忘れゆく記憶を手繰り寄せて
わたしは忘れっぽい。午前中のことさえ、昨日のことのように感じる。そして、何をしたのか、すぐに思い出すことができない。
完全に忘れてしまうわけではないから、まだ生活に支障はない。忘れて困ることはメモすればいいし、それを確認はできる。
この先の予定も、過去にあったことも、どんどん忘れていく。そんな感覚がある。
しかし、忘れたくない記憶もある。そういった記憶は反芻して、忘れないようにしているのだけど、それは記憶を上書きすることでもある。
だから、正確なところは覚えていないのだ。それでも、不意に声を思い出したり、夢に出てきたりする。
わたしのために尽力してくれた人たちがいることも忘れたくはないが、大病したときのことも忘れつつある。
両親との思い出は、もうほとんど残っていない。幼稚園の記憶はもう無いも同然で、小学生や中学生の記憶も断片的だ。両親は優しいときもあっただろうが、もうそういうときの記憶はない。
時系列に思い出すことは困難を極める。断片的にしか記憶が残らない。どの記憶が最近のものか、何年前のものか、よく分からない。
いつから、こういう状態だったのかも知らない。
noteに書いたことも読み返さないと思い出せない。自分が思ったことや考えたことを書いているのに分からなくなる。これもメモのひとつなのかもしれない。
しかし、自分が愛した人たちさえ忘れていくのは寂しい。
(正確には「愛」と呼ぶことは違うと思うけれど、当時はそう思っていた)
10何年経っても反芻し続ける記憶や、離れた方がいいと思って別れた人との日々。
わたしにボロボロの本をくれたこと、素敵な作家や音楽を教えてくれたこと、わたしの生きる道を変えたこと。
そんな記憶たちを自分の頭の中から手繰り寄せて、また見詰める。そんな作業をずっとしている。
何より、パートナーとのことを忘れてしまうのは辛い。忘れないように気付いたらすぐに「ありがとう」「好き」と言葉にするようにしている。
わたしが寝ている間に洗濯されていたり、洗い物がされていても分からないこともあるだろうから、洗濯中に、洗い物中に、食事を作る時に「ありがとう」と言う。
思いついたら「好き」と言う。
午前中に言った「好き」を忘れても、好きであることに変わりはない。そこは忘れない。
そう忘れていないのだ。
書いていて分かった。わたしはまだ、たくさんの人のことが好きだ。
それが忘れられないから記憶を反芻する。思い出そうとする。忘れないようにしたい。
あなたたちがいるから、いたから、わたしは自分の記憶を手繰り寄せる。
忘れたくなくて、繰り返し思い出す。
目の前にいても数時間経てばどこかにいってしまう記憶を留めたい。「愛している」と言ってくれたことを忘れたくない。
それだけ握りしめていることができれば、何とかなる。そんな気がする。
今日も反芻する。隣から聞こえる寝息を、愛していることを。
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