イトウシズヒコ 「人生において無駄な時間など、一秒もない」
皆さんご存じでしょうか?
イトウ シズヒコ
カズオイシグロ?
スガシカオ?
糸井重里?
いえいえ、イトウシズヒコですよ。
ほら、あの。
おそらくほとんどの方が知らないでしょう。
なんてったって、私の高校時代の古典の先生です。
他の先生の名前は姓は覚えていても、名前までは覚えていません。
でも、この先生は何故かハッキリ覚えてました。
人生において何度か、人の言葉によって救われたことがあります。
それが有名な人の有名な言葉であると、名言とか格言とかになりますよね。
確かに心に刺さる、こころの支えになる言葉はいくつもあります。
でも、そんな会ったこともない、生きていた時代も違う人ではなくて、同じ場にいて、同じ空気を吸っていた人から貰う言葉にも、同じような力が、いや、それより遥かに心に響くこともあります。
いまから遡ること15年程前、私は高校3年の2月下旬。
卒業目前、イトウ先生の最後の古典の授業でした。
これから卒業して、それぞれの進路、生活が始まるにあたって、先生は私たちに先の言葉を贈ってくれました。
「いいか、お前たち。これから長い人生のなかでな、いろんなことがきっと起きる。辛いことも楽しいことも、無駄だと思うこともあるかも知れない」
「でもな、人生において、無駄な時間など一秒もないんだよ」
精一杯生きたらいい。
そうだよね、一生って貴重な時間なんたよね。無駄にできないよね。
当時、新生活に胸踊らせていた私は、そう受け取りました。
しかし、後に解釈が変わります。
これに似たような、解釈で語られる有名な格言があります。
これは有名人。
「人生とは、今日一日のことである」
デール・カーネギー(1888-1955)
調べてみるとカーネギーさんも教師だったようです。びっくり。
毎日をコツコツ、大切に生きる。
今日1日を大切に生きられるからこそ、人生を大切に生きられる。
そういう意味合いで語られることが多いようです。
が、、、
この2つの言葉、、、、
受け取り方次第では、正直しんどいです。
適応障害と診断されてから、仕事は休職中、賃金労働をしていないので無収入、傷病手当のみで生活している今の私には、あまりにもしんどい言葉です。
何故、賃金労働や経済活動以外が無駄と見なされやすいのか、それは別の機会に記すとして、、。
暑いから外にも出ず、室内で主に好きなことだけをやっている。
SNSを開けば、知人は仕事もプライベートも充実させ、人生を謳歌している、、、。
それに比べて私は何をやっているのだろう、、、。
世間的には無駄な時間を過ごしているように見えるのではないでしょうか。
でも、上の2つの言葉を、捉え方を変えてみると意味が一変します。
この休みは今の自分にとって、次の何かをつかむために必要な時間である。
この休みをのびのびと過ごしたからこそ、見えてくるものがある。
そう考えると、ある意味無駄ではない。無駄な時間は一秒も過ごしていないのではないか。
所謂、「無駄の無い人」というのがいる。
ストレートで大学合格、最短で資格取得、同期で最速の出世などなど、、、
でも、そういった無駄の無い人には見えない世界、感じがたい世界というものがあるではないでしょうか?
まわり道をしたから見えるもの
遠回りしたから感じるもの
道草をしたから出会えるもの
無駄の中に、人生の味わいが詰まっている。
こういう捉え方をすると
イトウ先生やカーネギー先生の言葉はまったく違って私に響いてくる。
時間の経過がそうさせたのかもしれません。
今、私は仕事はせずに、自分の時間、家族の時間をゆっくりと過ごしています。
これまで蔑ろにしていたもの、無駄だと思っていたことに多くの時間を費やしています。
でもきっと無駄じゃない。
これをやらないと見えてこない世界があるのだから。
この場を借りて、イトウ先生 ありがとう。
おわり
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