犯罪に巻き込まれた人の心理 「タイムリミット 見知らぬ影」
犯人は死を前にした被害者の嘆願を聞いてくれるか
この記事を上げる頃には、世界情勢が少しでも落ち着いていることを願う。
昨今では、戦争犯罪を冒している側に被害者の国が持ち掛けて、停戦協議に至るのが正しいような論調であろう。
しかし、犯罪の大小はおいといても、被害者側が犯人に、
「冷静に話し合おう」
などと呼びかけて聞いてもらえるのだろうか。
この映画をステイホームで観て、被害者側に犯罪行為を終わらせるように交渉させるということの矛盾を考えてしまった。
犯罪者が話を聞いてくれない方がリアリティーがある
映画なので、ストーリーや当事者の心理に矛盾を感じる点はあるのだが、おそらくこの映画のテーマでありそうな「生命の危機に瀕した時悠長に話して犯人や周囲が望むような決着へ被害者が持っていくなんていうことは無理だろう!」というのは、妙に納得するところであった。
自分が何か犯罪に巻き込まれ家族と一緒に人質にとられた時に、「自分と家族の命を助けてくれ」という以外に何か頼むところがあるだろうか。そして爆弾を使って周りを巻き込んで死なせて良いと考えているような犯人が、「やめてくれ」と頼んだところで聞いてくれるだろうか。
現在は、侵略戦争を仕掛けられた小国(相手方の国と比べて)が火薬を次々使ってくる犯罪国家に「どうかやめてほしい」と防衛しながら自力で交渉を持ち掛けているという状態である。そこに第三者や国際組織や国際裁判所の調停が介入せずに解決するなんてことがあるのだろうか。
一国の民間の犯罪であれば、警察や裁判所なしに自分で犯人と話して解決しようとするようなものであるというのは穿った見方だろうか。
戦うことが一番だとは思わないし、犯罪者とこぶしで殴り合って何か解決すると思わないので、もっとやり方があると思うが、それにしても犯罪や紛争の解決というのはただ他国が傍観していて得られるものなのだろうか。逃げるが勝ちという言葉があるが、「国を盗まれて家主に逃げろ」と言って、警察が窃盗犯を捕まえないようなものではないかと思う。彼らはその後どこでどう暮らしていけば良いのだろう。
決して対岸の火事ではない。自分の身に置き換えた時に、家族を殺されても全財産をおいて、二度と家に戻れない覚悟で泣きながらただ他所に逃げることができるだろうか。あまりに惨めで悲惨である。後で必ず裁判所に訴えて、犯人を捕まえたいと願うのではないか。罪を償ってほしいと思わないか。
話がだいぶ脱線したが、この映画では緊迫感を持たせるためか、車に爆弾を仕掛けられて、逃げ出せなくなるのであるが、犯人どころか周りにも話が通じず、理解が得られない。最後までまともな助けもなく、友人が殺され、主人公は、犯人と車ごと海に飛び込んでたまたま助かるようなラストである。それがありえないようで、簡単に助からないところにリアリティーがあるとも感じる。
犯人は会社の社長でなく、妻が死んだ原因になった開発プロジェクトの担当者を狙った。その計画を立ち上げた社長より、助けてくれそうだった人が助けてくれなかったことを恨むのは、ありえそうなことであるような気がする。
父親は死を覚悟して、懺悔するのだ。責任はお父さんにもあるのだと。悲劇を予想できたのに、防ごうとせずに目を瞑ったんだと。
例えば、自分がいじめられたとき、いじめっ子がいなくなったからといって、その取り巻きや自分が殴られている間傍観していたクラスメートを後から恨まないなんてことができるだろうか。どうして誰も助けてくれなかったんだろうと思うのではないか。自分の友達だと思っていた人が理不尽な暴力を傍観してある日離れていってしまったら、悲しくならないだろうか。
よくいじめられる側にも問題があるという人がいる。じゃあ、それをかの国に置き換えた時、侵略されている側が態度を改めれば、侵略は止むのだろうか。犯罪者は恨みを忘れて話を聞いてくれるのか。あるいは、その恨みが逆恨みであればどうやって話をすれば良いのだろう。例えば、とある犯罪に誘われてそれを断ったら、恨まれて殺されそうになったなどという場合、どうやって殺さないでといえば良いのか。周りの人間はそれを知っていて、黙ったままで、例えば会社で何か不正が行われても自分が巻き込まれたくないから、他人が巻き込まれようとみんなで黙っているのか。
だからといって、危険を冒して助ければ良いと言いたいわけではない。しかし、いじめっ子に見つからないように付き合う方法はあるはずで、あるいは解決方法を一緒に考えても良いだろう。少なくとも一緒になって無視することはいけないのではないかと思う。