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特別編 鳥取大火-市街地を焼き尽くした大火災の記録-

鳥取に多少なりとも縁のある方なら必ず耳にしたことがあるであろう「鳥取大火」。戦後の災害だったこともあり、多くの写真が鳥取市内に残っていますが、私の実家にも10点ほどの写真が残っていました。
写っている範囲は限られていますが、本邦初公開いたします。

鳥取大火

1952年(昭和27)4月17日、14時55分。鳥取駅前の市営動源温泉付近から出火した火は、おりからのフェーン現象による南からの強風に煽られて市内各所で飛び火による火の手が上がり、瞬く間に市街地を北へ扇状に燃え広がった。この時鳥取市内は、最大瞬間風速15m、市内の最高気温25℃、湿度28%と、4月にしては異常な高温・低湿度だった。
県内各市町村から救援の消防隊が駆けつけたが、当時6台あった消防車は3台が修理中、出動した3台のうち2台は故障中で、まともに駆動できるのは1台のみという状況だった。また、上水道の水量・水圧ともに低すぎて、手の施しようもない状況だった。さらに、鳥取市は戦時中にアメリカ軍の空襲に遭っていなかったため、市街地の道路は旧城下町特有の狭く、鍵形に曲がった道路や袋小路が多く、このことも消火活動の妨げとなった。

夜になっても火勢は衰えず、焼失速度は1分間に7戸強という凄まじさだった。
火は吹き荒れる強風に煽られ、市街地北端の天徳寺(
天徳寺の山崩含霊塔|Yuniko note)が炎上。さらに、丸山(申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-|Yuniko note)、覚寺、摩尼寺付近(摩尼寺の道好上人-羽柴秀吉の鳥取城攻め-|Yuniko note 摩尼川の継子落としの滝|Yuniko note)の山林も焼いた。

翌4月18日の午前4時頃、市街地を焼き尽くした火は、ようやく鎮火した。
被災者2万451人。死者3人。被災家屋5,228戸。被災面積160ヘクタール。延焼した距離は6㎞に及んだ。
これだけの被害を出した大火災でありながら、出火原因は今もって不明である。  
<「Wikipedia」 「鳥取大火」の項を要約>

鳥取市立醇風小学校の記録から

私の母校は、鳥取市立醇風小学校です。在学中に創立100周年を迎え、その記念事業の取組の一つとして記念誌を発刊し、在校生に配付されました。
その記念誌の中に、当時在職して鳥取大火を体験した元職員の随想がありました。要約して紹介します。

この日は全校児童の鳥取砂丘への徒歩遠足になっていた。
鳥取砂丘を出て、丸山のあたりを歩いていると、すでに市街地の方角から黒煙がもくもくと上がっている状況だった。子どもたちは不安そうに顔を見合わせ、涙ぐむ子どももいた。
午後7時頃、いったん帰宅していた職員も続々と学校に集まってきた。火はすでに片原町(学校の隣町)まで来ており、「なんとか(この年購入したばかりの)グランドピアノは守れ」と、男性職員6人がかりでグランドピアノを運動場に運び出した。
午後8時頃、いったん火勢が弱まったかに見え、「醇風小学校は焼け残るのでは」という希望も出てきた。
しかし午後9時頃、運動場を囲む樹が一気に燃え上がり、職員室や教室のガラス窓がセロファンのようにペラペラと折れ曲がると同時に、ゴーッと言う音とともに校舎が猛火に包まれた。
運動場に集まった職員は、火の海となる校舎を呆然と見つめるのみだった。
<「醇風小学校創立百周年記念誌」より要約>

実家に残る鳥取大火直後の写真

これから紹介する写真は、当時高校3年生だった亡父が撮影したものです。写っているのは実家のあった旧下台町(現・玄好町)周辺、写っている人は当時の家族や親戚、近所の人、亡父の学友です。

大火後 瓦礫の片付け作業
写っているのは亡父と学友の方です
大火直後の急造の家の前で
前列左から 叔父(父の弟・当時中3) 曾祖母
後列左から 父 祖母 大伯父(祖母の兄) 大伯父夫人

後ろに写っているのは、瓦礫を集めて造った急造の家です。ここで当時の家族4人が暮らしたそうです。
大伯父夫妻は東京に住んでいましたが、火事見舞に帰省しました。
「鳥取駅に降りたとき、人の焼けるにおいがしたので、よもや(家族全滅か)と思いゾッとした」と語っていたそうです。

大火直後の住まい
左から 祖母 父 大伯父の子ども(父の従弟) 叔父
焼けた庭の跡で
左から 大伯父夫人 曾祖母 父の従妹 大伯父夫人の姉

上記4点の写真は、大火災の直後に撮影したものと思います。
一面の焼け野原で、焼失を免れた家がまったく見られません。建て直され始めた家もまだありません。


当時の家の玄関
江戸時代に剣道の師範が住んでいた屋敷だったということで
立派な玄関がありました。
敷地は一段固くなっていますが、火災後の区画整理で地ならしされました
家の近くにあったという樟も焼け落ちました
火災直後に4人家族で住んでいた家
手前にある灯籠は、今も実家の庭に残っています

上記2点は、大火から少し時期が経過した頃ではないかと思います。
向こうに、新しく建ち始めた家が写っています。

当時の家の基礎が残っています

上の写真は、さらに時間が経った頃かと思います。
新しく建ち始めた家が増えています。

家の近くにあった鳥取瓦斯の社屋

家の近くの片原町にあった鳥取瓦斯の社屋の焼け跡です。写真左に移っているガスタンクは、その後に再建されて、平成の初め頃までは残っていました。

今も市内に残る鳥取大火の痕跡

鳥取市内を焼き尽くした猛火ですが、それでも奇跡的に焼失を免れた建物もありました。

  1. 旧鳥取県会議事堂(昭和50年代後半に取りこわし)

  2. 旧鳥取県立図書館(平成初期に取りこわされた後、外観復元 現・鳥取童謡おもちゃ館・わらべ館)

  3. 五臓圓ビルヂング(国登録有形文化財)

  4. 元大工町の高砂屋(国登録有形文化財)

  5. 戎町の富士銀行鳥取支店(現・島根銀行)

  6. 西町の商家の土蔵

以上の6つです。太字になっているのが現在も当時のまま残る建物です。
記したように、五臓圓ビルヂングと高砂屋は国の登録有形文化財に指定されています。
西町の商家の土蔵は老朽化と荒廃が著しいですが、現在も大火と風雪に耐えて残っています。ここは私の小学校に近かったせいもあって、今でいう「心霊スポット」扱いされていました。そんな事実はなかったんですけどね。

旧鳥取県会議事堂は、私の通っていた高校の近く、鳥取県庁の傍らに立っていました。鳥取県内に残る貴重な明治時代の建築だったのですが、惜しくも取り壊されました。跡地は植栽されて遊歩道になっています。

鳥取大火で焼失を免れた建物
旧鳥取県立図書館(外観復元)

旧鳥取県立図書館は鉄筋コンクリート造りだったため焼失を免れました。
この建物の位置づけについては、「現存の建物の後方に新しい建物を新築」とする説もありますが、旧鳥取図書館は床は板張りで階段は石造り。内部は2階建てでした。現在のわらべ館は内部3階建てで床はリノリウム。エレベーターも設置されています。内部の間取りも、旧鳥取県立図書館とはまったく異なっています。よって私は、「いったん取り壊された後、外観復元されたもの」と考えています。

鳥取大火で焼失を免れた建物
五臓圓ビルヂング

五臓圓ビルヂングは1931年(昭和6)の建築で、1943年(昭和18)の鳥取大震災、1952年(昭和27)の鳥取大火にも耐え抜いて、今日まで残っています。国登録有形文化財です。

鳥取大火で焼失を免れた建物
高砂屋

高砂屋は明治の中頃から綿商いを行ってきた商家で、明治の商家の面影を残しています。国の登録有形文化財です。

鳥取大火で焼失を免れた建物
西町の商家の土蔵

あまり知られていないし、保護文化財の指定等は受けていないのですが、この土蔵も鳥取大火での焼失を免れた数少ない建物。
この土蔵は私の小学校のわりと近くにあり、男子たちから「心霊スポット」扱いされていました。曰く「昔、いたずらをしてここに閉じ込められた子どもがいた。もうそろそろ許してやろうと家族がこの蔵に入ったところ、その子どもは鼻血を出して死んでいた。それ以来、その子どもの幽霊が出るようになった」・・・・。「鼻血を出して死ぬ」というのがいかにも子どもの発想なのですが、この噂を真に受けた私は、この土蔵の前を通って友だちの家に行くのが怖かったです。
ご覧のとおり、老朽化と荒廃が著しく、いつ取り壊されてもおかしくない状況なのですが、貴重な歴史の遺産として、保存措置を講じてもらえないかと思います。

今夏の鳥取の火葬場跡・斎場巡りと鳥取の悲史巡りは、これで最終回となります。
長らくお読みいただいてありがとうございました。

<参考文献>

・鳥取市立醇風小学校創立百周年記念誌 鳥取市立醇風小学校 1972年(昭和47)12月1日発行
・Wikipedia 「鳥取大火 鳥取大火 - Wikipedia

次回予告 御礼と今後の予告

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