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地域の悲史 鳥取県

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鳥取県内の地域の悲しい歴史を物語る遺跡を紹介しています。
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#鳥取市

鳥取市内に残る潜伏キリシタン信仰の遺跡-次回の鳥取への旅のテーマ-

鳥取からこちらに帰ってきて、資料を調べ直していると、調査不足だった場所や新しく調べたい歴史が出てきます。 というわけで、いま強く興味を覚えていることは・・・・ 鳥取藩主・池田家は隠れキリシタンだった? 子どもの頃、父と祖母から「鳥取池田家は隠れキリシタンだった」という話を聞いたことがあります。 「まさか。江戸時代は幕府によってキリスト教は禁止されていたんでしょう?当時の支配階級で、キリスト教を弾圧する側だった大名が隠れキリシタンだなんて・・・・。ありえない」と、思っていま

旅の終わりに・2 R6.9.13-17 鳥取訪問ふりかえりの記

9月13日(金)から17日(火)までの鳥取訪問記。お読みいただきありがとうございました。 今回はぜひ訪れたいと考えていた場所がありました。 1.私の知っている鳥取県の現役火葬場と火葬場跡 5ヶ所    【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・1】桜の苑と旧米子市火葬場|Yuniko note    【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・2】琴浦町営斎場|Yuniko note    【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・3】旧東伯火葬場跡|Yuniko note    【鳥取県中西

旅の終わりに・1-鳥取の名峰 大山-

前回の鳥取城の人柱の記事で、今回の訪問記は終了です。 今回は鳥取県西部の米子市からスタートし、鳥取市がラストになったので、大山(だいせん)のいろいろな姿を見られたことも収穫でした。 最後に、旅の途中で見た大山の姿を、ずっと以前に撮影した古い画像も合わせて紹介いたします。 大山について 大山は標高1709m。中国地方の最高峰です。大山の最高点は剣ヶ峰の1729mですが、剣ヶ峰に達する稜線が激しく崩落して危険なことと、古来から弥山(みせん)が山頂として扱われ、信仰を集めていた

特別編 鳥取大火-市街地を焼き尽くした大火災の記録-

鳥取に多少なりとも縁のある方なら必ず耳にしたことがあるであろう「鳥取大火」。戦後の災害だったこともあり、多くの写真が鳥取市内に残っていますが、私の実家にも10点ほどの写真が残っていました。 写っている範囲は限られていますが、本邦初公開いたします。 鳥取大火 1952年(昭和27)4月17日、14時55分。鳥取駅前の市営動源温泉付近から出火した火は、おりからのフェーン現象による南からの強風に煽られて市内各所で飛び火による火の手が上がり、瞬く間に市街地を北へ扇状に燃え広がった

摩尼川の継子落としの滝

鳥取市覚寺から摩尼寺に続く参道(と言っても、舗装されていて自動車での通行が可能ですが)途中にある「継子いじめ」の悲話を秘めた場所です。 継子落としの滝 昔、鳥取の町にある夫婦が住んでいた。その夫婦には継子がいたが、夫婦は、何かにつけて継子をいじめていた。 やがて夫婦は「あの子を始末してしまいたい」と考えるようになった。 ある日、継母は「摩尼さん(摩尼寺のこと)参りに連れて行ってやるから」と、継子を連れ出した。 夫婦は子どもを連れて摩尼寺の参道を歩いていたが、継母がふと歩み

浜坂の犬塚と犬橋

鳥取市浜坂にある「犬塚」と「犬橋」を紹介します。 犬塚と犬橋 前に紹介した「丸山の追分」を砂丘方向に曲がらないで直進した道は、鳥取砂丘を通って但馬国(兵庫県北部)へと向かう但馬街道で、多くの人でにぎわった道でした。 ※「丸山の追分」については、こちらをご覧ください→申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-|Yuniko note ところが、この道の途中に千代川と摩尼川(摩尼寺のある摩尼山から流れる川)の合流点があり、そこは小川のわりに川底が深くて川崖も高く

天徳寺の山崩含霊塔

鳥取市の天徳寺にある「山崩含霊塔(やまくずれごんりょうとう)」を紹介します。 ある種の、お墓と言ってもよいかもしれません。 天徳寺について・1 天徳寺は、正式には「萬年山天徳寺」といいます。1538年(天文8)に創建されたと伝えられています。もとは、今の鳥取市湯山(鳥取砂丘の背後にある丘陵地の山裾)にあり、多年山城福寺という名で摩尼寺の塔頭の一つだったといいます。 その後、天台宗から曹洞宗に改宗し、1550年頃に現在の地に移転し、天徳寺の改称したそうです。 山崩含霊塔

摩尼寺の道好上人-羽柴秀吉の鳥取城攻め-

1581年(天正9)、織田信長の名を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が鳥取城を攻撃しました。 これはその時に起きた出来事といわわる伝説です。 摩尼寺の道好上人と羽柴秀吉 戦国の頃、山中道好という医師がいた。のちに摩尼寺に入って修行し、大力の荒法師となった。 天正9年(1581年)、羽柴秀吉が織田信長の命を受け、鳥取城を攻略すべく因幡国に進出した。この時、秀吉率いる織田勢は多くの神社仏閣を焼き討ちしたが、摩尼寺には道好が立ちふさがって一人の兵も入れなかった。 ※若桜の不動院

立見峠の怨霊-伝説が秘める因幡の戦国時代・2-

今回も、お盆にちなんで幽霊の出てくる伝説です。 鳥取市郊外の本高から宮谷に抜ける「立見峠」という峠があります。令和になった現在もなお、昔の峠の面影を残している峠です。 この峠には、戦国時代に無念の死を遂げた若き武将の怨霊が出没し、村人を脅かしたと伝えられています。 立見峠の怨霊伝説 1560年代中頃、因幡守護・山名氏から鳥取城番を命じられた武田高信は、因幡制覇の野望を秘めていた。 おりしも、守護・山名誠通(久通)は但馬山名氏との戦いに敗れて戦死してしまう。誠通には源七郎と

幽霊薬-伝説が秘める因幡の戦国時代・1-

今回は、お盆にちなんで幽霊の出てくる伝説です。 この伝説は、私が子どもの頃に母や祖母から聞きました。鳥取県東部地方ではよく知られた昔話と思っていたのですが、前項「申年がしん」で紹介した「むかしがたり」(著:山田てる子 日本写真出版 S50.4.1)には、この話は載っていません。実はあまり知られていない伝説なのかも知れません。 鳥取の郷土出版関係では「子どものための鳥取の伝説」(著:野津龍 山陰放送 S54.1.26)にこの話が載っています。 一種の怪談ばなしなのですが、舞台と

申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-

近世以前の日本では、災害や封建諸侯による収奪などが原因で多くの飢饉が起こりました。特に江戸時代に起きた次の四つの大飢饉を「江戸四大飢饉」と呼んでいます。 ・寛永の大飢饉 1642~43年 ・享保の大飢饉 1732年 ・天明の大飢饉 1782~1787年 ・天保の大飢饉 1833~1839年 この中で最も規模と被害が大きかったとされるのが「天明の大飢饉」ですが、鳥取県東部では「天保の大飢饉」を「申年(さるどし)がしん」と呼んで、その悲惨さが語り継がれていました。 鳥取県内にも「

義民 東村勘右衛門・2-勘右衛門土手と東村勘右衛門之碑-

鳥取県東部で令和の今も語り継がれている義民・東村勘右衛門(松田勘右衛門)について紹介する2回目です。 東村勘右衛門について、くわしくは前項をご覧ください。江戸時代中期に鳥取藩で起きた元文一揆の指導者として処刑された人物です。 義民 東村勘右衛門・1-元文一揆と斬刑地蔵-|Yuniko note 勘右衛門土手 東村勘右衛門は旧八東町東(当時の東村)の庄屋を務めた人です。 子どもの頃の逸話として、次のような話が伝わっています。 勘右衛門が8歳の頃、寺子屋で学んでいた友だちや