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やはり人生はゲームだと思う
人生はゲームだと思うのがいいような気がする。ほんとうはゲームでは片付かないことも多いのだが、人が生きていくうえではどうしても
ゲームでは片付かない部分
に焦点が当たりがちだ。それがムダな軋轢や感情論を生み、解決できるものも解決できなくなってしまうことが多いので、ここはひとつ
人生はゲームである
という風に割り切ってみるのも手なのではないか。
感情論を避けられる
ゲームだとわりきることの利点は、必要以上に感情的にならないで済むということだ。たとえば少子化にしろ、超高齢化社会にしろ、ことばを聞いただけで
うっとうしい・・
ような、どん詰まりに向き合っているかのような気分になるだろう。しかし、すこし視点をずらしてこれは「少子化ゲーム」であり、「高齢化ゲーム」なのだと思ってしまえば、「ちょっと攻略してみようかな」という前向きな気分になれなくもない。
ゲームだと思った時点で、「あたえられた条件でいかにうまいことクリアするか」という駆け引きのおもしろさに焦点が当たる。たしかに「少子化ゲーム」も「高齢化ゲーム」もクリア条件の厳しいゲームにはちがいないが、あまり簡単なゲームというのはやってもおもしろくないので、少々むずかしいくらいがちょうどいいのだ。
人類史もある意味ゲーム
かつて「Simcity Creator」というゲームをやったことがあるのだが、たしか「シムシティDS2」というタイトルで日本語版が出ていたような気がする。
攻略法のサイト
これは街を作り上げていくゲームである。しかも現代の街だけじゃなくて、古代から中世、近代、現代と徐々に都市を発展させていき、地震と環境汚染に悩まされる地球温暖化時代へと向かう。
そのながれをDSで俯瞰していると、人類の苦難の歴史もある意味ゲームだと思えてくる。
日常もゲーム
高齢化社会だの、人類史だのといった大きな問題ばかりではない。
生きていくためにはお金が必要だが、お金といえば「労働」である。そして労働という言葉ほど、ゲームから遠いものはない。
労働と聞くと、尊いもので、苦しいもので、額に汗する大変なものだという気がしてしまうが、そもそも生活するためのお金を手に入れるということならば、お金儲けゲームだと思ってしまったほうがいい。
お金儲けゲームというと、すぐマネーゲームみたいな不毛なことというイメージがつきまとうけど、これこそ洗脳だ。そうではなくて、高齢化社会ゲームと同じく、人生に必要なお金を手に入れるためにどうすればいいかという「攻略法」を楽しんでいるのだと思ってやればいいという意味である。
こうすればよけいな感情論は避けられる。「延々続く会議エリア」とか、「上司の飲み会ステージ」は、経験値がアップしないわりには体力を消耗するので、避けたほうがいいとわかる。
駆け引きを楽しむ
ゲームというと、「功利的」、「打算的」とおもわれてしまうかもしれないが、ゲームにおいて大事なことは1にも2にも
駆け引きを楽しむ
姿勢である。たのしむというのが一番大事なことであって、歯ごたえが足りないと思えば、「延々続く会議」というハードモードを楽しんでみるのもいいだろう。おなじ会議に出るにしてもため息をつきながら出るのではなく、ハードモードを楽しんでいるという風に思ったほうが、ネガティブな感情に支配されないので、いい知恵も浮かびやすい。
介護ゲーム
ぼくはいま「介護ゲーム」というやつに参戦せざるを得なくなったので、まあそういうことをかんがえてみるわけである。いちいちめんどくさいとおもっていればめんどくさいだけなのだが、ゲームだと思っているので攻略法を練っている。ただし、現状はノーマルモードでもハードモードでもなく、イージーモードを選択している。初心者は見えを張らずにイージーモードを選択しよう!
しかも、介護ゲームは、お金儲けゲームとも連動しており、そちらがハマればこちらにもリソースが回ってくるので、ハードモードに突入しても、一気に攻略できる。このおもしろさはやはりゲームである。
ゲームと情愛
すべてをゲームとして眺めるということは、情愛を排するということではない。ゲームだと思って気楽に楽しんでいるほうが、眉間にしわを寄せてイライラしているよりよほど余裕が生まれるので、情愛も豊かになるはずだ。
日本語や日本社会ではやたらと情に流され、論理がないがしろにされやすいきらいがあるので、そのあたりを子どもの頃からゲームで補強するのは、これからの日本人の生き方としてぜんぜんアリだと思っています。