サルトル 『嘔吐』解説

あらすじ

歴史学者アントワーヌ・ロカンタンは長期間の研究旅行からブーヴィルに帰ってきた。土曜日、子供たちが水切りをして遊んでいる。ロカンタンは真似をして小石を拾う。その瞬間、ロカンタンの中に何かが起こった。以来、<事物>の意味が剥がれていき、ロカンタンは<吐き気>に悩まされる。


サルトルの思想

 『嘔吐』はサルトルが自分の思想を、ロカンタンという主人公の日記の中で具体的に説明したものです。なので絶対思想背景を知ってから読んだほうが面白いのですが、サルトルの思想、というか実存主義自体がマジで意味わからないので簡単に解説します。あくまで主観的な解釈なので信用しすぎないように。

 彼の有名な言葉として、「実存は本質に先立つ」「人間は自由という刑に処せられている」というものがあります。『嘔吐』は、この二つの思想をロカンタンという人物の日記のなかで具体的に解説したものです。

 まず「実存は本質に先立つ」というのは、簡単に言うと「まず存在があって、性質や役割というのは後付けだよね」という感じ。物と人の在り方の違いは、物は性質が決まっていて初めて存在できる、人は存在がまずあって、性質は後から作っていく、ということです。例えばハサミは、”切る”という目的がないと製造されないですよね。”切る”目的がなければただの鉄の塊で、作る必要ありませんから。一方人間は、産み落とされた直後は役割も性質もないですが、生を重ねるなかで自分の役割・性質を作り上げていきます。この二つの違いは、次の思想でも重要になってきます。

 余談ですが、この考え方は「人間は神の手で作られた」という産業革命以前の考え方に反するもので、ニーチェ以来のニヒリズム的な実存主義の思想を受け継いでいます。似たような思想の人物にハイデガーがいますが、ハイデガーが「死」、サルトルが「生」に注目している点で異なります。

 話を戻して、次の「人間は自由という刑に処せられている」というのは、これも簡単に言うと「人間は初めから役割や性質が決まってないから、これからのことは100%自分で自由に決められるよ!でもその代わり全部自己責任になるから辛いね」って感じです。さっきの思想と少しつながってきますね。親とか環境に左右されるわボケって突っ込みはあると思いますが、実際六億円とか当たって全てのしがらみから解放された時を想像してみてください。初めは楽しいでしょうが、恐らく段々虚無って来ると思います。受験が終わった受験生とかもそうですね(私)。束縛がない無秩序な状態だと、生きる意味が段々分からなくなって不安や孤独感に襲われます。その点で、自由とは必ずしもプラスなことではなく、人間は自由を理想としつつも、同時にその無秩序さを恐れているということがわかります。

 これら二つの思想をメインに、『嘔吐』では主人公ロカンタンが、存在の無意味さ・生きることの余りの自由さに絶望していく様が中心に描かれています。


登場人物

 非常に多いので、ここでの解説に関係ある人だけ簡単に載せます。ファミリーネームはめんどくさいので端折ります。

ロカンタン…30歳の主人公。昔は色々な場所を飛び回っていたが、今はフランスのブーヴィルでロシアのロルボン侯爵についての研究をしている。ある日石で水切りをしようとしたときに「存在の無意味さ」を実感し、それから存在の無意味さを感じると<吐き気>を催すようになった。

アニー…ロカンタンの元恋人。彼女との再会がロカンタンの唯一の希望。昔は飛び回ったり演劇したりしていたが、ロカンタンと同じように存在の無意味さに絶望し、パトロンの援助のもとでダラダラ旅行する余生生活を送っている。

独学者…ヒューマニスト。ずっと図書館で本を読んでいる。ロカンタンとは図書館でよく会う知り合いで、ロカンタンの知識や経験に憧れている。ロカンタンと同じ孤独を抱えており、それ故なのか図書館で子供に痴漢しまくっている。

アシル氏…どっかのカフェ(名前忘れました)に入ってきたキ〇ガイ。ロカンタンと同じ孤独を抱えている。

ロジェ医師…同じくどっかのカフェに入ってきた医者。THE・常識人。


解説① 時間の不可逆性

 『嘔吐』の中では、繰り返し”過去”が存在するのかといった話が出てきます。ロカンタンは歴史学者であるのに加え、海外で様々な経験をしてきているので、過去の経験が己の存在の根底にあるという意識が強い人物として描かれています。しかしある日を境に、自分の経験してきたことが酷く他人事に感じられるようになるのです。そこでロカンタンは絶望を感じますが、”過去"の存在と”経験”を分けて考えることで、時間の不可逆性と”経験”の人生における意味について考えるようになります。

私は現在の中に投げ出され、遺棄されている。過去には、いくら合流しようとしても無駄だ。私は現在から逃れることができない。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P59
私は自分の人生の各瞬間が、回想の人生のように、秩序正しく継起することを望んでいた。まるで尻尾を捕まえようとするようなものだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P70            

 この引用文だけではわかりにくいですが、上は”過去”、下は”経験”についての解釈がよく表れています。物語の前半において、ロカンタンは”過去”=存在はしているが取り戻せないもの”経験”=過去へ遡って自分の語りたいように出来事を並べたもの(要は思い出話)としています。2つ目の引用文にもあるように、ロカンタンは自分の過去を秩序立てて語ることを好ましく思っていました。ですが、”過去”が取り戻せない(=時間の不可逆性)ことに気づいてからは、時間の不可逆性に従って自由に生きることを理想とするようになります。

過去、それは所有者の贅沢だ。ただその肉体しか持っていない男は、思い出を固定することができない。思い出は彼を通りさ過ぎてしまう。それを嘆くべきでは無いだろう。私はただ自由であることのみを欲したのだから。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P111

 この文からは、ロカンタンが時間の不可逆性に従うことを”自由”とし、現在という存在を受け入れて生きることを理想とするようになったことがわかります。ただ、「サルトルの思想」の章を読んだ方は薄々察していると思いますが、サルトルは自由を必ずしもプラスに捉えていません。そのため、元々秩序立てて物事を考えることが好きなロカンタンも、やはり”自由”の無秩序さへ恐れを抱いています。その様子は、カフェにおいてロジェ医師がアシル氏のことを「気がふれた爺さん」と呼んだ場面からわかります。

気がふれた爺さん。そう言われて、相手は気持ちがなごみ、自分自身から守られているように感ずる。もう今日のところは彼に何も起こりはしないだろう。最も驚くべきことは、この私までもが安心したということだ。気がふれた爺さん。つまりはそれだったのだ。それだけのことにすぎなかったのだ。  
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P114

 「サルトルの思想」の章でも触れましたが、束縛のない自由な状態は自分や他者の存在意義を見出し辛く、不安や孤独感に襲われます。詳しくは描かれていませんが、ロカンタンもアシル氏も、”過去”という束縛がない状態で、存在への不安と孤独感を持つ者として共通の性質をもっていると思われます。アシル氏が「気がふれた爺さん」と言われて両者が安心感を覚えたのは、両者をロジェ医師が「気がふれた爺さん」としてカテゴライズすることで、秩序立った世界に組み込んだためでしょう。人間が秩序立ったものを好むことは、ロカンタンも次の文で触れています。

一般的な概念は、もっと人を喜ばせる。おまけに経験のプロだけでなく、アマチュアの連中さえも、必ず最後には理があることになる。彼らの叡智が勧めるのは、できるだけひっそりと、できるだけ遠慮しながら生きること、忘れられることだ。彼らの好む最高の物語は、無鉄砲な者や変わり種が懲らしめられた話である。そうなのだ、物事はそんなふうに過ぎていくのであり、誰もこれに異を唱えはしないだろう。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P118

 しかし、ここで終わるロカンタンではありません。ここまで散々”自由”のマイナス面を語ってきましたが、ロカンタンはそれを受け入れてでも”自由”であることを欲します。そのため、孤独の辛さや恐れを抱きつつも、その感情に従って、”過去”に縛られて生きる者たちを強く批判しています。

彼らは自分たちの過去が失われていないこと、思い出が凝縮してふんわりと「叡智」に変わったことを信じさせたいのである。なんと便利な過去だろう!ポケット版の過去、見事な箴言が詰め込まれている天金の小型本となった過去だ。「そうなんだよ、経験について話しているんだ。わしは知る限りのすべてのことを人生から得たのだ。」いったい「人生」が彼らのために考えてくれたのだろうか?彼らは新しいことを昔のことで説明する。―そして昔のことは、それよりさらに昔の出来事で説明する。…勿体ぶった彼らの態度の裏に、物悲しい怠惰さが見て取れる。彼らは次々と実態のない仮象が過ぎていくのを見ている。そして欠伸をしながら考える、この世に新しいものは何一つない、と。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P117

  ここまでの話をまとめると、ロカンタンは時間の不可逆性に気付いた時点で、それに従って生きることを”自由”とし、それを理想とするようになります。そのため、自分がかつて”経験”を存在の根幹だと信じていた反動からかも知れませんが、”過去”が取り戻せないことを受け入れられず、”経験”を語りながらでしか生きられない者たちを批判的に見るようになるのです。


解説② ”経験”の役割

 次は”経験”の役割についでです。前章「時間の不可逆性」で述べたように、ロカンタンは物語の前半で”過去”に縛られ”経験”を語ることでしか生きられない者たちを批判的に見ています。しかし、時間の不可逆性を受け入れた”自由”を理想とする部分は変わりませんが、前章でも触れたロジェ医師やアシル氏の登場シーンから、”経験”の役割を認識し、軽蔑が薄れていくようになっていきます。

 「いやロジェ医師とアシル氏が登場する場面で思いっきり”経験”批判しとったやないかい!」と前章をしっかり読んでくれた方は思うかもしれません。まあ事実そうです。その場面でロカンタンはロジェ医師を「経験のプロ」と呼んでいるのですが、それも”経験”に対する皮肉です。ロカンタンの”経験”への見方が変わるのは、散々”経験”批判をした直後、ロジェ医師の顔から死の影を悟ってからです。

毎日彼は少しずつ、いずれそうなる死体に似ていく。これが彼らの経験というものであり、だからこそ私はたびたび、経験には死の匂いが付きまとっていると考えたのである。これは彼の最後の砦なのだ。ロジェ医師はきっと経験を信じたいのだろう。とても我慢できない現実に目を覆いたいのだろう。それは自分が独りきりであり、なんの成果も過去もなく、知性はぶくぶくと肥っていくが、肉体は崩壊するという現実だ。…彼は考えたのだ、自分は進歩しているぞ、と。…そして、鏡に映るこの死体となったすさまじい顔の眺めに耐えるために、彼は経験の教訓が顔に刻み込まれていると信じるべく努力しているのである。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P119   

 この場面によって、ロカンタンは”経験”を「”自由”からの逃げ」という一面的な意味ではなく、「死を意識しないための手段」という役割があることも意識するようになります。”経験”に囚われた生き方は、必ずしも悪いわけではないのです。ここからさらに、”経験”に対する見方が一気に肯定的になっていきます。

この独身男は、自分自身のためにしか生きなかった。そのために、厳しい当然の罰によって、彼の死の床には誰一人、目を閉じてやるために来る者はいなかった。この絵は私に最後の警告を発していた。まだ間に合うぞ、引っ返すことは可能だぞ、と。もしこの警告を無視するなら、次のことを心得ておかねばならない。…ここに描かれた人たちのうちに誰一人として独身で死んだ者はなく、誰一人として子供もおらず遺言もせずに死んだ者はなく、誰一人として臨終の秘蹟を受けずに死んだ者はいない、ということだ。この人たちはその日も他の日々と同様に、神や世間の作法に則って、自分たちの権利である永遠の生命の分け前を要求するために、静かに死のなかに滑り込んでいったのである。というのも、彼らはすべてに権利を持っていたからだ。人生に、仕事に、富に、指揮を取ることに、尊敬を集めることに、そして最後は不死に対してもだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P140
いったい彼は何を考えているのだろう?自分の名誉ある過去のことだ。それがすべてのものについて語る権利、すべてのものについて最終の決定を下す権利を彼に与えたのである。この間の私はまだそこまで考えていなかった。「経験」は死に対する砦どころではなかった。それは一つの権利だった。老人たちの権利である。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P145

 これらは、上がロカンタンがどっかの美術館に入って、独身の男が孤独に苦しんで死ぬ絵を見た場面、下が英雄かなんかの絵(忘れた)を見た場面です。下の方の文はともかく、上の方はこれだけだと何言ってるかよくわかりません。なので、もう一つ文を載せます。

それというのも、一つの権利は、一つの義務の別な局面にすぎないからだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P143

 最初の意味深な接続詞は正直ここでは関係ないので置いておいて(気になる人はこの本読もう!)、この文からロカンタンが権利と義務を表裏一体だと解釈していることがわかると思います。そこで、前の二つの文の「権利」という言葉を「義務」に置き換えると、独身の者(要はロカンタンやアシル氏のように孤独な者)と、独身でない者(ロジェ医師とか)の違いが浮かび上がってくるのではないでしょうか。恐らく一番大きいのは、生きている間にどれだけ多くの権利を要求し、そのためにどれだけ義務を果たしてきたかという違いだと思われます。

 多く権利を要求し義務を果たしている者の方が、ロジェ医師のように早い段階から死の影に苛まれることになりますが(故に義務を果たす者ほど不死を要求する)、その代わり”経験”を多く語ることができるため、自分の生を後から意味付ける事が出来ます。さらに子孫を残す義務も果たしているため孤独に死ぬこともないのです。ロカンタンはこの逆を行っている訳ですから、このまま行けば、語る”経験”もない無意味な生を過ごし、やがて孤独に死んでいく未来が待っています。独身男の絵を見て、ロカンタンが自分に警告していたのはそういう訳です。

 また、英雄かなんかの絵を見た場面の、「”経験”は老人の一つの権利」という部分を「義務」に置き換えてみると、”経験”こそが人生を有意味たらしめているという主張が読み取れます。つまり、ここで言いたいことは、”経験”は時間は不可逆であるという現実から目を背ける一方、本来無意味な人生を有意味にすることができるものであるということです。このことは、これからのロカンタンの発見と救いに大きく関わっていきます。ただ、”経験”に対する軽蔑がなくなっただけで、ロカンタンの理想は「時間の不可逆性に従って”自由”に生きること」という前提は変わっていないので、そこは念頭に置いておいてください。


解説③ 存在とは

 さて非常に脈略がないですが、さっきまで全然触れてこなかった「存在」について話していこうと思います。

 あらすじ覚えているかわかりませんが、この物語は、ロカンタンが石という存在に対して<吐き気>を感じるところから始まります。以降ロカンタンはしばしば<吐き気>に悩まされますが、その正体が分かるようなわからないような…という微妙な状態がずっと続きます。そのイマイチよくわからない<吐き気>に大いに関わってくるのが「存在とは何か」という問題です。その話が大々的に出てくるのは、ロカンタンが研究対象のロルボン氏について論文執筆かなんかしている場面です。

現在の真の性質がヴェールを脱いだ。それは存在するものであり、すべて現在でないものは存在していなかった。過去は存在しなかった。全く存在しなかった。物の中にも、また私の思考のなかにさえ、存在していなかった。なるほど、ずっと前から、私は自分の過去が逃れてしまったことを理解していた。しかしこれまで私は、過去が単に手の届かないところに退いただけだと思っていた。…いま、私は知っている。物はことごとく外見通りのものであり―そして物の後ろには、何もないということを。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P160

 まず初めに出てくるのは、「過去が存在するか」という話です。「え?これ解説①で言ってたやん」とお気づきの方もいるでしょう。その通りです。ですがよく思い出してみると、解説①ではわざと”過去”とダブルクォーテーションマークをつけて話を進めていませんでしたか?その”過去”と過去の違いがこの文に詰まっています。

 物語の前半、つまり解説①の時点では、ロカンタンは過去を存在はしているが取り戻せないものとしていました。しかし、ロルボン氏と向き合って改めて分かったのは、過去は存在すらしていないということです。これを踏まえて、最初の方を”過去”とわざと区別したのです。IQ700くらいに見えて気分いいですね。これに気付いてから、一番ヤバイ時間の不可逆性の残酷さがロカンタンに襲ってきます。この発見を踏まえて、次の文を見てみましょう。

ロルボン氏は私の協力者だった。彼は在るために私を必要としていたし、私は自分が在ることを感じないために彼を必要としていた。私は原料を提供していた。私がありあまるほど持っている原料、自分では使い道のわからない原料、つまり存在、私の存在を提供していたのだ。一方、彼の役割は演じることだった。彼は正面から私と向かい合い、彼の生涯を演じるために、私の生を捉えた。私はもう自分が存在していることに気が付かなかった。私はもはや自分の中では存在せず、彼の中で存在していた。…私はもう、字を書く自分の手も、書いた文章さえも見ていなかった―ただ背後に、紙の向こうにいる侯爵を見ていた。侯爵がこの動作を要求したのであり、動作は彼の存在を延長し、それを堅固なものにしていた。私は彼を生かす手段にすぎず、彼は私の存在理由だった。彼は私を、私自身から解放してくれたのだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P164

 ロルボン氏が過去の人物である以上、現在においては存在すらしていません。一方、ロカンタンは存在こそしていますが、その存在に意味はありません。そのことは、少し遡りますが前章の美術館の場面でも書かれています。

私は存在する権利を持っていなかったのだ。私はたまたまこの世界にあらわれて、石のように、植物のように、微生物のやうに、存在していた。私の生は行きあたりばったりに、あらゆる方向へ伸びていく。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P142

 この文も前章でやったように、「権利」を「義務」に置き換えるとより分かりやすいと思います。要するに、人間は明確な存在理由があって生まれたのではなく、たまたまこの世界に生まれ落ちただけで、その人生に意味などありません。しかし、その意味のない人生に意味を与えるのが過去の人物や出来事、つまり”経験”です。ロルボン氏は時間が不可逆である限り存在はしませんが、ロカンタンの人生に「ロルボン氏の研究をする」という意味を付け、研究の中で名前や経歴を残されることで、まるで現在も存在しているかのように見えていたのです。ロルボン氏はこれまでのロカンタンの人生に意味を与えてはくれましたが、その意味を与えてくれた当本人が存在しないのでは無意味も同然です。

 描写は長すぎるので端折りますが、これに気付いたロカンタンは、ロルボン氏という支えすら失い、ひたすら無意味な存在を実感し続けます。その後、ロカンタンは存在=無意味という考えを中心として過ごしていきます。

「私たちはみんなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない。何一つない、何一つないんです」
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P187

 これは後に独学者と食事をするシーンで、ロカンタンが言った言葉です。非常に端的でわかりやすいですね。次はこれを念頭に置いて、その食事シーンを中心に存在と名前の関係を見ていきましょう。

結局、彼は私に僅かなものしか求めていない。単に一つのレッテルを受け入れる、ということだ。しかしこれは罠である。…なぜら、ヒューマニズムは人間すべての態度を取り上げて、それを一緒に溶かしてしまうからだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P197
ロ「ご覧の通り、あなたはあの二人を愛してなんかいませんよ。街であってもたぶん彼らだと分からないでしょう。あなたにとって、あれは象徴にすぎないんです、あなたが心を動かしているのは、彼らに関してじゃありません。〈人間の青春〉、〈男と女の愛〉、〈人間の声〉に感動しているんですよ」
独「それで?そうしたものは存在しないんですか?」
ロ「むろん、そんなものは存在していません。〈青春〉も、〈壮年〉も、〈老年〉も、〈死〉も…」
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P201
物は名前から解放された。物はそこにある、グロテスクな、頑固な、巨大な物が。それを座席と呼んだり、それについて何か言ったりするのは、愚かなことに見える。私は名づけようのない〈物〉に囲まれているのだ。…物は何も求めない、自分を押してけても来ない。物はただそこにあるのだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P209
口を開けば存在について語らずにいられないが、しかし結局、存在に触れようとしないのだ。私が存在について考えていると思っていたときにも、実は何も考えていなかったと思わなければならない。ないしはそのとき、私は考えていた…どう言ったらよかろうか?私は帰属ということを考えて、海は緑色の物の部類に属している、緑は海の特徴の一部を成している、と思っていたのだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P212

 すごい連投してしまいましたが、この4つの文を通して言いたいことは、名前は帰属先を表しているだけで、存在自体は無意味であるということです。そのわかりやすい事例として、前半二つの文では独学者のヒューマニズム的思考を挙げています。

 ヒューマニズムは分かりやすく言えば人間らしさを重視する考え方です。しかし昨今流布しているヒューマニズムは、例えば「飢餓に苦しむアフリカの子供たちを救おう!」といった感じです。パッと見心優しい考え方ですが、実際「アフリカの子供」自体を支援しているのではなく、「可哀そうな子」とレッテルを張ることで支援しており、アフリカの子供たちが「可哀そう」でなければ気にしないという側面があります。正直当たり前っちゃ当たり前なんですが、これが過度に行き過ぎると最低なんですね。私がヒューマニズムを嫌いなのは、最近それが目に付くからです。

 まあそれは置いといて、ロカンタンはヒューマニズムのレッテル貼りと、存在自体は別物だという風に解釈しています。2つ目の文の例で見ると、独学者含むヒューマニストは、男女のカップル自体を愛しているのではなく、カップルを<人間の青春>、<男と女の愛>、<人間の声>というカテゴリに帰属させることで愛しているんですね。これこそがレッテル貼りであり、名付けです。名前は存在自体に何ら関係のない、ただのカテゴリ名な訳です。こんな面倒なことをするのは、解説①で触れたように、人間が秩序立ったものを好むからでしょう。

 ここまでの話を一旦まとめると、存在はただ偶然生まれたに過ぎない無意味なものであること、名前は存在の帰属先を表しているだけで、存在自体には関係がないということがわかります。

 これらを踏まえて、この作品の根幹である<吐き気>の意味について見ていきます。ロカンタンが初めて<吐き気>の意味に気付いたのは、先ほどと同じく独学者との食事シーンです。

つまりそれだったのか、〈吐き気〉は。この明明白白な事実だったのか?私はさんざん頭を悩ませた!それを書きもした!今私は知っている。〈私〉は存在している―世界は存在している―そして私は世界が存在していることを知っている。それだけの話だ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P205

 正直人物紹介の時点でネタバレしちゃってるんで「そりゃそうよな」って突っ込みたくなる人もいると思いますが、この文から、<吐き気>は存在の無意味さを実感したときに起こるものだということがわかります。ここで話は終わりっちゃ終わりなんですが、もう少し突っ込んでみていきましょう。

私たちは、自分自身を持て余している多数の当惑した存在者だった。私たちの誰にも、そこにいる理由などこれっぱかりもなかった。存在者のひとり一人が恐縮して、漠とした不安を抱えながら、他のものに対して自分を余計なものと感じていた。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P214
色、味、匂いは、決して真実ではなかった。それらは決して完全に自分自身であることはなく、自分自身以外の何物でもない、ということがなかった。…人が見たものは抽象的な作りごとであり、清潔にされ、単純化された観念、人間の観念である。眼前にある形の定まらない無気力なその黒は、視覚、嗅覚、味覚をはるかにはみ出していた。しかしこの豊かさは混乱に陥り、結局はもはや何物でもなくなった。なぜならそれはあまりに過剰だったからだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P217
私は〈吐き気〉を理解し、それを所有していたのだ。…本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。…ただし彼らは、必然的な自己原因の存在を作り上げて、この偶然性を乗り越えようと試みたのだ。ところでいかなる必然的なものも、存在を説明することはできない。存在の偶然性は見せかけでもなく、消し去ることのできる仮像でもない。それは絶対であり、したがって完全な無償性である。すべては無償だ、この公園も、この町も、私自身も。それを理解すると胸がむかむかして、すべてはふわふわと漂い始める。…それが〈吐き気〉だ。…内心ではあまりに過剰な、つまり形の定まらない曖昧な、悲しい存在なのだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P218

 これらの文から、存在は無意味なだけでなく、過剰で余計なものであるということが読み取れます。偶然生まれただけなのに加えて、この世界はたくさんの存在で溢れていますから、自分の生まれた理由がないだけでなく、取り換えの利く存在ということになります。それこそ本当に無意味ですよね。ですからそれを考えないために、人間は名前を付けたりして帰属先を明らかにし、自分が特別だと思えるような”経験”を語ったりすることで、自分の存在を有意味に変えようとしているのでしょう。

私はどうしても存在への「移行」を捉えることができなかったのだ。この移行という観念も人間の作り事で、あまりに明晰すぎる観念だった。このささやかな動きはことごとく孤立しており、そのものだけで自足していた。…その存在は絶えず更新されていたが、決して新たに誕生するわけではなかった。…存在は記憶を持っていない。消え去ったものについて、存在は何一つ保存していない。―思い出すらない。至るところに、無限に余計な存在がある、常にどこにでもある。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P221
「なぜこれほど多くの存在があるのだろう?しかもみな似たりよったりだというのに?」…このような豊富さは、気前のよさがもたらした結果ではなく、その逆だった。それは陰気で、病弱で、自分を持て余している豊富さだった。…権力への意志と生存闘争のことを語った愚か者たちがいた。つまり彼らはただの一度も、一匹の動物や一本の木を眺めたことはなかったのか?
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P221
木は、存在したいとは思っていなかった。ただ、存在をやめるわけにはいかなかったのだ。…疲れて老いた木は、不承不承に存在を続けていたが、それは単に死ぬには弱すぎたからであり、死は外部からしか来られないためだ。自分自身の死を内的必然性として誇らしげにおのれのうちに抱えているのは、音楽の調べのみだ。ただし音楽は存在ではない。すべての存在者は理由もなく生まれ、弱さによって生き延び、出会いによって死んでゆく。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P222

 これら3つの文は補強にすぎませんが、1つ目は過去が存在しないこと、3つ目は解説②の”経験”の役割とも関係しています。特に3つ目の文の「弱さによって生き延び」は、自分の存在を無意味(偶然生まれた・過剰にある・いずれ死ぬ)と考えないために、”経験”を語ることで人生に意味を付けなければ生きていけないということを指しています。

 解説③全体を通して分かったことは、時間が不可逆である限り過去は存在しないこと、また存在自体は無意味で、名前とは関係がない固有性のないものであり、取り換えが効くほど溢れている余計なものということです。ロカンタンが襲われる<吐き気>は、これらすべてを訴えており、サルトルが私たち読者に一番訴えたかったことでもあります。


解説④ アニーとロカンタン

 え!!まだ続くん!!!??
 マジでごめんなさい。物語の本質はもう解説し終わったのですが、もう少し話をさせて下さい。ここからは、ロカンタンの物語を通してサルトルが伝えたかったことではなく、ロカンタンという人物そのものについて、2章にわたって解説していきます。

 人物紹介で書いた人物の中で、まだ一度も触れてない人物がいるとおもいます。そう、アニーです。この章では、ロカンタンがアニーと再会した場面から、二人の共通点と違いについて述べていきたいと思います。

ロ「特権的な状況はないということ?」
ア「それなのよ。あたしは、憎しみや愛や死が、聖金曜日の炎の舌のように、あたしたちの上に降ってくると思っていたの。憎しみや死で、人は輝くことができると思っていたわ。ひどい思い違いだった!そうよ、本当にあたし、〈憎悪〉が存在していると考えたの。それが人々の上にやって来て、実際以上に人を引き上げると考えたんだわ。もちろん、このあたししかいない、憎んでいるあたし、愛しているあたししかいないというのにね。しかもそのあたしはいつも同じで、一つの生地がどこまでも、どこまでも延びていく…おまけにそれがみんなよく似ているから、どうして人がいろんな名前を発明して、どうして区別ができるのか、不思議なくらいよ」
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P251

 彼らの言う「特権的な状況」とは、人が夢中になったりする偉大な状況のことです。アニーは、<憎んでいる>、<愛している>といったカテゴリ名と、自分の存在自体は全くの別物であることを理解しています。この点から、アニーはロカンタンと同様に存在の無意味さを実感していることがわかります。

 しかし、ロカンタンがアニーに「私と同じ」と言ったことに対して、彼女はそれを頑なに否定します。その理由を知るため、まずはアニーについて見ていきましょう。

「それじゃあなたは、ちっともあたしと同じことなんか考えていないわ。自分では何一つやろうともせずに、周りの物が花束みたいに配置されていないからというので、愚痴をこぼしているだけじゃないの。あたしは決してそんなに多くのことは望まなかったわ。あたしは行動したかったの。ほら、あたしたちが冒険家の真似をしていたときに、あなたは冒険が起こる人で、あたしは冒険を起こす人だったでしょ。…」
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P252
「…あたしたち役者の誰にとっても、肝心なのは真正面の黒い穴なのよ。その底には、見えないけれども観客たちがいたわ。その人たちに対しては、もちろん、完璧な瞬間を提供していた。でもね、観客はその内部で生きてはいなかったの。完璧な瞬間は、彼らの前で繰り広げられていたのよ。あたしたち俳優だって、そのなかで生きていたと思う?結局、完璧な瞬間はどこにもなかったのね。フットライトの向こう側にも、こちら側にも、それは存在していなかった。そのくせ、みんなそれを考えていたのよ。だから、ほら、分かるでしょ」…「あたし、何もかも投げ出しちゃったの」
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P255
「あたしは過去のなかで生きているのよ。あたしの身に起こったことをもう一度取り上げて、それを整理しているの。…それにちょっと仕上げをほどこせば、一連の完璧な瞬間が出来上がるのよ。そこであたしは目を閉じて、自分がまだそのなかで生きているように想像しようとするの。…」
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P255

 正直明確な違いはまだわからないですが、この3つの文からは、アニーは「冒険を起こす」人物であったこと、現在は”経験”に浸って生きているということがわかります。続いてロカンタンを見てみましょう。

私は冒険を経験しなかった。私の身にはいろいろな問題や、出来事や、もめ事など、どんなことでも起こったが、しかし冒険はなかった。これは言葉の問題ではない。私はようやく分かり始めた。私には―自分でもはっきり気づかずに―他のどんなものよりも執着していた何かがあったのだ。…要するに、私はある瞬間に自分の人生が、希に見る貴重な質を帯びることがあると想像していたのだ。…私の現在の生活には、特に輝かしいものなど一つもない。けれどもときどき、例えばカフェで音楽がかけられるようなとき、私は昔に遡って自分にこう言い聞かせるのだった。かつてロンドンで、メクネスで、東京で、私には素晴らしい瞬間があった、私は冒険を経験したのだ、と。…私があんなに強く執着していたのは、この起こり方だった。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P65
私は一刻一刻の上に屈み込んで、それを汲み尽くそうとする。何物も、私がそれを捉えて永遠に私の内部に定着することなしには、過ぎ去るべきではない。…にもかわらず時間は流れ、私はそれを引き止めない。私は時が過ぎて行くのを愛しているのだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P66
結局のところ、例の時の流れについて、人は多くのことを語るが、それをほとんど見ることはないのだ。一人の女を見ると、彼女も老いるだろうと考える。ただ、彼女が老いていくのを見るわけではない。だがときには、彼女が老いていくのをみるような、自分が彼女と一緒に老いていくのを感じるような気がする。これが冒険の感情だ。もし私の記憶違いでなければ、これは時間の不可逆性と呼ばれているものだ。冒険の感情とは、何のことはない、時間の不可逆性の感情なのだろう。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P97

 これらの文からは解説①でも触れたように、ロカンタンが自分の身に起こったことを、後から回想して意味づけることを好んでいたこと、そして時間の不可逆性に気付いてからはそれに従って生きることを望んだということがわかります。時間の不可逆性については、解説②の段階で”経験”に対する軽蔑がなくなっている上、解説③で過去が存在すらしないことに対して絶望しているので混乱すると思いますが、アニーと再会する場面でも”自由”を理想としていることは変わっていません。

 なぜここまで”経験”の役割を把握して、尚且つ時間の不可逆性や存在の無意味さに絶望を抱いたのに、未だに”自由”を理想としているかという問題については、ロカンタンが非常に受動的な人物であることに関係しています。

 アニーの言った「あなたは冒険が起こる人」という言葉と、この3つの文の1つ目で「強く執着していたのは、この起こり方」と言っていることから、ロカンタンは意識せずに起こったことを受け入れることで生きてきたことがわかります。一方アニーは、自分から意味があると思ったことを即行動に移すことで生きてきました。つまり両者の違いは、受動的か自発的かということです。両者とも同じ事実を知ったのに、なぜロカンタンは”自由”を理想としていて、アニーは”経験”に浸って生きているのかということも、前者は無意味だと突き付けられたものが、偶然自分の身に起こったものだったのに対し、後者は意味があると思って自らやってきたことだったため、ということで説明がつきます。「勘が当たって模試でいい点が取れたけど、受験じゃ意味がなかった」よりも、「必死に勉強して模試でいい点取れたのに、受験じゃ意味がなかった」方が絶望度高いですよね(キツイ)。ロカンタンは厳しい現実をアニーよりも受け入れられた訳です。

 ここでわざわざアニーとロカンタンを比べたのは、ロカンタンが受動的な人物であることを言っておきたかったからです。これによって、解説③で時間の不可逆性と存在の無意味さに絶望したはずなのに、ずっと”自由”を理想としている理由がなんとなくわかったと思います。これを踏まえて最後まで行きましょう。


解説⑤ ロカンタンの救い

 やっと最後の解説です。ここでは物語の結末に触れていきたいと思います。

 解説①~③にかけて現実わからせプレイ(語弊)をされたロカンタンですが、実はその段階ではずっと「アニーに再開すること」を希望に生きていました。元々受動的な人間だったのに加えて、この希望があったからこそ、ロカンタンは厳しい現実を受け入れられたのかもしれません。

 しかし結局アニーに会ったら会ったで、厳しい現実を再確認して終わっただけでなく、恋人に戻ることもできずにただ彼女がよくわからんパトロンといるのを見送るという悲しいことになったので、全然思い描いたような幸せ状態にはなりませんでした。只管厳しい現実を突きつけられて、アニーと会っても幸せにならなくて、じゃあロカンタンは絶望ENDなのか?と思った方、安心してください。ちゃんと救いはあります。

 その救いのカギになるのは、ずばり「音楽」です。ロカンタンはよく地元のカフェに行っていたのですが、そこで流れている、楽器の演奏と共に黒人女性が歌っているレコードが大好きでした。その音楽が流れると<吐き気>が緩和したりと、所々でその音楽を救いに思っていた場面も登場しています。

メロディはなくて、響くのはただ音だけ、無数の小さな震動だけだ。それは休むということを知らない。一つの厳しい秩序がそれらの震動を生み出し、立ち直る余裕も自分自身のために存在する余裕も与えずに、それを破壊する。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P39
何物も、日常世界がはまりこんだあの時間から来るものは、音楽を中断させることができない。音楽は自分自身で、秩序にしたがって終息するだろう。私がこの美しい声を愛するのは、とりわけそのためだ。その声の豊かさのためでも悲しさのためでもない。それが無数の音符によって遠くから準備されてきた出来事であり、しかもこの音符はこの出来事が生まれるために死んでゆくからだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P40

 これらの文からは、音楽が「秩序立ったもの」とされており、ロカンタンはその性質を愛していたことがわかります。この場面はまだ”自由”を理想とする前ですから、一般的な人々と同じように秩序立ったものを好んでいます。ただ、この後も繰り返し音楽を称賛する表現はでできますが、イマイチ理由ははっきりしません。なので一気に最後まで飛びましょう。

サクソフォンの四つの音。それが行ったり来たりする。まるでこう言っているようだ、「私たちのようにすべきだ、リズムに合わせて苦しむべきだ。」その通りだ!もちろん私もこんな風に苦しみたい。リズムにあわせて、自分自身への媚びも憐れみもなく、乾燥した純粋さを伴って苦しみたい。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P290
そうだ、レコードの上でぐるぐる回りながら私を魅惑するこのダイヤモンドのような小さな苦しみ、それが同情的だなどとは明らかに言えない。それは皮肉ですらない。それは自分自身に没頭して軽快に回っている。それは鎌のように、世界のありきたりな親密さを断ち切った。…存在に身を委ねきっていた私たちみんなは、だらしない日々の投げやりな状態の中で、このダイヤモンドのような小さな苦しみに不意をつかれたのだ。私は恥ずかしい、自分自身のために、またその苦しみの前で存在しているもの(=カフェにいる他の人間)のために。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P290
その苦しみ(=レコードから流れる苦しみの)は存在していない。…それは、その向こうにある―常に何かの向こうに、一つの声の向こうに、ヴァイオリンの調べの向こうにある。存在の分厚さ、このうえもない分厚さを通して、それはほっそりした、また凛とした姿をあらわすが、それを捉えようとしても、出会うのは存在するものばかりで、人は意味のない存在者にぶつかるだけだ。それはその存在者の背後にある。私の耳に聞こえるのは、その苦しみでさえない。わたしはただ、そのヴェールをはぎ取る音を、空気の振動を、聞いているだけだ。それは存在しない。なぜなら、余計なものを何一つ持っていないからだ。その苦しみに比べて余計なのは、すべてそれ以外のものだ。それは、ただ在る。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P291
そして私もただ在ることを望んだ。それしか望まなかったほどだ。これが事の真相である。…存在を私の外へ追放したい、各瞬間から脂肪を取り除きたい、それを絞り上げて、からからにしたい、自分を純粋で、硬質のものにしたい、という欲望で、それは結局、サクソフォンの調べのくっきりと明確な音を出すためであった。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P291

 連投しすぎましたね。これでも正直何言ってるかわかりませんが、ロカンタンは音楽を秩序のあるものとして捉えながら、自分の存在を正当化しているものとしても捉えています。

 「レコードから流れる小さな苦しみ」というのは、曲を作った者や歌っている黒人歌手の持つ苦しみのことです。ですが、それを直接我々が感じ取ることはできません。なぜなら、苦しみを理解するためには作曲者や黒人歌手、音楽を奏でている楽器、歌手の歌声という「存在」を媒介にしなければならないからです。これらを媒介とした後の”苦しみ”は、沢山の「存在」を媒介にしている時点で「余計なもの」となります。

 一方で、音楽の向こうに在る本来の「小さな苦しみ」というのは、「存在」を媒介とする前の状態なので、余計なものと一切関わりがありません。それをロカンタンは「存在しない」と表現しているんですね(ロカンタンにとって存在=余計なものであるため)。しかし「存在しない」といっても、確かに作曲者や歌手の苦しみが曲に込められているということは否定できません。そのため、余計ではないが在ることは確かに分かる、つまり自身の「存在」を余計なものでないと正当化できているものを、「ただ在る」と表現していますロカンタンが望むのはこの「ただ在る」状態で、それを極めて自ずとリズムのある音楽のように、秩序立った人生にしたいということです。

 勿論これだけでは、「あれ?秩序立った人生にしたいなら、”自由”の理想は消えたん?」と一瞬混乱すると思います。ただ考えてみてください、音楽は確かに秩序がありますが、時間の不可逆性には一切逆らっていません。たとえば、回想が「後から意味を付ける」のに対して、音楽は「最初から意味を付けられている」状態です。特にさっきも載せた下の文では、その意味が分かりやすく書かれていると思います。

何物も、日常世界がはまりこんだあの時間から来るものは、音楽を中断させることができない。音楽は自分自身で、秩序にしたがって終息するだろう。私がこの美しい声を愛するのは、とりわけそのためだ。その声の豊かさのためでも悲しさのためでもない。それが無数の音符によって遠くから準備されてきた出来事であり、しかもこの音符はこの出来事が生まれるために死んでゆくからだ。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P40

 「死んでいく」という表現からもわかるように、音楽はどんどん流れては消えていくものであるため、必ず時間の流れに従っていきます。そのため、初めから意味が決められているという、秩序立ったものであるにも関わらず、時間の不可逆性には逆らっていない”自由”な状態ということです。

 まとめると、音楽は時間の不可逆性に逆らっていない”自由”なものであり、且つ音符には初めから何かしらの意味が込められているため、非常に秩序だったものであるということです。さらに曲の裏にある作曲者や歌手の苦しみというのは、自身の「存在」を余計なものでないと正当化できているという点で、無意味で余計な「存在」とは対極にあります。

 これらに気付いたロカンタンは、音楽のような”自由”で秩序立ったものを作ることで、作曲者や歌手の苦しみのように自分の存在を正当化していきたいと思うようになります。そしてそれを実現するために、ロカンタンは小説書きになろうと決心するのです。

黒人の女は歌っている。してみると、人は自分の存在を正当化できるのだろうか?ほんの少しだけでも正当化できるのか?…私も試みることができないだろうか…もちろんそれは音楽の調べではないだろう…それは一冊の書物でなければなるまい。私には他に何もできないからだ。しかし、歴史の書物ではない。歴史、これは存在したものについて語る―しかし存在者は絶対に、他の存在者の存在を正当化できない。私の誤りは、ロルボン氏を蘇らせようとしたことだ。ほかの種類の本。どんな種類かは判然としない―しかし印刷された言葉の背後に、ページの背後に、存在しない何か、存在を越える何かを見抜くようなものであるべきだろう。たとえば、起りえないような物語、一つの冒険だ。それは鋼鉄のように美しく、また硬く、人々に存在を恥ずかしく思わせるものでなければならない。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P296
しかし本が書かれ、それが私の背後に残る瞬間が必ずやって来る。そして本の多少の光明が、私の過去の上に落ちるだろうと思う。そのときおそらく私は本を通して、嫌悪感なしに私の生涯を思い出すことができるだろう。…そして私は―過去において、ただ過去においてのみ―自分を受け入れることができるだろう。
引用:『嘔吐 新訳』(2010)J‐P・サルトル,鈴木道彦(訳),人文書院,P297

 なぜわざわざ「小説書き」なのかという問題は、もともとロカンタンが本を書いていた(文章を書ける人間だった)のと、過去は存在しないため、歴史研究では自分の存在を正当化することができないからです。

 自分の存在を正当化するためには、時間の不可逆性に逆らっておらず、初めから意味が決められている、つまり”自由”で秩序立ったものが不可欠になります。歴史書では、そもそも過去は存在しませんし、過去の人物や歴史は後から遡って意味を付けるものなので、秩序はあれど”自由”ではありません。一方、小説は初めから「こんな物語にしよう」と意味を付けてから描くので秩序立っていますし、描くと同時に物語ができていくので時間の不可逆性にも逆らっていません。このように音楽と似通った性質を持つ小説は、存在理由を主張する手段としてぴったりでしょう。

 また、二番目の文の最後に「ただ過去においてのみ―自分を受け入れることができるだろう。」と言っていますが、ここでは解説②で触れた”経験”の役割をきちんと認識していることがわかります。これは恐らく本が書かれた後の話をしているのでしょう。物語が完成してしまえば時間と同時進行に存在理由を主張することが出来なくなり、本は「過去のもの」になります。勿論、ロカンタンがレコードから作曲者や歌手の苦しみを感じ取ったように、読む者にとっては本を開くたびにロカンタンの苦しみが流れてきます。ですがそれは「当時の」ロカンタンの苦しみが流れてくるのであって、読む側にとっては読み進めると同時(つまり時間と同時進行)に感じ取れるますが、書く側からすれば過去のものでしかないのです。再び存在理由を時間の流れと同時進行で主張するためには、新しい本を執筆するしかありません。

 ただ、過去に存在理由を主張し、自分の存在を正当化してきたという過去は、今までロカンタンが歩んできた無意味な過去よりも有意義なものです。そのため、小説の執筆が過去の出来事になってしまった後で、それを”経験”として語ることはロカンタンの大きな救いになります。そもそも存在理由を主張しながら小説を執筆することは、レコードの音楽の作曲者や歌手のように苦しみを伴いますからね。そういう意味でも、「小説を執筆しながら、自分の存在を正当化してきた」という過去こそがロカンタンの唯一の救いになるのです。


まとめ

 いかがだったでしょうか。この『嘔吐』という本は、哲学書の中でもわかりやすくて面白いので、私の非常に好きな本の一つです。素人なんで話がバラバラなところが多かったと思います。一応解説ごとの結論をまとめると、

①ロ「時間の流れには逆らえない。だからそれに従って”自由”に生きる!」
②ロ「”自由”に生きたいけど、”経験”は人生を有意味にしてくれる役割があるのね。」
③時間が不可逆である限り過去は存在しないし、存在は名前となんも関係のない無意味で余計なもの。
④ロカンタンは受動的な人物。だから①~③の事実を受け入れてもアニーみたいに人生諦めてない。
⑤ロ「自分の存在が無意味で余計なら、小説書きながら自分の存在は余計でないと主張して正当化していくんや!その”経験”こそが自分の人生を有意味にしてくれて、この先の自分の救いになる。」

という感じです。まじで長々お疲れさまでした(私も)。こんなに解釈垂れてる訳ですから小説にしちゃ難解なんですけど、哲学書としては読みやすいので(まじ)、私みたいに「よくわからん本を考察していくのが楽しい😊」って人は読んでみてはどうでしょうか。ここまでお付き合いただきありがとうございました!

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