信玄が遠回りしたのはナゼ?:二俣城の地形と地質part3【お城と地形&地質 其の七-3】
戦国時代の「城」は、様々な理由でそこに建っています。
徳川家康領である二俣城は、天竜川沿いに立地し、平野と山地の境界部に位置しています。
堅牢な二俣城にも弱点があり、その1つは「水が無い」ことでした。
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今回はもう1つの弱点についてのお話です。
二俣城のもう1つの弱点を考察
二俣城を直接的に落城させた原因は「水」でした。
城が建つ山は、規模や地質的な要因で地下水が乏しく、天竜川から水を汲み上げる必要がありました。
その施設を破壊されたことで、城主は降伏を決断するに至ります。
しかしここまでに至る前の段階で、実は武田信玄は二俣城のもう1つの弱点を突き、城の包囲に至ったと考えられます。
武田軍進軍ルートの概要
ここで再び、武田軍の侵攻ルートを確認してみましょう。
この図は関係各城の位置関係と武田軍の進軍ルートを図示したものです。
信玄本軍が二俣城に到着した時点での徳川領が青、武田領が赤です。
武田信玄は犬居城を手に入れたあと、隊を2つに分けており、上図の黄色点線と赤点線に別れます。
それぞれの隊と進軍ルートは以下の通り。
馬場信春隊 5,000人:犬居城→只来城→二俣城
武田信玄本軍17,000人:犬居城→天方城(あまがた)→一宮城→飯田城→各和城(かくわ)→向笠城(むかさ)→勾坂城(さざか)
信玄はだいぶ遠回りして二俣城へ向かいますが、これは上記各城を落とすことで、家康の居城である浜松城と遠江東部の掛川城・高天神城を分断させるためです。
進軍の前後関係
馬場信春隊は1572年10月13日に只来城を落とし、その足で二俣城へ進軍しています。
一方の信玄本軍は犬居城から東進して南へ進軍し、天方→一宮→飯田→各和→向笠を一日で攻略したようです。
距離や城の数から、おそらく各城主へは事前に降伏勧告を行い、犬居城主の案内で進軍したのでしょう(※犬居城主は事前に寝返っており、青崩れ峠まで信玄を出迎えている)。
そして10月14日、勾坂城へ向かう途中で徳川軍と遭遇。
有名な一言坂の戦いが勃発します。
この戦いは圧倒的な兵力差で武田の圧勝(徳川の退却)で終わり、翌日15日に勾坂城を陥落させ、16日に二俣城で馬場隊と合流します。
以上の信玄本隊と馬場隊の二俣城到着のタイムラグが、二俣城のもう1つの弱点を示しているのではないか?と私は考えています。
二俣城の北東を探れ!!
まずもう1度、二俣城周辺の地形を確認しましょう。
二俣城とその城下の平野は急峻な山地に囲まれており、その切れ目は上図の黄〇で示す5か所のみです。
しかしこのうちの4か所は天竜川を渡河しなければ入れません。
国土交通省の観測データによると、このあたりの天竜川の水深は約3.50mであり、川を渡るには船を使う必要があります。
いくら兵力差があるとは言え、渡河中に矢や鉄砲で攻撃されたら被害は甚大です。信玄としては極力避けたいハズ。
しかし1か所だけ天竜川を渡らずに済む場所があり、それは北東の谷です。
ここには天竜川の支流である二俣川が流れており、同じく国土交通省の観測データでは、なんと30cmにも満たない水深です。
そしてこの二俣川の上流には、あの只来城があるのです!
信玄の巧みな戦略
そうです。
馬場信春に別動隊を任せて只来城攻めを命じたのは「最も難易度の低いルートで二俣城へ到着することができるから」であったと考えられます。
上図で見て分かるように、只来城ー二俣城は二俣川を介して一直線につながっていますよね。
信玄の進軍ルートも遠江国を攻略する上で重要ですが、馬場隊よりやや時間がかかります。
しかしその間に馬場隊が二俣城を包囲していれば、天竜川の渡河を徳川に邪魔されることはなくなります。
一見すると難攻不落の二俣城でしたが、北東部に弱点がありました。
しかし本来であれば、只来城と密に連携することで敵の侵入を防いだと考えられます。
ここで、事前に犬居城主・天野藤秀を裏切らせて自陣に引き入れた策が、絶妙に効いて来るのです。
藤秀の出迎えによって、穏便にスムーズに犬居城まで到達できたことで、只来城と二俣城に武田軍侵攻の情報が入るタイミングは遅れたことでしょう。
これによって馬場隊による只来城陥落と二俣城の包囲がより確実になります。
信玄がはじめからここまで読んでいたとしたら?
さすが戦国最強武将と呼ばれるだけあるなと感心させられます。
今回はここまで。
お読みいただき、ありがとうございました。
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