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刺さる

 困った。とげが抜けない。


 それは突然現れた。ちょうど、スマホを手に取ったときだったと思う。右手親指の腹に、ピリッとした痛みが走った。見ると、小さくて真っ黒なものが顔を覗かせている。あー、棘だ。つい無意識に、人差し指の爪で引っ掻く。痛い。めちゃくちゃ痛い。感覚の全てがその一点に集中しているかのようだ。どうして人間は自分の体の痛いところに触れたがるのだろう。本当に愚かな生き物だ。
 何はともあれ、棘なら抜いてしまえばいい。痛いのは御免だ。左手の親指と人差し指で、何度か先端をつまむことを試みた。そのうち、人差し指を中指に替えてみた。薬指も使った。しかし一向に手応えがない。全然抜けない。もしかしたら、時間が経てば自然と抜けるパターンかもしれない。痛いのは嫌だが、面倒ごとも同じくらい嫌だ。だから気にしないことにした。これが悪夢の始まりだった。


 この棘はとにかくポジションが最悪だった。親指の腹、中心よりも少し手の内側。それも利き手だ。箸でも、ボールペンでも、とにかく何かをつまむ動作には必ず痛みがついて回る。その他、歯ブラシやドアノブ、iPadのホームボタンなんかも痛い。そして、やはり人差し指で引っ掻いてしまう。棘を気にしないことなんて、到底出来るはずがなかった。私の日常はすっかりこの小さな棘に支配されていた。


 我慢が限界に達したのは、電子レンジのつまみを回そうとしたときだった。あまりの痛みに、私はもう二度と電子レンジを使えないのではないかと思った。昼飯の弁当を温めるためにも、一刻も早く棘を引き抜かなければならなかった。しかし棘のことで頭が一杯だなんて、恥ずかしくて誰にも相談できやしない。そこで「棘 抜き方」と検索した。すると「5円玉を使い、力を加えて押し出すといい」との情報を得た。警視庁のサイトが言うのだから、きっと間違いないだろう。幸運にも5円玉が手元にあった。勝った。硬貨の穴を棘の周囲に合わせて、ぐっと指の腹に押し付ける。しかし棘が出てくる様子はなかった。


 ここで私は気がついた。棘は刺さっているのではない。埋まっているのだ、と。


 引っ掻きすぎたせいかもしれない。放置したせいかもしれない。いつの間にか、棘の先端までもが皮膚に埋まっていた。これでは、もはや押し出すことも引き抜くことも出来そうにない。私にはもう、なす術がなかった。不安が押し寄せる。この小さな棘と、鋭い痛みと、これからずっと付き合って生活することになるのだろうか。
 テーブルの上には、スマホと5円玉、手付かずの唐揚げ弁当が並んでいた。すると、今度は笑いが込み上げてきた。空腹も忘れ、ただひたすら親指に硬貨を押し付けている自分。こんなに小さな棘に日々振り回されている自分。痛みを感じられて、なぜか心の奥底で少しホッとしている自分。可笑しくて仕方なかった。本当に愚かな生き物だ。


 そこへ、インターホンが鳴った。
「はーい」
 右手の親指が、勢いよくボタンに触れた——。

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