つける
医学部を目指してずっと受験勉強をしていたので
正直すぐに他の道を選ぶというのが想像できなかった。
文系と理系が融合した総合科学部。
ここでなら何か一つやりたいことが見つかるかな、と
貴重な4年間にもかかわらず、なんとなくで入学した。
しかし、総合型と言っても最終的にはそれぞれの専門に分かれていくので、いずれは自分のやりたいことを見つけないといけない。
自分の人生を振り返りどんな時にワクワクするか?
を考えてみた。
「そういえば・・・後輩にテニス教えるの楽しかったなあ」
「友達に化学教えてるときは、無限にエネルギーが湧いてくる気がするな」
無意識にエネルギーが沸いてくる領域、それが「教える」ことであった。
ある日、体育会の入部体験に参加した。
広島一のテニス部で全国大会出場者というのもあって、歓迎してもらえた。気分が良かった。
その新歓で、高校の部活の先輩に遭遇する。その先輩は僕が中3の時の高3の先輩。中学と高校の合同練がなければ関わることはほとんどなかった先輩。
そんな先輩から、声をかけられた。
「高校のコーチがいなくなったらしくて次の指導者を探している」
「一緒に、母校のテニスコーチをやらないか?」
出身高校の部活の顧問は当時4人いたが、テニス未経験者のためテニスを教えることができない。また、僕らが全国大会に出て以降、後輩たちは地方大会止まりで勝てなくなっていると聞いた。
土曜の合同練で、OBが時折教えに来るのが伝統だった。
「コーチとしてテニスに関わるのも楽しそうかも」
「とりあえず学校の先生目指してみるか」
高校生の時のように選手としてテニスを続けたい気持ちもあったが、コーチをすることに。しかもボランティアなので給料も出なかった。
それでも、後輩たちと関わってくるうちに、テニスを教えることの楽しさであったり、成長を目の前で見ることができる楽しさ、人の役に立っているという充実感が僕を満たした。
「もっと上手くなれるようにテニスの勉強をしたい」
「もっとチームが勝てるようにしてあげたい」
大学生になっても、ペンよりもラケットを握る時間の方が多く、自身の勉強よりもどうしたらチームが再び全国大会に行けるようになるかばかりを考えていた。
初めは、自身の経験をもとに指導すれば全国に行けるようになると思っていた。しかし、選手は誰も賛同してくれずなかなかいうことを聞いてくれずもどかしかった。例えば走り込み。部活の始まりは5km走と決まっていた。
走り込むことで体力が鍛えられ、試合に勝てるようになると思っていた。
テニス指導の勉強をしていく中で、理論やコーチングを知ることで、選手の考えや言葉を共感・傾聴することが大切なのを知った。当時の僕の指導は経験則に基づいたものだったので、彼らにとてはやりたい(Want to)練習ではなく、やらされている(Have to)練習だったと思う。
学んだ理論やコーチングスキルを実践したところ、選手との意思疎通がうまくいくようになり、何を求めているのかやどうすればもっと強くなれるのか、チームとしてのあり方をともに考える時間が増えた。
「どんな選手になりたいか」
「どうしたら強くなれるか」
「どうやったら全国大会に出られるか」
選手たちと共に考えた。
全国大会に出たことのない彼らにとって全国レベルはどんなレベルかわからなかったから、全国レベルの学校に練習試合をお願いした。
高校生だけでなく大学生にも練習試合を申し込んだ。
もちろん、ボコボコにされた。
しかし、強い選手がどんな選手か。実際に対戦することで見えてきた。
うちのチームには、Wエースのような絶対的なエースはいない。
個人戦の成績だけ見れば優勝なんて考えられないチームではあった。
しかし、起こるべき奇跡が重なった結果
7年ぶりの全国大会出場を決めることができた。
自分が戦ったわけではないのに、泣いて声が出ないくらい号泣した。
自分ごとのように、彼らと戦っていたからだと思う。
言葉にできないくらい、とても嬉しかった。
大学4年間は母校のテニスコーチとしてテニスに携わってきた。
実績として
・全国中学生テニス選手権大会 出場(2018年)
・全国高校選抜テニス大会 出場&1回戦突破(2019年)
・中国大会に中学生4回、高校8回出場。
部活のコーチが大学生ということ自体異例で、おそらく全国でうちの学校だけである。
体育会で選手として頑張る未来も楽しかったと思う。
しかし、そこでは得られない経験を積むことができて本当によかった。
⑥大学4年の冬:妊娠発覚
時は過ぎて、大学4年の冬。卒業論文の作成に追われていた。
大学3年の秋から付き合い始めた1つ年上の彼女(現在の妻)とも
円満に過ごしていて、公私ともに充実していた。
いつも自分のことを応援してくれる優しい彼女。
ロックバンド「UVERworld」がお互い好きで、日本中のライブに参戦して
47都道府県制覇したいね、たくさん旅に行きたいね、と話していた。
そして僕が社会人になって27歳で結婚できたらいいね〜と、
2人でのんびり考えていた。
ある日、彼女からのLINEに驚きを隠せなかった。
「もしかしたら、妊娠したかも。」
最近、体調が少し良くないという話は聞いていたが
まさかそんなことになるとは思っていなかった。
検査の結果は陽性。
「もしお腹に赤ちゃんがいたらどうしよう。」
「まだ大学生なのにパパって・・・どうしよう。」
当時の僕は多焦りで卒論どころではなかった。
夜も眠れないくらい不安だった。
翌日、どうしても僕は大学に行かなくてはならず
彼女一人で産婦人科に行ってもらうことに。
研究室で卒論を書いていたところ、一枚の写真と共に彼女からLINEが来た。
「お腹に元気な赤ちゃんがいるよ〜!!」
彼女は、すごく嬉しそうだった。
「社会人になって落ち着いたら、結婚して子供が欲しいね。」
2人で将来の話をしていたばかりだった。
すでに妊娠4ヶ月目で安定期に入っていた。全く気づかなかった。
不安を隠して、「おめでとう!やったね!」と当たり障りのない返事をしたが、将来への不安の方が大きかった。
そして、この不安を誰にも相談できなかった。
大学卒業後に親になることを誰にも打ち明けることができずに、大学卒業。
そして2020年。全世界の日常が大きく変わった。
新型コロナウイルスの感染拡大である。
⑦社会人1年目:子供が産まれる
就職先は、かつて浪人していた予備校。
1年目で基本的な仕事を覚えないといけないこと多く
加えて、新型コロナウイルス感染拡大による異例の対応に追われた。
コロナ渦で先も見えない中で、迫り来る出産予定日。
4月に入籍し、彼女から妻になった。
入籍したタイミングで、もうすぐ子供が生まれることも伝えると
みんなにびっくりされた。そりゃそうだ。
出産予定日まであと1週間。
妻が命懸けで出産する、一大事だというのに
コロナ対策で、立ち合いも家族の面会も禁止された。
「家族をうまく養っていけるのか。」
「かっこいい父親になれるのか。」
苦手な部門の職についてしまい仕事もうまく行かず上司に怒られ
早くも職場での居場所も失いつつあった。
出勤前はお腹が痛くなる。
上司の顔が見たくなさすぎて早く外回りに出たい。
先を考えるのが不安でしょうがなかった。
妻に申し訳ない思いでいっぱいだった。
そんな不安の中、2020年6月2日。元気な男の子が生まれた。
可愛くて可愛くてしょうがなかった。
朝の6時に生まれたのだが、朝から感動して泣いたのを覚えている。
喜びと感動も束の間で、区役所に書類など提出しに行ったりと大忙し。
週に1度は妻の実家に訪れ、子供に会いに行った。
初めての子育てに追われて大混乱。
すぐに泣くし、おむつすぐ変えないといけないし。
自分がやろうとすると、上手くできずに妻に怒られた。
そして子供が産まれて大きく変わったのは、妻との関係だった。
ずっと優しくしてくれた妻の僕への対応は、冷たくなっていた。
女性は子供が産まれると脳のシステムが書き換えられると聞いたことがある。しかしそんな事は、当時は知らなかった。
「ずっと優しく大切にしてくれる人だと思ってたのに・・・。」
子供のことで頭がいっぱいだったんだと思う。
それでも、出産するとこんなにも変わってしまうのかとショックだった。
「自分の人生は結局失敗ばかりなのか。」
「自分の人生はこのままやりたいこともできず過ぎていくのか。」
思い返せば小学生の時から
自分の心から「やりたい」「挑戦したい」ということよりも、
他人によって行動を決めてしまっていた。
父親になって圧倒的に時間がない。
自由がなくなる前にもっとやりたかったことはあったはずだ、と。
日本中を旅行したい。
資格取ったり勉強して、スキルを上げたい。
テニスの大会にもっと出たい!
やりたいことはたくさんあった。
でも世間の父親のイメージは
「自分の時間なんてない」
「家族のために尽くさないといけない」
「家族の大黒柱なんだから、やりたいことは我慢しないといけない」
そんな否定的なイメージが脳内にこびりついていた。
それが今はどうだ。
仕事も気持ちが乗らず、ミスが続いて怒られる毎日。
辛い仕事。子育て。妻との関係。それらによるストレス。
「もっと自分のやりたいことをやっとけばよかった。」
激しく後悔した。
死んで楽になりたかった。
⑧社会人(中編):人生を変える出会い
コロナ渦によりテニスコートが閉鎖され、運動不足だった。
何か気軽にできる運動はないかなと
Youtubeで筋トレについて調べていた。
ある日、Youtubeを観た時、AKIOBLOGさんの動画に出会った。
彼は平日はサラリーマンとして勤務しながら
朝活としてコーチングやブログ、Youtubeなど副業に全力で取り組んでいた。
本業にも全力。副業にも全力。仕事終わりの筋トレも全力。
あまりにもエネルギッシュ過ぎて夢中になり、動画を一気見した。
AKIOBLOGさんが動画内でいつも言っている言葉
「全ての人に可能性がある」
「時間の使い方は命の使い方」
僕の心に言葉が深く刺さった。
「同じサラリーマンなのに自分とは全然違うじゃないか」
「自分の人生を今のままで終わらせてたまるか」
僕はすぐに、24時間営業のエニタイムに入会。
これが僕の筋トレとの出会い。
テニスコートの閉鎖が続いていたこともあり、筋トレ中心の生活に。
テニスをずっとしていたからそこそこの筋肉はあったものの
あまりウエイトトレーニングは行っていなかった。
Youtubeでどういったメニューでやったいいのか勉強し
どんなプロテインがいいのかネットを漁りまくった。
やるからにはとことんやりたい。
また、仕事と家庭と並行しながら筋トレをするために、時間管理に気をつけるようになった。だらだらYutubeやSNS見てる時間はない。
制限時間を設けて無駄な時間を徹底的に無くした。
筋トレを初めて3ヶ月。気がつくと、身体は筋肉が徐々につき、余分な脂肪はなくなってきたのを感じた。
テニスは対人スポーツ。相手がいる以上、自分が努力したからといって必ずしも勝てるわけではない。
しかし、筋トレは違う。相手は自分自身しかいない。
前の週まで上げられなかった重量があがるようになった爽快感。
もう1レップの限界を超えた達成感。
筋トレをすることで、小さな成功体験を積み重ねることができた。
しかし一番変わったのは、身体よりも心のあり方だと思った。
筋トレした後はかなり疲れるけど、活力に溢れているように感じた。
「自分もやればできる」
「俺もまだまだ成長できる」
筋トレをしなければ、こんなことを思うことはなかったと思っている。
この記事を読んでいるあなたが筋トレをまだしたことがないのであれば
今すぐ最寄りのジムに契約した方がいいと強くお勧めする。
確かに家でも筋トレはできるが、自分を変えたければ「環境」と「基準」に
投資した方がいい。
環境と基準をアップデートした方が、一番コスパ良く成果を出せる。
⑨社会人2年目:自己研鑽、そして積み上げまくる
AKIOBLOGさんの影響で筋トレや勉強・コーチングに興味を持ち、自分のための時間を徹底的に自己研鑽に使った。
しかし、自分のような父親は世間から非難されるのではないかと不安があった。
「父親なんだから我慢しろ」
「もっと家族のために時間を使え」
そう言われている気がした。
そんな中、元GOAL-Bの小島有史さんと、運営するパパコミュニティ「DADDIES」に出会う。
「悩みを共有したり相談できるパパの集まりがあればいいな」
「この小島有史さんって人、面白いな。入ってみよう。」
という思いでコミュニティに入会した。
このコミュニティはとにかく空気感が最高。
「パパだからできない」→「パパだからこそできる」
と、パパの挑戦とそのための家庭内の環境づくり背中を押してくれた。
妻や家族との合意形成の取り方やアンカリングなど
家庭を充実させながらパパが自分のやりたいことに
挑戦できるような環境づくりのために大切な考え方を
ワークを通じていろいろ学ばせてもらっている。
このDADDIESがなければ、「パパだから我慢しないといけない」
というマインドになっていたと思う。
改めてDADDIESをつくってくれた有史さんとメンバーに感謝したい。
そして、7月にGOAL-Bのコミュニティに入会した。
・最強の雄を目指すコミュニティ「500kg」
今までは、筋トレのBIG3(ベンチプレス・スクワット・デッドリフト)の重量はこだわっておらず、「筋肉に効く」種目ばかりを取り組んでいた。
単関節(アイソメティック)種目ばかり選んでトレーニングしていた。
しかし、この500kgというコミュニティは、
BIG3を限界まで本気で伸ばしていくコミュニティ。
先述したAKIOBLOGさんと1on1でお話しした際に
「秋吉さん、一緒に500kgのコミュニティで頑張りませんか?」
と直々に誘ってもらえた。めちゃくちゃ嬉しかった。
そして、このコミュニティもメンバーの熱量が最高に高い。
BIG3にコミットして頑張っている人の報告や話を聞くと
「俺ももっと頑張らないといかんな」とやる気にさせてくれる。
BIG3にコミットして4ヶ月弱だが、明らかにテニスが変わった。
スイングスピードが上がるだけでなく、体幹が強くなるため
バランスが非常に良くなった。
よく「筋肉をつけすぎると動きが遅くなる」と言われるが
ボディビルダーのようなゴリゴリの筋肉で埋め尽くされた体になる必要はない。それに、そんな簡単になれるものではない。
全身をバランスよく鍛え、勝つテニスで必要な「全身の力の連動性」を
鍛えられるのがBIG3である。
「BIG3を伸ばすことで、テニスがもっと強くなる。」
僕がBIG3が強くなって行く様子を発信し続け、かつテニスで結果を残せば
テニスにはトレーニングが必要だという考えが日本中に広がる。
プロも当然ウエイトトレーニングをより追い込むことでパワーが上がる。
海外選手のパワーに対抗できるようになるため
日本はテニス大国になれるチャンスがある。
自分が行動し結果を残すことで
日本中のテニスプレーヤーにインパクトを与えることができる。
本気でそう信じている。
だからこそ、僕がBIG3で500kg達成することに意味があるのだ。
⑩社会人2年目の冬:転職を決意
仕事だけでなく筋トレや勉強などの自己研鑽、そして家事育児をしていると
本当に時間がなかった。
仕事は慣れてきて楽しかったが、上司との人間関係が上手くいかなかった。
そんなとき、「本当にこのままで良いんだろうか」とキャリアのことを考える時間が増えた。
家族のために稼がないといけないのは分かる、でもこのまま同じ仕事だけだとこの先後悔するんじゃないか、と思った。
ある日、知り合いの人とテニスしていた時に
「秋吉さん、テニス上手だし教えるの上手だからコーチになればいいのに」
と言われた。
「いやいや、そんなことないですよ〜」
と返したけど、練習から帰りながら色々考えた。
「好きなことを仕事にできるのはいいなあ」
「でも給料あんまよくないって聞いたけどどうなんだろう」
けど、テニスコーチとしてコートに立ち楽しく働いてる自分を想像すると自然とワクワクした。気がついたら、転職サイトから応募していた。
それが、人生を大きく変えることになるとは知らずに。
応募したのは、姫路を本社に全国に展開しているテニススクール。
プロ選手が所属する実業団もあり、全国的に有名なところだ。
1次選考は広島の校舎で、年末前に行った。
実際に面接官の方が行う一般のレッスンに入って、テニスのスキルやコミュニケーションを見られた。
広島校は実家からとても近く、もしここに配属になったら実家に住めば家賃も浮くし経済的だと思っていた。
しかし支配人と話をしたところ、もうすぐ広島校は他のテニススクールに譲渡されると聞いた。
「面接受けに行って、そんなことってある!!??」
って思ったが、広島は地元のスクールが強い県なので新規参入はハードルが高く難しかったのかもしれない。
「仮に転職したら県外になるけど大丈夫?」と聞かれたけど、「はい、大丈夫です」と答えるしかなかった。妻には驚かれるだろうなと脳裏に過った。
面接翌日に結果の連絡をいただいた。
結果は、合格。
採用されても県外を離れることになりそうと不安もあっだが、無事2次選考に進むことができた。
2次選考は1月半ばに岡山の倉敷校へ受けに行った。
緊張しながら新幹線に乗ったのを覚えている。
受験の時もそうだったが、こういった試験や試合といった局面で緊張しなかった事はなかった。また、仕事が忙しくテニスの練習をそこまでできていなかったので上手くいくか不安だった。
面接はヒッティング用のコーチとそれを見る部長クラスの人だった(後々、この人にはすごくお世話になる)。
ヒッティングで技術面を見られ、1対2の面接で志望動機や入社してやりたいことなど話した。
面接官の2人とも結婚して子供がいる人だったので、共感してもらえる部分や家族のことでこの転職についてどう思われているかを聞かれた。
実はこの時点では妻にしか話しておらず、自分の親には全く話をしていなかった。どうせ話しても「やめとけ」の一点張りだろうと思ったから。
こういった採用選考の結果って、1週間とか時間がかかると思っていた。
しかし、倉敷から帰ってきて妻に「頑張ってきたよ〜」と話してた時、採用担当の人から連絡があり、無事合格。
面接受けたその日に連絡が来るなんて思ってもいなかった。
あまりに急すぎて心の準備が全くできていなかったが、一安心した。
最終選考は1月末にZoomで社長と面談。
このスクールの社長といえば、人材教育に力を入れていることで有名で書籍まで出している。
最初の印象は「関西弁の強いおっちゃん」って印象だった。とてもグイグイ質問してくる。でも話す時はそこまで緊張しないくらいスムーズに話せた。
このノアは「家族経営」というのもあって、家族持ちの人への福利厚生であったり思いやりが充実している風土が広がっているんだろうなと面接を受けているうちに感じた。
最終面接も終わり10分後には無事「採用」!
まさか10分後に採用連絡来るとはここでも思わなかったが、ひとまず安心した。
テニス関係の繋がりが強いTwitterでノアに入社することをツイートすると多くの方にリアクションを頂いた。
スーツを着て出勤する生活はわずか2年で終了。
これからはテニスウエアで出勤する、第二の人生が始まった。
4月からは広島を離れ新しい生活。
テニスコーチとして働いての様子は、また別の記事で・・・。
⑪最後に:これからについて
以上が僕の27年間の生き様になります。
大きな挫折ばかりの27年間だった、と振り返ってみて思います。
しかし、過去は変えられなくても未来は変えることができる。
僕のWant Toは、「自分が学んだ知識や経験で人の成長を支援する」こと。
他人だと思わずに、自分のことのように無意識にサポートします。
そのための熱量は無限にあると自負しています。
テニスを通じて、人の喜びと健康を生み出していきます。
就職活動・転職活動の時に
「稼げないからやめときなさい」と親に言われた職業。
しかし、そんなことは関係ない。
自分のドラマの主人公であればそれでいい。
テニス・コーチングを通じて関わった人が
今までできなかったことができるようになったり、理想の自分に近づくためのサポートを人生かけてやっていきたいと思っています。
そのためには、心と身体の両方を変えることが必要。
だからこそ、その挑戦の伴走者として目の前の人と一緒に走りたい。
それが僕の生き方。
勇気を踏み出して一歩ずつ行動を起こしたから。
DADDIES入ったり筋トレしたりなど、Youtube見ているだけじゃなく
「このままじゃばい」と行動に移したから。
行動することでしか、未来は変えられない。
一度きりの人生だからこそ、一歩前に踏み出しましょう。
僕は、生き方も死に方も、自分で決めてみせる。
そして、家族にとって最高のパパになる。
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