変わらない、好きなこと
いままでの自分を否定して
別の自分になる未来を望むのはなんでだろう
周りのように、テンション高く、群れて、盛り上がる術が自分には必要で
そういうテクニックが自分に欠けているように感じてきた。
けど、どうしてもうまくできずここまできました。
そしたらつい昨日、それは間違っていたのかもしれないと
気付かされる流れが唐突に…。
どちらかといえば、私は陰気な方です。
一人遊びが好きで、時間があれば図書館に繰り出し、人といるのが鬱々としたら自転車で当てもなくドライブしていたような子。
女子の輪に入るのも苦手。ニュースもドラマも見ないから世間知らず。
人と繋がるための材料を持っていなかったのかもしれない。
誰ともシェアできない喜びを、ひとり手のひらの上で転がして、持て余していました。
よく考えてみると、その習性は今でも変わりません。
仕事場では人に話しかけられない。
おそらく場に不似合いなリアクションをして空気をおかしくしている。
テレビを全く見ないし、ニュースにも興味がないのでみんなの話についていけない。本当に居心地が悪いです。
だから人といることがどうしたって疲れる。
ひとり親でもあるから、渋々生活のために働いてるけど
帰宅したらとにかくルーティンをこなして
本を読んだり、ノートを書く時間を死守。
あまりにストレスが大きい時は、時間も次の日のことも考えず車を走らせて解消したい。
子どもの時とやっていることがまるっきり同じ。
変わらないのです。
そうしてわかったのがこんなことです。
誰かにとって簡単なことが私には難しくて
誰かにとって難しいことが私には簡単。
難しいことをクリアしないと社会で生きていけない、
と思わされる社会。
けど、必ずしもそうかというと、きっと違う、
と考えられるようになったのは自分でも驚きです。
私たちが自然と発する波長には、自然と集まるものがあります。
それをシェアしていくことが大切なんだ、と思ったんです。
私にとってのそれは、きっと「直筆」の「励ましの言葉」。
他にも、ご近所さんからいただくお野菜や、人から打ち明けられる相談事です。
大人になってからは「いい声をしてる」「字が綺麗」と言われることがよくありました。セラピストをしていた頃は、人の話をただ聞いているだけで感謝されることもありました。
そんなことが当たり前すぎて、すっかり見過ごしていた「自分」の側面。
そこに光を当てると、もうこれ以上、周りと馴れ合うのはやめてもいいのではと思うのです。
仕事って、映えることとか、キャッチーな何かがないとできないと思っていましたが。
「ありのままの自分を世の中に差し出す」ことでも仕事はできるんじゃないでしょうか。実際、そうして生きている人がいるはずです。
映えない自分のままで集まるものがあるとしたら、それほど嬉しいことはないですよね。私はそれをやってみたい。
実は、以前フリーランスのセラピストをしていたのですが。
その頃は世間の目や常識に囚われて、自分ではないものを演じて疲れました。
そうした自分に集まってくる人は優しくなかったし、利用されることも度々。
それでやめてしまいました。
今度は、このままの自然な私を差し出したい。
表現したい。