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精神分析とファシリテート(+省察)

2月23日(金)

 結葵(ゆうき)と申します。

「意識的な努力」は途方もない。無意識的に。知らぬ間のこだわり。



 今、片岡一竹著『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』(ちくま文庫)を読んでいる。第1部「精神分析とはどのような営みか」まで読んだ。ここまでは、精神分析という臨床が、精神医学やカウンセリングとはどのように異なるのかについての話で、本格的にラカン的精神分析の理論に入っていくのはこれから。
 精神分析に関する初めての本で、実際に文庫が出版されたと同時に(つまり10月に)購入して、「はじめに」だけ読んでいたのだが、長らく積読にして放置していた。このタイミングで(よく分からないタイミングだが)思い出して読み始めてみる。面白い。納得できるというより、精神分析的な考え方がけっこう好きなんだと感じながら読み進めていく。

 この本の次には、向井雅明著『ラカン入門』を読むか、一度、フロイト著『精神分析入門講義』(岩波文庫)、古典に寄り道しようか。それとも、松本卓也著『人はみな妄想する —ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』か。まぁまぁ、今はまだ漠然と考えておく。本格的なラカン精神分析の話はこれから。ここからじっくりと読んでいくのがいいかもしれない。


 第一章、第二章からなる第1部だが、読んでいて直感的に思ったのは、ファシリテーションと少し似ているところがあるな、と。ファシリテーションというのは一種の職業名だが、「ファシリテーションとは」でGoogle検索をかけてみると、よく見るのはこのような一文である。
 
 「ファシリテーションとは、会社や学校での会議やミーティングが円滑に、かつ生産的に進むように舵取りをすること」

 ファシリテーションという名は職業の総体なので、明確に仕事内容がひとつに定義できるわけではない。実際に、ぼくもファシリテーションの仕事をやらせてもらっていた時期があるが、少なくとも、この定義らしきことは一切やらなかった。まぁなにせ、仕事相手が中学生や高校生だったし、別に社内や学校に常駐しているわけではなく、その日その場、当日限りの仕事相手なのだから、会議もミーティングもない。


 いや、いましがた思ったが、精神分析の独自性とファシリテーションが「似ている」というのは見当違いかもしれない。もっと主観的に、こんなふうにファシリテートしてみれば良かったのかもしれない、と反省している。いわば、勝手都合よく援用しようと思っているだけなのかもしれない。

 それは、自分のファシリテートとまったく逆のモチベーションで成り立っており、両端であるがゆえに、頭の中では発想の転換として持っていたものだが、いざ実践するとなると、どうしても実験的になってしまうことに躊躇いがあった。
 自分に都合の良い言い方をすると、経験の浅い最初のうちから好きなように自由にやらせてもらえなかったということもある。まぁ、そこを突破して勇気を持って好き勝手やり通すわがままというのもなかったわけだが。

 ※(実のところ正直に言うと、もうあまり当時の記憶が定かではない。まだ1年経っていない記憶なのだが、あまり仕事を楽しいと思えなかったがゆえ、忘れようと努力した記憶だ… それを何とか最後にもう一度、反省してみようと思うのだ。)


 たとえば、pp.59 ではこんなことが言われている。

「患者を理解しないように用心せよ」—— この言葉は、ラカンが後進の分析家たちに口を酸っぱくして説いた箴言です。精神分析が目指すものは、患者の理解ではありません。むしろ、分析家が臨床の中で「この患者のことを理解できた」と感じた瞬間には、最大限の注意を払わねばなりません。

片岡一竹著『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』ちくま文庫, pp.59

 精神分析では、人はみな「決して他者とは共有できない部分を持っている」と考える。そしてそれは「特異性」と呼ばれ、他者に開かれていない各人の本質的なものを形成している。また、他者を「理解する」とは、結局、①一般論に無理やり当てはめるか、②理解していると「思い込んでいる」だけの混同した自己分析かのいずれかに終始するしかない。ゆえに、患者を簡単に理解したり、共感したりすると、相手の特異性を殺しかねない。だから、「理解しないように用心する」のだ。

 ぼくがやっていたところでは、まずファシリテートは、観察して相手を理解することから始める。ビギナーのよくある陥りがちな罠だと今では思う。「まずは相手のことを理解しよう!」そう意気込むほど、理解できずにいた。まぁ、あれだ、そういう一筋の希望を見出そうと必死だったのだろう。褒める気は到底ないけれども、かといって責めるのも気が進まない。あの時はあれで精一杯だった。
 ところが実は、内心では「1日限りの相手のことなんか理解できるわけねぇだろ」と開き直っている。まさに、一筋の希望である。諦めたくない。伊達に「根がすごい真面目」と言われながら生きていない。

 本書にも、痛いところを突かれた皮肉が言われている。

皮肉なもので、「良い治療者になろう、自分の努力によってなんとかこの人を治そう」と思うほどに臨床がうまくいかなくなると言います。そう思っていると、「これがあなたの真理なんだ、こうすればあなたはもっと良く生きられるんだ」という、〈あくまで自分がそう思っているに過ぎない考え〉を〈客観的な事実〉であるかのように思い込み、それを患者に押し付けてしまいかねません。

片岡一竹著『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』ちくま文庫, pp.57 *1


 そもそも精神分析の臨床は、精神医学における〈治療〉でも、臨床心理における〈援助〉でもない。身体や心の「悪い部分」を治して、本来の「健康な」状態に戻すことではない。そこでの「症状」や「異常」はネガティブに捉えられておらず、むしろ、狂人的一面が垣間見えてこそ、人間の本来的な姿の露出なのである。口が裂けても決して人には言えないこと、例えば、性癖や変態的な趣味、猟奇的な妄想を抱えることは、誰にでもあり得る。「健康」だの「健常」だの「まとも」だの言うのは、虚構的にでっち上げられたものでしかない。

精神分析は症状を「異常」や「病気」とは考えず、したがって「健康」と言う考え方もありません。ラカン的精神分析では(…)すべての人は神経症者、精神病者、倒錯者(+自閉症者)のどれかに分類されます。「健常者」というカテゴリーは存在しません

片岡一竹著『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』ちくま文庫, pp.40

 ファシリテートでも、似たようなことを上司から散々言われたのを思い出す。ファシリテートすることは、彼ら相手を〈教育〉することではない。彼らの思っていることや感じていることを、〈正しい方向へ〉導いてあげることではない。つまり、中高生のある種、幼稚でみっともない考え方(=「異常」)をネガティブに捉え、それを正しい方向へ矯正する(=「健康・まともにする」)のではないのだ。

 ぼくのファシリテートはどうも、そこから脱出することができないみたいだ。相手を理解して教育的に〈正しい〉方向へ導く希望を見出そうとしすぎるのである。


 だから(だから?)、非意味的切断が必要なのかもしれない。解釈の際に、あえて頓珍漢なことを言う。もう少し雑に言えば、相手の言葉を表面通りに受け取らずにズラす。

精神分析の解釈とは、むしろ意味を切るようなもの、無意味なものを明らかにするようなものです。患者は分析家によって自分の思考や行為の無意識的な意味を知るのではありません。そうではなく、むしろ意味があると思っていることが実は無意味なものでしかなかったことを自覚するのです。

片岡一竹著『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』ちくま文庫, pp.52

 ファシリテートをするときによく言われていたのが、まさにここでの「患者は分析家によって自分の思考や行為の無意識的な意味を知る」である。ファシリテートでは、そのきっかけを与えることが求められる。
 「患者」という言葉を「クライアント」に、「分析家」を「ファシリテーター」に置き換えれば、ファシリテートのそれになる。ファシリテートは、相手の無意識に侵入し、刺激を与え、あたかも相手が自発的に自分の思考や行為の(無意識的な)意味に気付いたかのように錯覚させることによって、相手の変化を待つ。

 ファシリテートではそれを〈潜在意識に届く問い〉という。だが結局それは、精神分析的な視点から見れば〈治療〉であるように思う。クライアント自身は、自分で自分の思考や行為の無意識的なクセに気づいていると思い込んでいる。だが、ファシリテートでやっているのは、その無意識を意識化させるということ。

 言わば、〈歪み〉を矯正する。異常なものを、まともで健康なものにする。相手の思考や行為の無意識的な意味は本来とは〈違って〉いて、〈潜在意識に届く問い〉をきっかけに、実は〈正しい〉方向へ導かれる。


解釈とは〈思いもよらなかった新しいこと〉を言うよう、患者を促すためのものです。(…)分析家の解釈は大抵の場合突飛で、面食らわせるようなものです。しかしそういう一撃があるからこそ、想定していなかった新しいことを言えるようになるのです。

片岡一竹著『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』ちくま文庫, pp.66~68

 「キミの言っていることが分かるよ」とか「キミの気持ちが分かるよ」なんていうのは、たしかに優しさがこもっているように見える。聞こえる。言ったほうも言われたほうも、自分(相手)のことが分かると(一旦は)思う。

 けれど精神分析の目標はそこではない。

 精神分析では、ある意味で、すべての責任が〈分析主体〉つまり〈患者(=相手)〉に委ねられている。「すべての責任が委ねられる」という表現が重ければ、「分析主体に身を任せるしかない」となる。そこでの分析家は、分析主体が自由連想するなかで、突飛な解釈によって分析主体の無意識を非意味的に切断することだけである。


 ファシリテートも、そんな風にやってみたら一体どうなるだろう。冷たい、しっかりやれ、と言われるだろうか。精神分析の考え方には妙に納得できる。ファシリテートでもこんな風にやれば良かったのかもしれない。性に合っている。「理解できること」の足し算よりも、「理解できないもの」を引いていくと最後に何が残るのかという引き算。ポジティブな〈開き直り〉〈居直り〉による、新たな挑戦。

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