第5章 武家社会の成長❶
1.室町幕府の成立
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉中期以後、皇室は後深草上皇の流れの持明院統と亀山天皇の流れの大覚寺統に分かれて、皇位や院政 を行う権利、あるいは皇室領荘園の相続を巡って争い、ともに鎌倉幕府に運動して有利な地位を得ようとした。そこで14世紀初め、幕府は解決策として両統が交代で皇位につく方式(両統迭立)を定め、調停を行いつつ事実上は朝廷の政治を左右した。
このような中で大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、宋学の大義名分論を学んで政治の刷新を企てる、院政を排して天皇親政を進めるなど意欲的な政治を行った。当時、幕府の執権北条高時の下では内管領長崎高資が政治を欲しいままにし、得宗の専制政治に対する御家人の反発が次第に高まる一方、畿内近国の悪党の動きも依然活発であった。この情勢をみた天皇は討幕の計画を進めたが、1324 (正中元)年幕府側に漏れて失敗した(正中の変)。その後もなお天皇は討幕の意志を捨てず、1331 (元弘元) 年挙兵をく企てるが失敗し(元弘の変)、持明院統の光厳天皇が幕府に押されて即位し、後醍醐天皇は翌年隠岐に流された。
しかし、後醍醐天皇の皇子護良親王や楠木正成らは、畿内の新興武士などの反幕勢力を結集して蜂起し、幕府軍とねばり強く戦った。 やがて天皇も隠岐を脱出し、天皇のよびかけに応じて討幕に立ち上がるものも次第に多くなった。幕府軍の指揮官として畿内に派遣された有力御家人足利高氏(のち尊氏)も、このような 状況をみて幕府に背き、六波羅探題を攻め破った。また関東で挙兵した新田義貞も鎌倉を攻め落とし、北条高時以下を滅ぼした。ここに1333 (元弘3)年鎌倉幕府は滅亡した。
後醍醐天皇はただちに京都に帰り、あたらしい政治を建武の新政を始めた。翌年、年号を建武と改めたので、天皇のこの政治を建武の新政❶という。
その目標は、幕府も院政も摂政・関白も否定して、天皇親政の理想を実現することであった❷。
しかし現実には鎌倉幕府の遺産を無視することができず、中央には最高機関としての記録所と並んで幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所などを設置し、諸国には国司と守護を併置した。また奥羽・関東地方を治めるために、それぞれ陸奥将軍府· 鎌倉将軍府を置いて、天皇の皇子を派遣したが、その実体はむしろ小幕府というにふさわしいほど旧幕府系の武士を重用したものであった。
一方、天皇は新政のはじめに、すべての土地所有権の確認は天皇の綸旨を必要とするという趣旨の法令を打ち出しました。これら天皇中心の新政策は、それまで武士の社会につくられていた慣習❸を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こしました。
また、にわかづくりの政治機構と内部の複雑な人間的対立は、政務の停滞や社会の混乱を招いた。
このような形勢をみて、ひそかに幕府の再建を目指していた足利尊氏は、北条高時の子時行が反乱をおこし、鎌倉を占領した (中先代の乱) のを機会に、その討伐のため関東にくだり、新政権に反旗をひるがえした。
南北朝の動乱
1336(建武3)年、京都を制圧した足利尊氏は、持明院統の光明天皇をたて、幕府を開く目的の下に、当面の政治方針を明らかにした建武式目❹を発表した。
このようにして建武の新政は、わずか3年たらずで崩壊した。
後醍醐天皇は京都をのがれ、吉野の山中に立て籠って、正統の皇位にあることを主張した。ここに吉野の南朝と京都の北朝が対立して、以後約60年にわたる全国的な動乱がはじまった。
南朝側では動乱の初期に楠木正成・新田義貞が戦死するなど形勢は不利であったが、北畠親房らが中心となり、東北・関東・九州などに拠点を築いて抗戦を続けた。北朝側では1338 (暦応元)年に尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、弟の直義と政務を分担して政治をとった。
しかし漸進派の直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とするより急進的な勢力との対立がやがて激しくなり、ついに1350 (観応元) 年に両派は武力で対決をはじめ、 各地で争乱に突入した (観応の擾乱)。直義がやぶれて死んだのちも抗争は続き、尊氏派、もとの直義派、南朝勢力の三者が十年余も離合集散を繰り返した。
このように動乱が長引き、全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期ごろから始まっていた大きな社会的変化が横たわっていた。
武士社会の相続法も、そのころから段々と単独相続に変化していくようになり、惣領制は崩れ始めていた。それまで分立していた本家と分家の関係も相互に独立したものに代わり、それぞれの家の中では嫡子が全部の所領を相続して、 庶子は嫡子に従属するようになる。こうした変化は各地の武士団の内部に分裂と対立を引き起こし、一方が北朝につけば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。この変化は血縁的結合を主とした地方武士団が、地縁的結合を重視するようになっていくことでもあった。同時に武士の支配に抵抗する、農村の共同体の形成も進んでいった。
室町幕府
長い間続いた南北朝の動乱も、尊氏の孫足利義満が将 軍になるころにはしだいにおさまり❺、幕府はようやく安定のときを迎えた。
義満は1392 (明徳3)年、南朝側と交渉して南北朝の合体を実現し❻、内乱に終止符を打つことに成功した。
それだけでなく、義満は全国の商工業の中心であり、政権の所在地であった京都の市政権❼、諸国に賦課する段銭の徴収権など、朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下に置き、全国的な統一政権としての幕府を確立した。
義満はすでに 1378(永和4)年、京都の室町に壮麗な邸宅 (花の御所)をつくり、ここで政治を行ったので、この幕府を室町幕府と呼ぶようになった。
義満は将軍として初めて太政大臣にのぼり、出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるったので、将軍の権威は著しく高まった❽。
幕府の機構もこの時代にはほぼ整った。管領は将軍を補佐する中心的な職で、待所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に対する将軍の命令を伝達した。管領には足利氏一門の有力守護の細川・ 斯波・畠山(三管領)が交代で任命された。京都内外の警備や刑事裁判を司る待所の長官(所)も、赤松・一色・山名・京極の4氏(四職)から任命されるのが慣例であった。これらの有力守護はもっぱら在京して幕府の中枢を占め、重要政務を決定し、幕政の運営に当たった。また一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則であった。
また幕府は、将軍権力を支える軍事力の育成に努め、古くからの足利氏の家臣、守護の一族、有力な地方武士などを集めて奉公衆と呼ばれる直轄軍を編成した。奉公衆は普段京都で将軍の護衛にあたるとともに、諸国に散在する将軍の直轄領である御料所の管理をゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を果たした。
このように幕府の体制をかためることに成功した義満は、動乱の中、強大化した守護の統制を図り、土岐氏・山名氏・大内氏などの有力者を次々に攻め滅ぼして、その勢力削減につとめた❾。
幕府の財政は、御料所からの収入、守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などで賄われた。その他、京都で高利貸を営む土倉や酒屋に倉役・酒屋役を課し、交通の要所に関所をもうけて関銭・津料を徴収した。また、幕府の保護下で広く金融活動を行っていた京都五山の禅院にも課税した。更に日明貿易による利益なども幕府の財源となった。また朝廷の造営など国家的行事の際には、守護をとおして全国的に段銭や 臨時に棟別銭を賦課することもあった。
幕府の地方機関としては、鎌倉府や九州探題などがあった。尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東を特に重視し、その子基氏を鎌倉公方として鎌倉府をひらかせ、東国の支配をまかせた①⓪。
以後、鎌倉公方 は基氏の子孫が受け継ぎ、鎌倉公方を補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。鎌倉府の組織は幕府とほほぼ同じで、権限も大きかったため、やがて京都の幕府としばしば衝突するようになっ た。
守護大名と国人一揆
動乱の中で地方武士の力が増大してくると、これらの武士を各国ごとに統轄する守護が、幕府体制のなかで大きな役割をになうようになった。
幕府は、最初から地方支配の要である守護の配置に心を配り、 京都を中心とする近畿地方とその周辺諸国の守護を足利氏一門でかため、この地域での一門以外の守護は、赤松氏・土岐氏など数氏にすぎなかった。 また、幕府は地方武士を組織化するために、守護の権限を大幅に拡大した①①。
特に半済令①②は、軍費調達のために守護に一国内の荘園や公領の年資の半分を徴発する権限を認めたもので、その効果は大きかった。
守護は、これらの権限を利用して国内の荘園や公領を侵略し、これを武士達に分け与え、彼らを統制下に繰り入れていった。荘園領主がその荘園公領の年貢の徴収を守護に請け負わせる守護請も盛んに行われた。 こくが は同時に、それぞれの国の国衙の機能をも吸収して、一国全体におよぶ地域的支配権を確立していった。鎌倉幕府体制下の守護と区別して、この時代の守護を守護大名とよび、守護大名のつくりあげた支配体制を守護領国制とよぶ。
守護大名の領国支配の権限は、基本的には幕府から与えられたものであった。また当時国人とよばれた地頭などの領主である地方土着の武士には、なお自立の気風が強く、守護大名が彼らを家臣化していくのには多く の困難があった。守護大名の力が弱い地域では、しばしば国人たちは自主的に相互間の紛争を解決したり、力をつけてきた農民を支配するために契約を結び、地域的な一揆を結成した。これを国人一揆という①③。
この国人一揆には、参加者のまもるべき規約を作成し、参加者がみな平等であるこ と、決定は多数決で行われることをしるしたものが多くみられる。このよ うな国人たちは、一致団結することで自主的な地域権力をつくりあげ、守護大名の上からの力による支配にもしばしば抵抗したのである。
東アジアとの交易
南北朝の動乱に続いて、室町幕府がその権力を確立 していく14世紀後半から15世紀にかけて、日本だけ でなく東アジア世界の情勢も大きくかわり、そこからあたらしい国際関係が形成された。
倭寇とよばれた日本人を中心とする海賊集団が、 中国大陸の沿岸で猛威を奮っていた。 倭寇の主要の主要な根拠地は、対馬・壱岐・肥前松浦地方などで、その規模は、船2~3隻の貧弱なものから、数百隻に及ぶ組織化されたものまであった。倭寇は、朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり、米や大豆などの食料を奪うなど略奪を欲しいままにした。倭寇の侵略に悩まされた高麗は、日本に使者をおくって倭寇の禁止を求めたが、日本が内乱のさなかであったため成功しなかった。
中国では、1368年朱元璋(太祖洪武帝) が元の支配を排して、漢民族の王朝である明を建国した。元寇の後も元と日本とのあいだに正式な外交関係はなく、私的な商船の往来があるにすぎなかったが①④、明は伝統的な 中国を中心とする国際秩序の回復をめざし、明との通交を近隣の諸国に呼びかけた。
日本にも、通交と中国沿岸で活動している倭寇の禁止を求めてきた。国内の統一を完成した義満は積極的にこれに応じ、1401 (応永8)年、明に使者を派遣して国交をひらいた①⑤。
しかし、このような明を中心とする国際秩序の中で行われた日明貿易は、日本国王が明の皇帝へ朝貢し、それに対する返礼という従属の形式①⑥(朝貢貿易) をとらなければならなかった。
遣明船は、明から交付された勘合とよばれる証票を持参することを義務づけられた。この勘合貿易は、1404 (応永11)年から始まったが、4代将軍義持が朝貢形式に反対して一時中断し、1432(永享4)年、6代将軍義教のときに再開された。この朝貢形式の貿易は、滞在費・運搬費などすべて明側が負担したから、日本側の利益は大きかった。特に大量にもたらされた銅銭は、やがて日本の貨幣流通に大きな影響を与えた①⑦。
15世紀後半、幕府の衰退とともに、貿易の実権は、次第に堺商人と結んだ細川氏や博多商人と結んだ大内氏の手に移った。そして細川氏と大内氏の両者は激しく争って、1523 (天永3)年には寧波で衝突を引き起こした(寧波の乱)。
結局は、大内氏が競争に勝って貿易を独占したが、16世紀半ば大内氏の滅亡とともに勘合貿易も断絶した。これとともにふたたび倭寇の活動が活発となり①⑧、豊臣秀吉による禁止まで続いた。
朝鮮半島では、1392年、倭寇を撃退して名声をあげた武将の李成桂が高麗を倒し、李氏朝鮮をたてた。朝鮮もまた通交と倭寇の禁止を日本に求め、義満もこれに応じたので両国のあいだに国交がひらかれた。日朝貿易は、明との貿易と違って、初めから幕府だけでなく守護大名・豪族・ 商人なども参加して盛んに行われたので、朝鮮側は、対馬の宗氏をとお して通交についての制度を定め、貿易を統制した。
そののち、日朝貿易は応永の外寇①⑨のによって一時中断したが、16世紀まで非常に活発に行われた②⓪。
朝鮮からの主な輸入品は織物類で、特に木綿は、当時日本では生産されていなかったので国内の需要が多く、大量に輸入され、衣料など人々の生活様式に大きな影響を与えた②①。
しかし、この日朝貿易も、1510 (永定7)年に三浦の乱②②が起こってから次第に衰えていった。
琉球と蝦夷ヶ島
沖縄では、このころ北山・中山・南山の3地方勢力 (三山)が成立して争っていたが、1429 (家寧元)年、中山王の尚巴志が三山を統一し、琉球王国をつくりあげた。琉球は明や日本などと国交を結ぶとともに海外貿易を盛んに行った。琉球船は、明・日本・朝鮮だけでなく、南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島などにまでその行動範囲を広げ、東南アジア諸国間の中継貿易に活躍したので、那覇は東アジアにおける重要な交易市場となり琉球王国は繁栄した。
一方、すでに14世紀には畿内と津軽の十三湊とを結ぶ日本海交易が盛んに行われ、サケ・コンプなど北海の産物が京都にもたらされた。やがて南から津軽海峡を渡った人びとは、蝦夷ヶ島とよばれた北海道の南部に進出し、各地の海岸に港や館②③のを中心にした居住地をつくっ した。
彼らは和人と言われ、津軽の豪族安藤氏の支配下に属して勢力を拡大した。
古くから北海道に住み、薫り・狩りや交易を生業としていたアイヌは和人と交易を行った。和人の進出はしだいにアイヌを圧迫したアイヌはやがて1457 (元)年、大首長コシャマインを中心に蜂起し、和人居住地はほとんどせめ落とされた。わずかに上之国の領主蠣崎氏のみが持ち堪え、それ以後、蠣崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には松前氏と名のって蝦夷地を支配する大名となった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?