ダンス・ダンス・ダンス(村上春樹) アートライティング
ダンスダンスダンスは村上春樹による長編小説だ。
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」に続くシリーズの4作目である。完結篇から述べるのは少々気が引けるのだが、何となくこの作品を取り上げる。というのも、現代と云うのは作中の時代80年代とは異なる意味ではあるが、帰属性の無さが問題となっている様に思われるからだ。誰が友達で、誰をフォローして、誰にフォローされて、その数は幾つ?とカウントする傾向は過度で過剰な、数への依存傾向といえる。それは一瞬で崩壊し得るものだ。だからといってその外側でリアルな繋がりを求めるのも難しい。家族や友人関係は、より拡散化して、関係を確かめる事も出来ない。
故に、今回、〈帰属性/居場所〉と云うテーマで本作を読もうと思う。
《ここで述べられる帰属は本来的な意味合いとは少し異なるが、ニュアンスで理解して欲しい。帰属と云った場合理由付け〈内的帰属/外的帰属〉となり、帰属意識と云った場合集団に属している、と云うニュアンスになる》
私自身の居場所がない感じ、そう云うものが現在もあり、これからも進んで行くと思い、本作を選び読み返してみた。
私は熱心な村上春樹ファンではない。ただ、暗く出口のない状況で少しでも生きる為に心を明るく保とうとして本を読み返した。が、昔読んだ心象とは異なり、見えてくるのは暗い背景だ。明るく見えていたものはメタ的に呪術をなしているように感じられる。
本作は、それまでの作家とは違った意味で一人称の名手である村上春樹の作だ。
大方ネタバレなので、避けたい方は、あらすじ1〜5、を飛ばしていただきたい。
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あらすじ 序
「1973年のピンボール」では「ノルウェイの森」とは別の直子の死が語られ、「羊をめぐる冒険」では耳が綺麗な娼婦〈キキ〉の力を借りて羊を探し出すも、親友ネズミを失う。両方とも自殺だった。そして彼女〈キキ〉も去ってしまう。1983年の時点で「僕」はもぬけの空で、気付けば70年代は過ぎ去り、バブル経済の気配がある。
主人公は度々夢を見る。いるかホテルの夢だ。其処では誰かが泣いていて、〈僕〉は彼女を捜そう…と思い立つ。「ダンスダンスダンス」は44章ある長編小説だが以下の様に五幕に分かれている。
1北海道へ
取材で函館を訪れ思い立ち〈僕〉はキキを探すべくいるかホテルを予約する。だが、帰還したホテルはかつてのオンボロいるかホテルではなく巨大一流ホテルに変貌していた。かつてのオーナーや関係者は一掃され、名前だけが継承されている。くだらない雪かき仕事、大量消費と高度資本主義社会に居場所のなさを感じる〈僕〉は魅力的な受付嬢ユミヨシさんと出会う。
ユミヨシさんは、かつてのいるかホテルに興味を持つ。「このホテルは何かおかしい」ユミヨシさんは云う。彼女は或る日、エレベーターから降りた時、真っ暗なフロアに出てしまった体験を話す、暗闇の奥に何者かがいる。「僕」は彼女を家に送り、「僕は彼女と寝ようとと思えばやれたんだ」、と思う。ユミヨシさんと会いぶらぶらしながら〈古代エジプト王立スイミングスクール〉に付いて妄想をしていると闇のいるかホテルに着き羊男と再会する。
偶然訪れた映画館で旧友が出演しているといると云う理由から『片思い』と云う映画を見て、其処でスクリーンに映っているキキを見付ける。
2東京に帰還1
収穫は得たと考えて〈僕〉は東京に帰るのだが、ユミヨシさんから頼まれ事を受ける、ユキと云う少女を連れて行く。彼女は霊感の鋭く複雑な事情を抱えていて、第二のファム・ファタールである。
旧友、五反田君となんとか会い探している女性の名が〈キキ〉だと知らされる。五反田君の協力で二人のコールガールと会う。キキが所属していた組織だ。しかし、コールガールの一人メイが殺され〈僕〉が重要参考人として警察に任意同行させられ、タフな取り調べを受ける。其処でユキの父牧村の計らいで警察署から離れ、牧村に会う。
ユキとは奇妙な共生関係になる。
3ホノルル
ユキが母アメに会いに行くためホノルルに行くと云う、〈僕〉は同行する事を許諾する。ユキとアメの親子関係は絶望的で、母は娘と「友達になりたい」と云い娘は「ママは私を傷つける」と云う、袋小路である。〈僕〉はアメの愛人で詩人のディック・ノースと仲良くなる。彼は片手の詩人である。そんな中、或る夜、コールガールのジェーンがやってくる。牧村の手回しだ。彼女は電話番号を残しまた来ると云った。
ユキとアメの関係修復に助力したい〈僕〉だがうまく行かない。そんな中、道端でふとキキを見かける。〈僕〉はユキを車に残しホノルルの街を走る。キキは或るオフィスビルに入り姿を消す、そこで〈僕〉は6体の人骨を見つける。オフィスには電話番号が残されていて、それはジェーンの番号と同じだった
4東京に帰還2
色々と進展があったので〈僕〉はユキをホノルルに残し東京に帰る。五反田君との親交を深める。五反田君が車を交換して欲しいと云い、〈僕〉はマセラティをあずかる。
ユキが帰ってくると、同じループを繰り返す、暇つぶしにユキと遊び時間を作って五反田君に会う。
しかし、ユキはマセラティが気に入らない。
事件は進展しないかに思われたが、或る日、ユキと〈僕〉は『片思い』を見る。キキがフラッシュバックする。
そしてユキは云う「キキは殺されてマセラティで運ばれた」
五反田君に事情を聞く、翌日彼は自殺体で発見された。
5北海道への帰還、そして…
〈僕〉はものごとが片付いたのでユミヨシさんに会いに行き羊男と再会しようと試みるが…
レビューはここから
いくつかの点から「ダンス・ダンス・ダンス」をみてみたい。
大量消費と高度資本主義
本作は1983年を舞台とした作だ。故に、景気が良く、《バブル景気とは86年からとwikiにはあるが…》主人公のリア充感もあり、場面は滑稽にすら映る。それは冒険や物語、愛や居場所ですら、数字で数えられ利益に変えられる資本主義である。システムに組み込まれた即物性だ。構造的な問題や内在化…腐敗の臭いがする。現代のSNS社会とも通じる。利益になれば何でもやるし、誰かが犠牲になっても仕方がない、何時でも人を捨てられる、人間関係を経済的な基準で測る…つまり「大量消費と高度資本主義」とは関係性の喪失に関する一つといえるようだ。
大量生産、大量消費、資本主義、宿命のようなセットである。
いるかホテルは帰るべき場所から、資本主義的シンボルに変貌してしている。人は去り友人はいない。《また、作者は物語の中で失い物語を進める。犠牲や名残がある、それも紙と熱に還元されてしまう》
高度資本主義経済とは、それが〈商業的政治的経済的〉物語的利益になるのであれば如何なる犠牲も厭わないものであり、残酷さと完結さであり、途轍もなく便利だ。
『ダンス・ダンス・ダンス』作内ではこれの根本的な解決は示されない。
当然、現代でも問われる問題だ。アンディー・ウォーホール的に一瞬で加熱したバズが、何も無い所に価値(ヴァリュー)を生み出す。良くも悪くもあない、それが情報社会と私達は知っている。人気や一時的なバズに依存しない価値判断を夢見る一方、それが普遍性への虚しい切望である事も何処かしらで悟れる。
〈僕〉は「これこそ確かはず」と祈るように愛を抱き寄せるが…
ここで使っている〈帰属性の無さ/居場所の無さ〉と云うのは、自己の喪失〈自己同一性の喪失〉とはちょっと違う感じがする。ノスタルジックな気持ちから過去の共同体に帰ろうとするのはどう考えても違う。社会とは不可逆なものなのだ。
高度資本主義社会では、人間の関係すら経済活動になって行く。価値ある人間や地位を持つ者が、それを持たない人間から搾取出来る。「居場所」と云うのはそう云う利害関係では成立しない場所である、と主人公は思うのですが、現代を見るとその定義で云える居場所と云うものはかつてよりずっと減っているように見える。
モダンアート的な背景があると云えないだろうか?
生贄 メタファとして消費される者たち
『魔法少女まどか☆マギカ』は生贄としての少女性について語られたアニメと言えるだろう。消耗される性としての女性、これは文学的にも問題である。
本作でもシリーズの主人公がファム・ファタールを通して居場所を探すと云う二重構造だ。シリーズの主人公を同じやり方、カタルシスのシステムで居場所まで導くと云うのは、魔法少女になって絶望しないのと同じくらい本末転倒である。
物語の使い手として名を上げる一方で登場人物を薪のように燃やす作者は、一方で破綻している事に自覚しているのではないか?物語的カタルシスに費やされるキャラクターを同じ方法で〈自分と云う人物〉救えるのだろうか?浪費と消耗の果てに居場所があるとは到底思えない。
ファム・ファタール〈キキ〉を探す為に、ファム・ファタール〈ユキ〉に会い、物語のための物語が紡がれる。これは物語システムに対する作者の自問にも感じられる。モダン的だと思わないだろうか?これは「魔法少女まどか⭐︎マギカ」にも共通するメタファであると感じられる。
生贄は「1Q84」に共通し、広げられて語られるテーマである。村上春樹のテーマとして漠然とあるものであるようだ。
タルコフスキーの「サクリファイス」の中では、主人公は魔女と交わることで自己犠牲を支払う。しかし、この世を救う救世主は段々と女性になってゆく。
女性性が救世主に縛られているのだろうか?恐らく、違う。女性が抱き得る絶望しか、世界の終りと等価であるモノがなくなってきているのだ。しかし、だからフィクションの中で生贄を差し出すのだろうか?
HIPHOP的手法
音楽のイメージを導入し、それを切り貼りしてコラージュ〈=チャネリング〉したり、それを日常の背景にしたり、本作では印象的な手法が見れれる。ビートルズを登場させ全体的なトーンを揃えた『ノルウェイの森』から一歩進んでいるのがわかる。
同時に村上春樹的手法の限度も感じられる。日本の文化をなかなか素材に出来ないからだ。
本作内のコラージュ的手法は古典作のそれとは異なりポップで粗野で粗暴である。改めて読むとHIPHOP的サンプリングを思わせる。同時にサンプリング故の複雑さがある様に感じられる。HIPHOPカルチャーのアイコンとしてキース・ヘリングのバッジも登場する。
カート・ボネガットの影響
「ダンス・ダンス・ダンス」はボネガットに影響された作家としての村上の最後の作品ではないだろうか?
このボネガットに影響された、という点は村上作品の評価に関わる問題と私は考える。
ボネガットは軽快な語調で語りかける小説の名手で、芸術のメインストリームに批判的なユーモアのある作家であった。過酷な現実に対してユーモアを武器に描き切るというスタンスは村上春樹の重要な側面であった。だがその傾向は少しずつ薄れて行く。
ファム・ファタールへのレクイエム?
本作は、「ファム・ファタールへのレクイエム」と云う意味ではケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」に重なる部分を持つ。文芸に消費された女性たちの尊厳に目を向けるのが「ヒロインズ」であったが、「ダンス・ダンス・ダンス」はそこまで振り返ることはできない。この側面では中途半端な味わいしかないだろう。
〈キキ〉とは実在した人物、モンバルナスのキキ=アリス・プランをイメージして付けられた名だと考えられる。彼女には前作「羊をめぐる冒険」では名が無いが本作で物語初期に名を与えられる。
この女性像を消費して物語を書き上げる手法については「ヒロインズレビュー」をご覧いただきたい。
前作「羊をめぐる冒険」は〈女性をファム・ファタールとして消費してしまうシステム〉としての物語であったとここでは仮説立てている。
ファム・ファタールを作り上げるのは男性社会(ホモソーシャル)である。そこで消費される女性像の一つがファム・ファタールなのだ。ところでファム・ファタールとはどのような人間像なのか。
〈女性をファム・ファタールとして消費するシステム〉とはモダニズム時代の文学の典型例である。女性をチャネリングのための道具としている詩人や小説家の手法もこれにあたる。実際に自分の妻をツールとしている場合もあれば、物語に登場させ構造的に消費するパターンもある。ここでは主に物語の中で利用するものをこのシステムとして考えている。
「ダンス・ダンス・ダンス」におけるキキはかつてファム・ファタールだった人間である。つまり、彼女のファム・ファタールとしての役割は「羊をめぐる冒険」で完了している。
「羊をめぐる冒険」でのキキは三つの職業を持っていた。出版社のバイトとしながら、耳専門のモデルをしていて、コールガールであった。主人公とは耳のモデルとして接触する。彼女はその神秘的な耳の能力で主人公〈僕〉に予言のようなものを提示する。
村上春樹評で述べられるホモソーシャルを背景とした考察があるが、ファム・ファタールとして女性を消費するという物語構造自体がホモソーシャル的な発想と言えるかも知れない。
私が考えるところでは、前作ではファム・ファタールと云う消費のされ方が何処か心残りであった。彼女の役割が、何処か物語的な部品なのだ。
「ダンス・ダンス・ダンス」はキキを通した、帰属性の模索と私は仮説立てできるが、キキと云う女性を知り追いかける物語でもある。システムで消費されたファム・ファタールを鎮魂することで新たな居場所を見出す物語〈システム〉である。
これはこの上なく物悲しい事実性との対面でもある。カタルシスのシステムとしてヒロインを消費した先に、何処にもいない自分を見つけ、それでも何処かに居よう、何かに属そうとする懇求が、キキを通して現れるからだ。
〈僕〉とは実に呪われている。軽快でポップな様子でタフだが、大切な人間を要所で消費してしまう。そして、明るいが故に罪悪感すら抱けない。
ユミヨシさんとユキへの接し方はには別に見える。失いたく無いのだろう。この対比は失ったものの大きさを感じる。
五反田君
終始、物語の側にいて、主人公に重なり合ってくる人物が五反田君だ。ハンサムで好感が持てて信頼出来る。でも、重ねられたペルソナ、幻想の配役を演じ続ける事ですり減っている。彼を見ていると現代のSNSを想起させる。過度な演出、マンネリ化、アイコンと役回り、本質が空っぽのまま装飾ばかりが加熱してイメージでイメージを語っているような感じ、その当事者といえる。〈僕〉も五反田君のようになる可能性があった。
いいえ、もしも失われ続け、心の震えや帰る場所を失ったとしたら近しい破滅を〈僕〉も迎える、そう暗示させている気がする。物語としてキキを消費し再び会うとしたら、そう云う事になり得るだろう。
映画の中でピアニストが登場したとして、その演奏の内容に深く触れる事はない。役者は奏者ではない、当たり前だが、それがフィクションだ。だが、演奏とフィクションと云う境界線が曖昧になって行くとそれは見失われてしまう。〈僕〉も五反田君も同じく、そうやって虚構を生産して売り捌く仕事で生活している《そして作者も》。「それが時代」と切り離して考える事が果たして出来るだろうか。
五反田君に似ている人物は村上作品に時々登場する。何処かギャッツビーっぽい。
お勧めポイント
本作の主人公には名前がない。ただの〈僕〉である。〈僕〉には複雑な経歴があるが、基本的に人物を通して人物像が浮かび上がってくる。冒頭では「月」と云うメタファを使う恋人を通して、主人公の帰属性の無さが表現されている。何処にでもいる人間、と本人は述べますが仕事も出来てモテるほほうだ。
何処にも居場所がない〈僕〉は取り立てて何かを解決する能力はない。しかし、メタファーを通して何かが暗示される。メタファーは記憶の奥底と繋がっていたり、よく見る光景や何気ない一言から繋がりを導く。
《本当は繋がっている》と云う不思議な感覚、それが本作における一つの結び目で、それが表面的ではなくステップによって大きく円を描いて帰ってくる、そう云う関係性に帰る。
緻密ですが、明瞭な解にはたどり着けない問題を生きる、そう云うメッセージがある様に思える。
現代との違い
問題の抜本にあるものは同じなのだが、現代と80年代で違うのは、たとえ景気の違いだ。つまり比較的雇用があった時代である。本作内で批判の対象となる内需の問題が、現代では連続的な不景気で失われている。80年代のやり方に帰る訳には行かないのだ。
ですが作者は80年代を得意としているらしく、『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』など時代を舞台としている。
何が成功したのか?
1ポップソング
本作では全編80年代ポップスで彩られ添えられています。マイケル・ジャクソンとジョディー・フォスターは劇中での幻想劇に登場して、音楽を取り入れる場面はストーリーのピークぴったり当てはまっている。主人公がドルフィンホテル内で闇のイルカホテルに向かう際、頭の中を過っている幻想〈王立スイミングスクールの幻想〉はコラージュ、チャネリング、ポップスが重なり合った見事なシーンだ。
2社会批判として
本作における社会の問題は、現代社会でも問われている。人は、数や巨大な経済の中で消費される付属品になり、フォロワーとして消費される大衆は基本的にアイコンに属すが、アイコン側からは名のない存在だ。消費社会は「帰る場所」や「家族や親友」すら数値化出来る事を示している。拡張と多様化は或る種の人に孤独感を与える。本作で主人公が抱えている不安は現代人が抱えている問題と近しい。
同時にこの不吉な不安は当然テーマとして残り続けている。複雑で高度な自動システムをどう生きるのか?と云うテーマはあらゆる分野で末期的自問に当たるだろう。
結び
今回はマインドマップを導入して感想を書く試みしてみた。
物語システムとしても青春小説としても恋愛冒険小説としても、読み直して改めて、高い水準であると感じた。また、『ヒロインズ』を読み考えると物語そのものを見直し読み直さねばとも感じる。
全体を見渡すと全体的に豊かな印象だ。サバイブするのに苦労している人の姿はない。この時代にも多くいた筈なのだが…
文学とは既存のイメージを借りて演じる訳だから、新しい事をするには不向きだ。だからといって同じテンプレを繰り返す訳にも行かないのだが…
《それは円を描けば描くだけ虚しくなるダンスだ》
個人的にはファム・ファタールという側面から読み解くとこの物語が持つ悲しさが際立つように思われる。
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