聞いてくれ、私の夢は
さっきキッチンでお米を研ぎながら、ぼろぼろ泣いていた。
気づいたらお米の研ぎ汁は、ほとんど透明になっていた。
泣きながらごはんを食べたことがある人は、泣きながらお風呂に入ったことがある人は、生きていけると聞いたことがある。
私は、泣きながらお米を研いだことがある人も、生きていけると思う。
最後の早稲田祭
早稲田祭2024が、私の最後の早稲田祭が、終わった。
終わったあと朝までみんなと一緒にいて、帰ってきて2時間だけ仮眠をとって、有明アリーナまでバレーボールの試合を観に行って、11時間溶けるようにして眠った。
11時間というところが、まもなく23歳になろうとしていることを実感させにくる。
起きたら半日は経っているかと思って眠りについたけれど、そんなに世の中甘くなかった。
卒論の中間発表があさってに控えており、そろそろ本腰を入れなくてはまずいことは知りつつ、その前に私は早稲田祭にけじめをつけなくてはならない。
そのために、今この文章を書いている。
齢22にして人生初の徹夜、その徹夜明けに高田馬場の駅前ロータリーで仲間へ伝えたことは本心だったけれど、私はやっぱり文章を書くことでいちばん自分の気持ちに素直になれる。
だから、たぶん長くなってしまうけれど、最後までこの文章を読んでくれたら嬉しい。
早稲田祭との出会い
2020年4月、コロナ禍真っ只中、早稲田大学に入学した。
18歳だった。
志がないわけではなかったけれど、気づいたら早稲田にいた。
入学当初はただひたすら学業に真面目で、GPAも3.70でほとんどの授業の評価がA+、サークル活動のために「授業を切る」という概念すら、ほとんど知らないも同然だった。
2020年9月、ひょんななりゆきから、漣(さざなみ)という創設2年目の書道パフォーマンスサークルに入った。
ひとりで向き合い、完成形を見せるものでしかなかった書道が、仲間とみんなで向き合い、完成させるまでの過程でも魅せるものになった。
創設2年目でまだ人数が少なかった関係で、1年生から早稲田祭にがっつり出させてもらった。
早稲田祭2020は完全オンラインだったけれど、初めての早稲田祭だったし、コロナ禍で多くのことが制限されることに感覚が麻痺していて、そういうもんかと思っていた。
練習も準備も大変だったけれど、先輩や同期にも恵まれて、これ以上ない早稲田祭との出会いを果たした。
「早稲田」との出会い、男祭りとの出会い
2020年11月、楽しそうだな〜というポップな気持ちから、『そして紺碧の空へ ダンスver』のMV撮影に参加した。
今の4年生以下の世代は知らない人も多いかもしれない。
みんなのサークルの大先輩たちが映っていると思うよ。
早稲田の様々なパフォーマンスサークルや、部活などのメンバーが集まって、プロの作った曲で、プロの作った振り付けで、一緒に踊った。
撮影当日、なぜか私は「コロナ禍で奮闘する大学1年生」として日テレの密着取材を受けながら、知らない先輩ばかりの中で人生最上級におろおろしていた。
そんな私に、撮影前一緒に振り付けを確認しよう、と輪に加えてくれたり、撮影中気さくに話しかけてくれたりした先輩方には、感謝してもしきれない。
このMV撮影で、早稲田を愛し、早稲田に生きてきた多くの先輩方と出会った。
この日、2020年11月18日が、私の早稲田生活最大の転換点になったことには、のちのち気づくことになる。
出会った先輩方のうちの1人に、男祭り2019の代表を務めていた方がいらして、私はそこで初めて男祭りの存在を知った。
その後自分が、最後の早稲田祭を男祭りに捧げるとも知らずに。
男祭り2021加入
2021年1月、副代表に誘われて、男祭り2021の前身となる、新歓企画「春叫び」の運営に加入した。
どうして私を誘ってくれたのかは、未だに判然としないけれど、私の何かをすごく気に入って仲間になってほしいと言ってくれたことが嬉しくて、そして代表陣3人の先輩方となら絶対いいものが作れると思って、加入を決めた。
まだ1年生で、その先の大学生活のことなんて、何も設計はなかった。
「春叫び」が終わって、早稲田祭に向けた男祭り2021にもクルーとして正式に携わりたいと、自分から申し出た。
これが、私と男祭りの物語の始まりだ。
早稲田祭2021、そして
早稲田祭2021に向けて動き出して、漣と男祭りの二足の草鞋を履く日々が始まった。
考えることが多すぎて、やることが多すぎて、何度もパンクしそうになりながら、それでも頑張ればなんとかなった。
そうやって頑張り続ければ、最後までなんとかなると、思っていた。
2021年9月24日、一生忘れもしないあの日、体と心からあらゆる活力が抜け落ちていることに気づいた。
突然誰からのLINEも返せなくなり、電話にも出られなくなり、家の外に出られなくなった。
昨日まで当たり前にしていたことが、ぷつんと糸が切れたように、全部全部できなくなっていた。
適応障害だった。
それからの日々は、間違いなく私の人生でいちばんのどん底だった。
いくら眠っても体調が優れず、毎日希死念慮と闘いながら泣いていた。
まさか私が、なんで私が、といつもいつも考えていた。
当然、早稲田に戻ることも、卒業することも、再び男祭りに関わることも、全部ないと信じて疑わなかった。
早稲田祭2021は、見ようか見まいか直前まで迷って、結局オンライン配信を見た。
漣のみんなが輝いていた。
私もみんなと一緒に、あの舞台に立っているはずだったのに、という思いで頭がぐちゃぐちゃになった。
男祭りのステージのエンドロールで私の名前が流れた瞬間、絶望した。
ひどい不義理をして、最後まで関わることができなかった私の名前が、さも当たり前かのようにビジョンを流れてゆく。
あのときの気持ちに名前を付けるのなら、紛うことなく「絶望」だ。
休養生活、短歌との出会い
2022年度の1年間、大学を休学して、休養していた。
ゆっくりと回復してきたかと思えば、また一気に悪化する体と心が恨めしかった。
どん底だったけれど、信頼できる主治医とカウンセラーさんがいたこと、そして家族が支えてくれたことが救いだった。
休養中、体にも心にも元気はなかったけれど、生きるのに最低限必要な事柄以外に、唯一できたのが読書だった。
食事をのぞく起きている時間はすべて、ベッドに横になって本を読んで過ごした。
休学中の1年間で読破した冊数は、300を優に超える。
その300を超える本たちの中の、とある1冊が、私を短歌に出会わせてくれた。
短歌を読むだけではなく、短歌を自分で作る、詠むことも始めた。
短歌は、1受け取ったら100考えてしまう、幼い頃からあまりに感受性が豊かだった私にとって、これ以上ない表現のかたちだった。
短歌に出会えたから、今となっては休養生活の1年間も必要な時間、あってよかった時間だと思えるようになった。
早稲田祭2022
休養中だった、2022年の早稲田祭は、漣で3年生としての引退の場だった。
大好きな同期のみんなと一緒にステージに立って、引退したかった。
でも、途中で全てを放り出していなくなって、みんなに迷惑も心配もたくさん掛けた私に、その資格はなかった。
当たり前だ。
それでも仲間たちは、なんとか私が引退ステージに参加できるように、必死に考えて提案をしてくれたのだ。
ステージで掲げる、「早稲田祭2022START」の巻物を、書いてくれないか、と。
そうして、私が書いた文字を、早稲田祭2022の10号館前ステージで仲間が掲げてくれた。
早稲田祭2023
2023年4月に復学をして、早稲田に戻った。
年下に混ざって受ける授業は、気まずさも大きかったけれど、新しい友だちがたくさんできた。
早稲田祭2023は、純粋な観客として見ていた。
漣のステージを見て、後輩の引退ステージを見て、私はここにはもう戻れない、という当然の事実を突きつけられた。
漣でやり切れなかったことを果たす場所は、もうどこにもない。
男祭りのステージを見て、終わったあとに男祭り2021の仲間と会って、確信した。
私にはもう、男祭りしかないんだ。
早稲田に入って、「早稲田」と出会って、大好きになった早稲田祭。
早稲田祭の借りは早稲田祭で返す。
その場所は、男祭りしかない。
そうはっきりと認識した、早稲田祭2023だった。
男祭り2024加入
2024年7月19日、男祭り2024にクルーとして入った。
あんなに、最後の早稲田祭は男祭りと決めていたのに、応募するかしないか、最後まで迷った。
理由は簡単で、男祭り2024が最高のものになるのに、私が邪魔だと思ったから。
私は大学5年目で、男祭り2021でも1度クルーをやっていて、そういう存在が加入することで、今いるメンバーや他に新しく入るメンバーがのびのびとやれなくなるんじゃないかって、すごく不安だった。
最終的には、それが私自身にとって男祭りをやらない理由にはならないと思って、応募した。
男祭りに、再び関わることになった。
男祭り2024での日々
まずは単純に、みんなと距離を縮めるのがすごくすごく難しかった。
元来信じられないくらいのおしゃべり好きの私は、とにかく話すことでみんなと仲良くなろうと思って、自分から話しかけまくっていた。
それでもって、たぶん空回りしていた……。
でもそれも含めて自分だと思って、みんなに自分から話しかけることは、ずっと続けていた。
みんな本当は鬱陶しかったのに言えなかったよね、ごめん。
私なりのみんなと仲良くなりたいという意思表示でした。
それからタスク面では、誰でもできて、でもみんながあまりやりたがらないことを、誰よりも積極的に、丁寧に、愚直にこなすように心がけた。
ショカステのときは開演までのあいだ客席で旗を縫ったり、ハロウィンパーティーのときは足りなくなったワサビを買いに猛ダッシュしたり、本番当日はみんなの朝ごはんを用意したり、カバンに大量ののど飴とティッシュを常備して演者がいつでも使えるようにしたり。
これらは全部、私がやらなくたって誰かがやっただろうし、最悪だれもやらなくても、なんとかはなったことだと思う。
それでも、私はこういった誰にでもできることを愚直にこなした。
それが、男祭り2024での自分の存在価値だと信じていた。
最後のほうはみんなに完全にばれていたけれど、本当はすごくポンコツでうっかりさんな私は、みんなのお母さん的存在という仮面を被って、なんとか自分を保っていた。
早稲田祭2024
最後の早稲田祭は、冗談抜きで気づいたら終わっていた。
ひとつひとつの出来事やそのときの気持ちは詳細に記憶しているのに、その全部が一瞬にして終わってしまった。
まだ映像では見られていないけれど、ステージ本番は最高だった。
みんなの夢叫びで泣いたのはもちろんのこと、どこまで続いているかわからないくらい満員の観覧エリアを目の当たりにした瞬間も泣いたし、神輿が登場したときも、全然しんみりする場面なんかじゃないのに泣いた。
一緒にステージを創った男祭り2024の仲間はもちろんのこと、お世話になった放研さん運スタさん、そして見に足を運んでくださった皆様、配信でご覧いただいた皆様、全員に心からの感謝を申し上げます。
そして、どん底だった3年前には想像することすらできなかった、仲間と共に最後の早稲田祭をやり切るという未来を掴み取った私自身へも、ありがとう。
自分に素直になる
高校時代の恩師がくれた、忘れられない言葉がある。
人間は、他者との関係性のなかで生きている。
だから、自分探しをするときは自分の内側、内側、内側へと向かっていってはいけない。
自分の外側、他者との関係性を見つめることで、自ずと自分が見えてくる。
夢と向き合う仲間の姿を見ていて、自然と私も夢と向き合う時間が増えた。
夢と向き合うことは、自分に素直になることから始まるのだと思う。
夢はあるようでないような、そういったふんわりしたものだった以前から一変、みんなと一緒にいる時間が私を素直にさせてくれた。
この文章も、本名名義で知り合いだけに公開しようと、最初は思っていた。
でも、この文章こそが、私の夢のリスタート地点だ。
だから、この文章の最後には、「弓吉えり」として、私の夢を綴る。
私の夢
聞いてくれ。
私の夢は、読者のビタミンになる言葉を紡ぐことだ。
私は、短歌とエッセイを書いている。
人生のどん底で、私を救ってくれたのは、本に書いてある言葉だった。
言葉は、私のビタミンだ。
エンジンとか燃料ではないから、なくても最悪生きてはいける。
でも、ビタミンがあったら、人生が、毎日の生活が、もっと豊かになる。
幸せになる。
そんな、ビタミンみたいな言葉を、私は紡ぎたい。
そのために、私は、これからもたくさんの人たちと関わり続ける。
私は人が好きで、周りの人たちの存在が、関係性が、原動力となって私は言葉を紡いでいる。
今ある人との繋がりを大切にしながら、これからもっともっとたくさんの人と出会って、関わって、生まれた感情を言葉にして紡ぎ続ける。
いつか私を救ってくれた言葉たちのように、今度は私が、読者のビタミンになる言葉を紡ぐ。
歌集もエッセイ集も、絶対に商業出版するからな。
私の本が書店に並ぶ日が来たら、絶対に買ってくれ。
以上、押忍!
言葉とはビタミンだからお前らの夢を包んで世界に届け/弓吉えり