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病はかわいそうなのか?~がん患者に向けられる「かわいそう」の眼差し♯132

がん患者に向けられる「かわいそう」の眼差し

がんになる前は、特に若くしてがんになった人を見ると「かわいそう」という言葉を口にしていた。
例えば、2人の幼い子供を遺し、天国へ旅立った小林麻央さん。
ただ、麻央さんと同様に、小学生と幼稚園児の母である私が、乳がんになり、果たして「私は、かわいそうな人なのだろうか?」と最近自問する。
当時、小林麻央さんにかわいそうと思っていた私に問いたい。
きっと、麻央さんは「死」を意識しながらも、感謝の気持ちを忘れずに、努めて前向きに、懸命に命を全うしたのだろう、とブログを読んでいて感じる。
当時の私は、誰しも老いるし、死を迎えるにもかかわらず、当たり前に自分は長生きすると考え、終わりに目を向けることがなかった。それゆえに、時間を蔑ろにしている部分もあったと思う。感情に振り回され、大切な人に、怒りや苛立ちの気持ちをぶつけることもあった。
だが、今、「死」が実際、自分の目の前に見えたことで、残された寿命で、何に時間と情熱を費やしたいのかを考えている。当時より、ずっと真剣に、「命」について向き合っていると思う。
今の私からしたら、当時、「かわいそう」と思っていた自分が「かわいそう」なのだ。

「がん」になったことは決してかわいそうなでことではない

実際「自分はかわいそう」だと認めだすと、その要素は数えきれないほどある。

・まだ40歳。この世にやり残したことが残っているだろうに、がんになって、死を意識しないといけないなんてかわいそう。
・子供が小さいのに、がんなんてかわいそう。
・女性なのに胸の喪失を味わうなんてかわいそう。
and so on!

私自身、「かわいそう」と思われてもいい。それは自分がコントロールできることではない。
でも、自分は、「かわいそう」な生き方はしたくない。

病気にならないに越したことはないが、
がんに私の人生すべてをさらわれたくない。
実際、がんがわかったからと言って、いきなり、すべてのことができなくなるわけではない。できることに集中し、そこを深めればよい。
また前述したとおり、私は「がん」になったからこそ、気づけたこと、考えたことがある。それを大事にしたい。

織田信長が本能寺の変で亡くなったのは47歳。
ジャンヌダルクが火あぶりにされたのは19歳。
信長もジャンヌダルクも、死ぬ間際にどう感じたのかはわからない。
短すぎる人生と捉えるかもしれないが、濃く、太い人生だったのではないだろうか。
私も80歳、100歳までは生きられないかもしれないけれど、残された時間で、「命」を燃やし尽くせばいい。

子供たちは、「がん」という病気をよく理解はしていないが、万一のことがあったとしても、母親ががんになったことは、悪いことばかりではないと伝えたい。身近な人が病になったからこそ、そこから学ぶこと、気づけることは小さい子供たちにもあるはず。私は、自分の子供たちを「かわいそうな子供たち」にしたくない。子供たちも、がん患者の家族として、人の痛みを理解する力はつくのだろう。また、母親の病気が「命を大事にしよう」と思う原体験になればよい。そして親はいつまでもそばにいない。だからこそ自立しようと思う動機付けになればいい。(自立のためには、私が子供たちの心の中にいて、いつでも「大丈夫だよ」と背中をおしてあげられる存在にならないといけないと思っている)

「かわいそう」を吹き飛ばすワンピース

先日、私は、赤いワンピースを買った。
正直言って、オシャレしたいと思えるような心境でない時期もあった。でも自分が好きな服やアクセサリーを身につけていると、気分が晴れやかになる。
人を見た目で判断しないようには努めてはいるが、こと自分に対しては見た目は9割。服や小物には気遣っている。
見た目が「もうなんでもいいわ」と無頓着になると、きっと、周りも「病状が悪いのかも」「辛いのかも」と思うだろう。その思いが、きっと私への接し方にも出てくるのだと思う。そうなると、ますます私自身が「病人化」してしまう。
だから、外見が華やかに見える真っ赤なワンピースを買った。
レオパード柄のストールに、個性的な大振りのイヤリングをつけると、気持ちも明るくなる。
病院にも気にせず着ていいけるよう、洗える厚手の服を選んだ。

かわいそうな生き方をしたくない。
そんな意地を持ち続けたい。

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