本当の自分は誰だ
今日は“自分”について。
90記事達成したので、もう少ししたら自己紹介的な記事を書いてもいいかなと思う今日この頃です(誰が読みたいのか)それにしても今日の今日までよく生きてこれたな。自分を褒めてそのあと抱きしめてあげたい。noteも継続してよく書けているし。
さて。
今回は“自分”とは一体何だろうというお話しです。
自分の中には“色んな自分”がいます。
例えば、仕事をしている時の自分、家で生活をしている時の自分、子どもと遊んでいる時の自分、誰かと会う時の自分、音楽をしている時の自分、noteを書いている時の自分。
実にさまざまなスタイルの自分がいます。
僕のライフスタイルの中にはいろんなコミュニティがある。コミュニティにおいての自分の役割や顔やコミュニケーション。コミュニティでの“人との関わり方”がいくつも存在していると思う。
当然、どの自分も全部本当の自分なのですが、一体自分ってなんなのでしょう?自分がいる、ここに存在していることって不思議です。「自分の姿は自分では見ることができない」ということにも関係しているかも。
自分の姿を自分で見ることができないのも不思議。
こちらも合わせてどうぞ。
【自分の姿は自分では見えない】
自分は存在しない
仏教においては“自分”とは存在せず、心のさまざまな働き(感情や思考etc...)が集まってできた“意識”に過ぎないという教えがある。
つまり意識や感情、思考などの集合体が自分だ。よってこの考え方から「他人がいて初めて自分が存在する」といえる。
他人とのコミュニケーションによって自分の存在が証明される。他人が見ている自分が自分だ。他人がいて自分がいる。「そして君たちがいて僕がいる」
チャーリー浜師匠の往年のギャグだが、よく考えると哲学的で深い言葉だ。
仏教的な観点から見れば、実際そうだなと思うところがいくつもある。“自分を探す旅”という言葉がある。自分を探してしまうと、結局都合のいい自分を作り上げるだけだ。
そもそも自分なんてない
どうやら僕たちは「自分がある」と勝手に思い込んでしまっている。「自分がある」という固定観念が僕らを苦しめているようだ。
苦悩や煩悩が生まれるのは自分があるからだ。
僕らは苦しみの感情を勝手に選んで、悩みや心配を勝手作り出しているということだ。自分とは実際に脳が作り出した幻想に過ぎない。ファンタジーだ。
冒頭で挙げたいろんなライフスタイルを持っている自分(僕)がいる。自分は一貫とした自分である必要はなくて、人は当然のように変わっていくものだ。
逆に言えば、変わっていくのが生き物であるのに固定的な一つの“自分”があると思い込んでいるからさらにしんどいのである。
人生って長いんだからブレて当然だし、やりたいことがなくて当然。
「自分って一体何者なんだろう」そう思った瞬間に「いやいや、自分なんてそもそもないから」と自分に対しツッコミを入れる。
「自分らしく生きたい」そんなワガママなこだわりを見せた瞬間に「いやいや、こだわりなんてない。そもそも自分なんてないんだから」
道に迷いそうになった時は自分にこう突っ込んであげてください。自分は他ならぬ「突っ込み待ち」をしている状態なのです。
自分なんて存在しないから安心してください。
最後まで読んでくださりありがとうございました。また更新します。
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