書評 #62|悪徳の輪舞曲
序盤から物語の根幹を成すと思われる展開が読者の度肝を抜く。その光景は強烈な印象を残す。それはどこからどう見ても真実としか思えないからだ。真実は果たして真実なのか。中山七里の『悪徳の輪舞曲』は「想像を超えることを期待する旅」と言えるのかもしれない。
その旅の道先案内人は御子柴礼司。人を殺めた過去を持つ弁護士だ。物語の構成要素として殺人を扱うことは珍しくないが、その加害者が読者の視点に立つことに物珍しさと同時に違和感を感じる。熱い氷を食べているような不思議な感覚だ。しかし、その設定は興味深い。なぜなら犯罪加害者を読者のコンフォートゾーンの内に置くことにより、身近に存在し得る存在として体感し、彼らの更生についても見つめ直す機会を与える。御子柴礼司は「犯罪加害者が身近にいたら」という誰もが体験し得る仮定を体現する存在なのだ。
論理的に目的を遂行しようとする主人公。成功のために感情を排除することを学んだ彼だが、実母の弁護を通じて感情の揺れに翻弄される。それは彼自身が暗い過去から立ち直り、感情を取り戻したとも言えるし、人間の不完全さを描いているようにも感じる。
『悪徳の輪舞曲』は真実の明暗を逆転させる反証を探す物語だ。その反証もまた結果として、人間の不完全さを語る材料の一部であった。
「人間というのは見たいものしか見ようとしないし、聞きたいと思うものしか聞こうとしない。記憶もそうでしてね。こうあってほしい、こうでなきゃ駄目だというかたちに変えてしまうんですよ」
最終的に二つの事件が交差する本作。結末は灰色であるが、灰色ほど人間を表している色もないのかもしれない。