『山女日記』|何がゴールかなんてわからない。
湊かなえさんの著書『山女日記』を読み終えたとき、私が山登りを始めたのは、なぜだったかなぁと思った。
大学生の頃だったと思う。3月、冷え込んだ松本の街を歩いていた時だ。建物の合間から覘く雪化粧した北アルプスが、突如視界に飛び込んできたのだ。
ハッとした。
「あそこに行ってみたい!」と。
それは、あまりにも衝動的な感覚だった。
その一瞬が、登山を始めるきっかけとなった。あれから8年。その間に、山に登ることへの好奇心は冷めなかった。
日帰り登山から始まり、1泊2日の小屋泊を経験して、テントを担ぐようになり、3日で70kmを歩くようなロングコースを選ぶようになった。
雪山や、岩登りも楽しんでいる。
熱は、冷めるどころか、山登りへの興味、関心が熟していった。
あの時、山にハッとした私は、ここまでの好奇心の広がりを想像しただろうか。
『山女日記』は、7つの山を舞台に、それぞれ物語が繰り広げられていた。そして始めに登場した山は、新潟県にある妙高山と火打山だった。
初心者が登る山として選ばれた妙高山。
しかも縦走登山。「本当に‥?」と疑った。
実は私も去年、友人に誘われてこの百名山を登ったのだ。
『山女日記』に登場する女性たちと同じように、笹ヶ峰から入山し、富士見平を経て妙高山へと向かった。なかなかの急登があり、細い登山道を通過せねばならなくて、個人的には「登りやすい山」とはおすすめしないようなところだなぁと思った。
なので、初心者で登頂を成し遂げた2人の女性、律子と由美は、小説の中の出来事だとはいえ、「すごいなぁ」と感心してしまった。
けれど、確かにそれは「ちょうどよい山」だったのかもしれない、とも思う。
感動する景色を眺め、息切れしながら登る山道。そこで、それぞれが抱える苦しさをぶつけ合うには―。
山登りをしない人たちからすると不思議なことかもしれないが、一緒に登る人たち同士が、もともと仲がいいとは限らない。
たまたま登りたい山が一緒だったから。たまたま誘われたから。などの理由で集まり、集団(パーティ)で登ることはめずらしくない。山で「初めまして」とか、よくあること。もしそこで馬が合えば、山友だちの輪は広がっていく。
ここまで読むと、登山者は社交的な人たちばかりなのかと、思った方がいるかもしれない。断じて、そういうわけではない。シャイな人も、社交的な人も、どちらもいる。
そうであるにも関わらず、山で人の輪が広がる理由は、「好き」を共有しているからなのかもしれない。
「好き」という気持ちは、人を寛容にしてくれる。
そして、山という場所は、自分自身のこころを中庸にしてくれる。
中庸とは、簡単に言うと「偏りなく中立的であること。」だ。それは、自分の声も、他者の声も、耳に届く状態だろう。
それによって、自己対話が進むし、他者との対話も深まる。同じ方向を見ながら歩くことで、バラバラだった思考が、収束していくような感覚も得られるかもしれない。
だから登山は、人同士(自分自身も含めた)の繋がりを深めてくれる時間だと思う。1回の登山で一機に仲が深まることもよくあることは、そういった時間を過ごせる場であるからではないだろうか。
とはいえ、私はひとりで登る時間も大好きだ。「槍ヶ岳」の章では、槍ヶ岳をソロ登山している女性が登場するが、その彼女が言うのだ。「私は単純に山の景色が好きなのだ」と。
わかるなぁと思うし、だからこそ、そこに茶々を入れられるのが、不快だと思ってしまうこともある。山の景色が好きだから、どっぷりと、山時間を味わいたいのだ。
「茶々を入れられる」とは、言い方が美しくないかもしれないが、それが一番しっくりくる感覚で。
私にとって、その体験のうちのひとつを例にあげるとしたら、山で見知らぬ男性から声をかけられることだ。
ただお喋りするだけなら楽しい。山で登山者と交流するのは、むしろ大歓迎だ。
けれど、ひとりで登っていることを楽しんでいたのに、「ひとりじゃ危ないから、一緒に歩こうか」と声をかけてくれる男性たちが、時々いる。(おじいさん、おじさんが殆どだ。)
特に里山などに多いように思う。これは、男心なのだろうか。
先日も、大文字山の裏ルートを散策していた時に、同じくハイキングをしていたおじいさんに捕まってしまった。そして、後ろから追てくる。
そういう時、そっとしておいてほしいなぁと、思うんだよねぇ。
『山女日記』に登場した山は、妙高山(新潟県)、火打山(新潟県)、利尻山(北海道)、白馬岳(長野県)、槍ヶ岳(長野県)、金時山(神奈川県)、トンガリロ(ニュージーランド)だった。
8年前に、衝動的に「登ってみたい」と感じてから、本格的に登山を始めた。コツコツと山に登って、山との思い出を育んできた。小説に登場する7つの山のうち、白馬岳とトンガリロ以外は訪れたことがあった。
小説を読みながら、私はあの時、どんな気持ちでその場にいたのだったかなぁと。山の記憶と、重ね合わせた。
ひとりで過ごす山時間、誰かと過ごす山時間。どちらもいいし、どちらも尊い。
山を長く続けていると、ひとり時間も、みんなとの時間も、いい塩梅で選ぶことができるようになったなぁと思う。年々、自分との付き合い方がうまくなっている証拠なのかもしれない。
小説にあった、その言葉に、自分の在り方を共感してもらえたような気がした。
だから、歩いているんだ。
歩いた先にしか、わからない景色があるのだから。
山を始めようと思ったあの時だって、何かのゴールに辿り着こうと、思ったわけではなかったはずだ。
山頂に登ることだけがゴールではないし、山頂をゴールにしてもいい。何を目的に登山しようと、何を目的に生きていようと、私たちは自由なのだと、ただ胸を張っていればいい。
ゴールがわからないと嘆きながら歩く私たちに、山は楽しむ時間と、考える時間を与えてくれているのだ。
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