【短編小説】氷 -2023年の終わりに- 3

12月31日。今年最後の日。昨日までの体調不良が嘘のようだった。頭は冷たく冴え、体は埃のように軽い。自虐的な冗談を思いつく余裕もある。ドロドロと皮膚の下を這っていた、色の判別ができない感情はすっかり消えていた。残ったのは澄んだ寂しさだけで、僕はより一層の疎外を感じていた。もう必要はないのに、僕はまた氷を一つ口に入れた。心地よい緊張がすうっと染み渡る。まだ朝の8時。今日は何をすればいいのだろう。

カーテンを開ける。穏やかな光の線と僕は交差する。空は今日も青かった。そのまま窓を開けてベランダに出た。外気が僕を通り抜け、それに反応して体が震える。太陽の方向を眺めてみる。日差しだけが暖かい。僕はまるで透明だった。寂しさの外は静かな祝福に満ちていて、僕は形をなくしそれと一つになるような感じがした。

さようなら。

また、君の声が聞こえた。

熱いシャワーを浴びた。脂をまとって重くなった髪の束が右目にかかる。眼球に黒い線が触れて鋭い痛みが走った。病熱で曖昧になっていた体の感覚が戻ってくる。熱が頭頂からつま先までを流れ、体を形作る。僕は丁寧に体を洗った。そして最後に冷水を被った。震えが喉の奥で凝縮し、僕は自身の内に孤独を見た。それは不安をまとって鮮やかな水色をしていた。

僕は身支度を整え外に出た。どこまでも延びる空。太陽が寂しそうにすら見える。少し歩いただけで息が上がってきた。体の節々が簡単に悲鳴を上げる。それでも僕はスピードを緩めずに歩き続けた。目的地はなかった。体のそこらじゅうで痛みが響きだす。その痛みがここに自分の存在をつなぎとめているような気がした。意識を自分自身に集中させる。背中を汗が伝う。体温の上昇と体の芯の冷たさが混じって心地がいい。住宅街を抜け、雑居ビルの合間を縫い、気づくと駅にたどり着いていた。

駅前の雰囲気はいつもと違い、ゆっくりとした空気に包まれていた。不幸を背負ったような表情を張り付け、足早に流れていく会社員らしき者たちの姿はない。陽の暖かさを灯した表情の老人が僕の横を過ぎていく。母親に手を引かれる小さな子どもが僕を追い越していく。一年の終わりにだけ訪れるような安堵がすべての通行人を包んでいた。一年の始まりはきっともう少し忙しないから、たった数日間だけのささやかな祝祭だ。意外なことに僕もその対象に含まれていた。そのかすかな暖かさのおかげで、肩で呼吸をするような状態になっている僕の中にもわずかな希望が生まれたような気がした。根拠なんてない。しかし、みじめな形でこの一年を締めくくることになるとしても、君にだって新しい365日を迎える権利はあるのだ、と街は背中を押しているようだった。僕はそのまま改札を通り、電車に乗った。

行く当てはなかった。時間だけが有り余っている。日々、どれほど時間に追われているか知れないのに、いざ僕が追いかける番になると何をしたらいいかわからない。ここ数日はほとんど食べ物を口にしていない。それでも腹はすいていない。車内も人はまばらだ。カップル、小学生、大学生、中年男性、高齢夫婦、外国人旅行者。一年の最後の日に彼らはどこに向かうんだろう。やっぱりその表情はどこか安堵に染まっている。いや、どうだろう、気のせいかもしれない。そうであってほしいと僕が願っているだけだろうか。本当は悲しみに暮れているのかもしれない。僕なんかよりもずっと。僕は常に不安だ。だけどそれを文章にすることで僕は僕を保ってきた。それはもう過去の話か。窓の外のビルと無数の看板と空。次々と過ぎて現れる。空はすべてを包括している。あの空には一生手が届かない。どれだけ無機質なビルの群れが雲を破ろうと伸びても、絶対にそれらは地から離れることができない。変わらない青がきれいだった。

何駅か過ぎた。少しずつ乗客が入れ替わっていく。僕はぼーっとこの鉄の箱の外を見続けている。考えもなしにそのまま上野で降りた。運動して熱気を帯びていた体は電車内で落ち着き、ホームでは肌寒いくらいだ。早歩きで外に出た。

東京の様々な場所にサトミとの思い出があった。上野もそうだ。何度も二人で訪れた。買い物もしたし、動物園にも行ったし、たくさんのものを食べて、飲んだ。駅を出た瞬間にそうした彼女との記憶が風と一緒に僕を通り抜けていく。横断歩道を渡り、アメ横を抜け、喧騒と通行人の合間を歩き、ふらふらとまた戻って広い公園を歩いた。どこを通っても一人ではない頃の思い出ばかりだ。まるでそれらを一つずつ掬って元の場所に還してあげる儀式をしているようだ。それは一体何のために?記憶はどこに還るのだろう。すべて終えるにはどれほどの時間と労力がかかる?僕の感情は喪失感を前に閉じられている。ありとあらゆる言葉、文章、そして物語へとつながる回路は遮断されている。巡礼のような行為を通して、僕はそれを取り戻そうとしているのだろうか?この空虚を手繰り寄せて進めば、僕は僕のもとへ帰ることができるのだろうか?

正午はとうに過ぎた。体は熱いのに胸のあたりはひどく冷たい。氷の塊を飲み込んでいるみたいだ。少し疲れた。僕は地上に口を開けた階段を降り、地下鉄に乗った。上野での用は済んだと思った。暗闇を高速で移動する。空が窓の向こうにない。ここには絶対に光は届かない。ゆっくりと呼吸をし、僕は目を閉じた。

たった数分の間に夢を見た。大きな水たまりに一滴だけ色水をこぼしたようにささやかな夢だった。僕はサトミの後ろ姿を見ていた。僕がどれだけ呼び掛けても、彼女は振り向かなかった。

新宿の駅前を歩く。ここには年末の非日常感があまりない。いつでも変わらずたくさんの人間が目的を持って(あるいは持ったふりをして)交差して消えていく。僕は一つの雑踏になる。数十分か数時間そのままになる。そうして誰でもない人間になったような気分になる。新宿もサトミと何度も歩いた。しかしここはあっという間に人ごみで何もかもをかき消してしまう。このまま僕は意識を失って、名前を捨てて、誰かに肉体を譲り渡してしまいたくなる。そのまま幽霊になって、君の記憶にだけいつまでも残ることができたらいいのに。けれど残念なことに、きっとそれは叶わない。

僕はまだ消えたくない。このまま人の塊の中で僕を見失いたくない。もし手がかりがあるのなら、僕は自分を取り戻したい。そして新宿駅の反対に向かって歩き出した。

人通りの少ない歩道。再び周囲には年越し前の祝福じみた雰囲気が漂う。僕は横断歩道の前で信号が青になるのを待っていた。太陽は今年最後の役目を終えようとして、空を橙に染め始めている。反対側には同じく信号を待つ人が3人。その一人には見覚えがあった。やっぱりサトミだった。肩にかかる茶色がかった髪、黒いコート。あの頃と変わらない。大きな瞳はこちらを向いている。そのまま視線は動かない。彼女も僕に気づいたのだろうか?どうしてサトミも東京にいるのだろうか?元気にしているだろうか?氷のようだった心が瞬間的に熱を帯びて霧のようになる。そして感情が不透明で得体のしれない色に変わった。怖かった。

信号は青に変わった。僕と彼女は互いに歩き出す。ほんの数秒、意識はスローモーションを錯覚させる。いくつもの言葉が体の内側で生み出される。枯れていた井戸が息を吹き返すように、僕の心は言葉に浸って濡れていた。僕は無数の単語のどれを拾って、彼女に渡す文章を作ればよいのだろう。

彼女との距離が限りなく近づく直前、彼女は僕に微笑んだ。そしてそのまま僕とは反対の方向に歩いていった。僕はやっぱり不安の中で、何も言葉を紡ぐことができなかった。懐かしいにおいだけがそこに残り、彼女の笑顔が昔の僕に重なった。

僕は横断歩道を渡り切り、サトミが去った方向へ振り返った。彼女の背中はどんどん小さくなっていき、そして振り向くことはない。僕は彼女を見送っていたあの頃を思い出した。いつか僕らに終わりが来ることを不安に抱きながら、どこか幻想のように感じていたあの日々。サトミは振り返って僕に手を振り、そして僕は手を振り返す、そんな繰り返しはいつの間にか最後を迎えていた。彼女は前を見ている。いつだって進むべき方向を見ている。

僕は姿勢をもとの方向に戻した。そして歩き出した。僕の中では無数の言葉が広がり、渦巻いている。その中心には青い孤独が冷たく光っていた。



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