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『愛という名の支配』

ドイツの精神学者エーリッヒ・フロムによると、愛とは「愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること」であり、その要素は「配慮、責任、尊重、知」だという。しかし本書のタイトルにある「愛」とは、それとはまったく別物の、なんとなく幻想として漂っている概念としての「愛」である。

それは抑圧者にとっては都合のよい隠れ蓑になり、被抑圧者にとってはその立場で満足するための言い訳になり、両者にとって他人または自分を大切に扱わない事実から目を逸らすための緩衝材となる。

本書を読み終えて一番頭に残ったのは、「自分を大切にし、自分の人生を生きること」の重要性だ。これは、日本を代表するフェミニズム研究者が書いた本の感想としては意外だった。

恥ずかしながら田嶋陽子氏の本を読んだのはこれが初めてである。かつて見ていたTVタックルでの印象から、何となく敬遠していたと言ってもよい。

しかしテレビで見た強烈なイメージとは裏腹に、この本はとても優しく温かい。大上段からお説教するでもなく、理屈を並べ立てるわけでもない。著者の原体験である母親との関係から「愛」の名のもとに発生する抑圧の構造を詳らかにし、さらに恋愛を通してそこから脱却する様子を描いている。その過程を読み進めていくうちに、著者が癒されていく様子が伝わってくるのだ。

あくまで「私」が先

本書では田嶋氏は自らの体験を語ったうえで、フェミニズムとは自身を解放するために必要な考え方であり、「腹の底からしぼりだしてきたもの」だと書いている。さらに続くのは次の文だ。

あくまで「私」が先であって、フェミニズムが先ではありません。”「私」がフェミニズムを生きる”のではなく、「私」を生きるにあたって、役に立つからフェミニズムを使っているのです。

私自身、フェミニズムにピンと来るようになったのはこの数年である。特に20代の頃は家父長制の価値観に縛られていて、そこから出たいのに出口がわからない、さらに言うと出る勇気もないという状況だった。

それは何も気づいていなかったからだ。田嶋氏が書いているように、「これが差別なんだと意識されないほど、生活の根っこにとけこんで、『自然』になってしまって」いたのだ。中高の制服がスカートであることを一切疑問に思わず、「就活ではメイクもマナー」と言われてもそんなもんかと思い、結婚後は進んで家事労働を担った。本や映画、ドラマで描かれる女性の多くはステレオタイプなものだったけれど、それすら気づかず「大人の女性はこうするもんなんだ」と誤ったイメージを知らないうちにどんどん吸収していた。この社会の仕組みの多くが男性基準で作られていることや、社会に出る女性にはその男性基準に合わせるよう求められていたと気づいたのは、ずっとあとになってからだ。

そんな社会で女性として働くことは当然ながら大変である。そうこうする間に身体を壊し、「社会人として私は失格だ」と白旗を揚げ、自ら「養われる」立場に志願した(詳しくはマガジン『川下り型人生を実践する女の話』にまとめている)。

そうして自立を放棄した私は自分を正当化しようと、「結局女性が家に居た方がうまくいく」という考えを信じようとしていた。自分には能力がないと簡単に諦めた分を取り返そうと無駄に手の込んだ食事を作り、厳しい社会で必死に働く友人たちをどこか醒めた目で見ていた。結婚して養ってもらえている自分は辛い思いをして働かなくてラッキーだと、思い込むのに必死だった。

フェミニズムについては大学の頃から知っていた。けれどそれは、田嶋氏や遥洋子氏など「なんとなくうるさい人たちの主張」だと思っていた。当時のメディアは正々堂々と主張する女性をバイアスたっぷりに面白おかしく伝えるのが常だ。そうしてメディアを通して知る彼女たちについて、著書をじっくり読んで勉強することもなく、操作された印象を鵜呑みにし、表面的に見聞きする内容で知った気になり「ああいうのはちょっと…」と思っていたのだ。差別構造に疑問を持たず、その枠組みのなかでうまく立ち回ろうとする真に都合のよい存在である。

その後紆余曲折があり、私は遅ればせながら生まれて初めて自分の人生を自分でなんとかしていこうという気になった。そして藁にもすがる思いでつかんだインターンのポジションを手掛かりに渡米し、2年働いて帰ってきた頃には、目に映る世界が変わっていた。それまで何となく受け入れていた「当たり前」の奇妙さに気づくようになったのだ。さらに韓国のフェミニズム文学との出合いを通して、私が感じる生きづらさの背景には構造的な不平等があるばかりか、自分のなかにもまだまだ家父長制の価値観が残るからこそ苦しいのだと知った。

正直、こうした気づきを得る前にこの本を読んでいたとしても「ふーん」で終わっていただろう。自分の経験が土台にあるからこそ、田嶋氏の言う「私が先」の重要性を理解し、フェミニズムを役立つものとして取り込むことができたのだ。

フェミニズムはじめ、あらゆる概念は個人が個人の人生を生きやすくするうえでのツールでしかない。それなのに私たちはいつのまにかその概念ありきで語り始める。そして、「個人の生き方」が不在の不毛な議論を繰り広げる。

加えて私は常々、人間をカテゴリーで捉えることほどナンセンスなことはないと思っている。〇歳だから、女だから、男だから、独身だから、結婚しているから、親だから…と、人は自分のデータベースから、各ラベルに紐づいた情報を取り出して、勝手に人物像を作り上げていく。個人として対峙するのではなく、カテゴリーに対峙するのだ。

概念にせよ、カテゴリーにせよ、その前にあるべきは個人である。個人を置き去りにして概念やカテゴリーで物事を判断するのがいかに意味のないことか、この本は改めて教えてくれる。

女性が自立して生きる意味

本書では、女性が差別を下支えしている事実についても鋭く指摘されている。

「ペットになった女たちが再生産する女性差別」
「女が男を恋するように仕組まれている男社会」
「愛情乞食」
「男の愛ばかり求めている女の人は、ドレイ根性まるだしで、情けないことにみずから男の奴隷になりさがりたがっている」

と、容赦のない言葉が次から次へと出てくるが、このすべてに心当たりのある私は正直耳が痛い。

さらに田嶋氏は、女性も「ひとりの人間として自分の生きる道を選べるよう、その意識と態度を変えていかなくてはいけない」と説く。恋愛や結婚、出産は決して人生の幹にはならないというのである。今の時代、これは当たり前のように聞こえるが、無意識のうちに結婚を人生の幹と捉えている人は実際のところまだ多い印象だ。実際に、結婚後配偶者の転勤に伴って仕事を辞めたり、働き方を変えたりするのは女性の場合が多い。

「『生きる』とは、パンを稼ぐこと、仕事をすること。つまり、自分の世界を持つことです。仕事は替えてもいいから、やりつづけなくちゃいけない。人生にとって恋愛や結婚や子育ては、そこから生い茂ってくる枝葉なんです」

本書で一貫しているメッセージは、「女性が自分の人生を生きること」だ。先ほど私は人をカテゴリーで捉えることの無意味さについて書いたが、自らをカテゴリーで捉える視点からの脱却も必要だ。かつて私自身、「女性だから」「歳だから」「結婚してるから」で自分を捉え、そのカテゴリーの「相場」から自立は無理だと思い込んでいたが、振り返ればそれはただ覚悟の問題だった。自分の人生を生きる覚悟があるかないかで、目の前に広がる選択肢は大きく変わる。

「飼われる立場」「庇護される立場」には心地いい面もある。しかし田嶋氏は「養われている限り尊敬は得られない」と説く。ここで思い出したいのが冒頭に挙げたフロムによる愛の説明だ。尊重(respect、尊敬)とは愛の一要素である。「愛」の名のもとにできた関係の内実に、愛の要素が存在しないとは、なんと皮肉なことだろう。

初版から30年後の今もなお色あせない残念さ

この本が初めて出版されたのは1992年、実に30年前のことである。その13年後、2005年に改めて新潮社から出版された際のあとがきは、次の言葉で締めくくられている。

そして十年後にこの本を読んだ人が、「そうか、十年前はみんなまだいろいろ縛られていたんだ。それに比べたらいまは、女性も住みやすいいい社会になった!」と言えるようになっていたらいいなと思う。

10年後どころか17年後の現在、本書の内容はまったく古さを感じさせない。その理由を裏づけるデータがある。内閣府男女共同参画局によると、G7各国のジェンダーギャップは大きく改善しているが、日本だけがほぼ横ばいなのだ。2006年にほぼ同位置にいたイタリアも、日本のはるか先を行ってしまった。

内閣府男女共同参画局 「共同参画」2021年5月号より

日本におけるジェンダーギャップの解消は亀のごときスピードだ。今後も女性がその差別構造に安住している以上、その改善は大きく見込めないだろう。田嶋氏は30年も前にこの本で警鐘を鳴らしてくれていたのに、大人になった私はあっさりと田嶋氏が危惧する道へと進んでいった。せめて15年前に読んでいたら…と思わなくはないが、人生の経験を積んだ今だからこそここまで刺さることを考えると、結局は個人が自分の人生を真剣に生きて、その途中で気づいていくしかないのだろう。


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