日常の「フェイク」をあぶり出す
政治学者・岡田憲治さんの新著「半径5メートルのフェイク論」が、先月(2024年7月)に発売された。
「不登校の責任論」「戦争と平和」「変えられるのは未来と自分だけ」など、正論のようにまかり通っている言葉が、フェイクとして並ぶ。目次を見た瞬間に「何コレ、おもろそう。読む!」と決めた。
ふと耳にするニュースに対し、こんな感情を抱いたことはないだろうか。
私はしょっちゅう、この「なんかおかしい」モヤモヤを抱いていた。この本には、モヤモヤの要因たる巧妙なフェイクと、政治学者から見た事実がズバリ書かれていた。
読み進めるうちに、「だまされへんで!」と思いながらも、まんまとフェイクにハマっていた自分に気付く。
ああ、なんてこったい。でも、気付けたからよしとしよう。
不登校の子どもにも、親にも問題はない
何度も「あー!なるほどね」と声がもれた本書。経験に照らし合わせてみて「そうそう!」と納得したのは、「フェイク7」。
んなワケあるかーい!と、ちゃぶ台をひっくり返したくなるこのフェイク。結構、学校現場ではまかり通っていた。
繊細だから、感受性が強いから、打たれ弱いから。
でもね。それって悪いこと?
心のやさしい人が生きづらい世の中ってそれ、世の中のほうが問題なんちゃうやろか。
上記の文章を読み、昨年ハマったドラマ「最高の教師」を思い出した。
合わないクラスメイトにいいように使われている生徒に対し、「従わずに抜ける」道を提案する女教師。子どもにとって教室ってひとつのコミュニティやけど、ほんま岡田さんのおっしゃる通り「彼らの希望も聞かずに放り込まれた」世界なんよね。
合わない子がダメではなく、「その世界、抜け出していいんよ」と伝えることも大切なんやないかなぁ。
そう遠くない将来、学校以外の選択肢が増え、「不登校」という言葉がなくなる時代がきっとくる。そう信じたい。
長男が持ち帰った通知表
学校にはよく分からん評価がある。
1学期の終業式の日、長男が持ち帰った通知表を見て愕然とした。学習面はさておき、生活面の「がんばろう」の多さたるや。笑
「失敗も重要な経験」と考える私は、「あれは大丈夫?」「これは用意した?」と声をかけることはほとんどない。だから彼は、忘れ物が非常に多い。こればかりは、「自分でこのままやあかん」と気付かな変わらんと思う。
それはいいとして。
担任をしていた頃から「友達と仲良くできる」の評価に疑問があった。
「仲良くできる」って、なにを基準にするんや?
ケンカをするから仲良くできない子?
でも、ケンカをするっていうのは深く付き合っている証拠でもあるよね。大切なのは「仲直り」なんではなかろうか。
本人はどう思っているのか、聞いてみた。
「あー、〇〇くんといっぱいケンカしたからねぇ」
長男の話には続きがあった。
「でも、〇〇くんとは仲直りしているんだけどなぁ」
うーむ・・・
それって仲良いんちゃう?
自分を振り返ってみても、親友とは何度もケンカした。むしろ、ケンカして仲直りしてきたから、35年近く友情が続いているのだと思う。
そう考えると、「仲良くできるか否か」は長期的な目で見ないと分からんよね。長男の場合は、〇〇くん以外のやり取りを見て「がんばろう」と判断されたんかもしらんけども。笑
でもやっぱり、「仲良くできるか否か」を評価するって違和感。長男にはとりあえず、「仲直りしているなら、気にせんでええんちゃう?」と言っておいた。
フェイクに惑わされないためには?
まことしやかに流れているフェイク。どれがフェイクなのかが分からんぐらいにあふれているから、見分けることは難しいだろう。
ただ、「なんかおかしい」「これは嫌やな」という直感は案外、当てになるかもしらんと感じた。
モヤっとしたら「あ、これフェイクなんちゃう?」って考えるんもアリかも。出所不明な「常識」は、右から左に受け流すに限る。笑