明治期のインフレ ~スペンディングファーストの検証~
この記事は、おとな研究所に寄稿した【反論】税は財源ではない -神谷氏らの記事への反論 記事におけるカヘイさん担当パートのフルバージョンなのだ。頑張って書いたんだけど、めっちゃ長くなったのだ。でもお蔵入りにするにはもったいないデータもあるので、ここで公開するのだ。
ちなみに中身は結構辛辣なのだ。おとな研究所の方々が読む場合は要注意なのだ。
本稿の趣旨なのだ
貨幣論と積極財政のアライさん、通称カヘイさんなのだ!
今回は経世済民大学院生さんの助太刀に参ったのだ!
院生さんの「消費税という有害無益な税」という記事に対して
「税は財源だ!持続可能な税制を考える。」という反論記事が投稿されたのだ。
院生さんが「政府支出が先、納税が後」の例として挙げた明治政府の財政を、神谷ゆうた氏とひでしゅう氏は「インフレになるから税は財源!」と言っているのでカヘイさんが検証を加えることにしたのだ。
この論考は結構な長さなのだ。なので簡単に要約しとくのだ。
・政府支出が先、納税が後っていう話で出した明治初期の財政資料に対して、インフレ云々持ち出すのは論点めっちゃズレてるのだ
・明治2年のインフレって貨幣発行じゃなくて不作が原因なのだ
・明治13年のインフレの原因を明治10年の西南戦争に求めるのは無理があるのだ
・物価指数が3年で100→203になった場合、インフレ率は年率70%じゃなくて27%なのだ
・財政赤字と物価に相関は無いのだ
・明治2年の方はインフレだけど実質賃金が上昇してるから何も問題じゃないのだ
・貨幣量が増えたらインフレとかいう認識も改めたほうが良いのだ
・今の日本は40年前に比較して貨幣量は8倍になっているが、物価は1.5倍にもなっていないのだ
・税は財源ではないのに社会保険料と消費税を取ってきたからみんながツライさんなのだ
普段はアライさん口調なのだけど、以下の論考ではアライグマの毛皮を脱いで書き記すのだ。
本稿の方針
早速「税は財源だ」との記事における明治初期の反論について検証を加えたい。ひでしゅう氏は経世済民大学院生さんにこのように反論する。
筆者は本文中で明治初期は歳入の大半を紙幣発行で賄っていたと述べ、自身の論の補助に用いている。たしかに明治初期において財政基盤の弱い新政府は太政官札を発行することで、歳入の不足を補っていた。しかしこの制度は成功せず、インフレーションと言う大きな問題を引き起こしている。
論点が完全にすり替わっているのがお分かりだろうか。経世済民大学院生さんは、「(政府が)通貨を発行していなければ、そもそも納税など出来ようもない」という証拠として明治初期の資料を提示したのだ(あっ、アライさん口調に戻っちゃったのだ)。
それを「インフレ」という問題が生じたとして反論をするのは完全に無意味である。インフレという問題が発生しようがすまいが、「政府支出が先、納税が後」という原則(MMTではこれをスペンディングファーストと言う)を否定できていない時点で経世済民大学院生さんに対する何らの反駁にもなっていない。彼らは一応、「インフレによる貯蓄価値喪失か税で返済する事が求められる」として「後から返すから税は財源だ」というレトリックを用いているのだが、そもそもMMT派は政府が税によって貨幣を回収する行為を否定していない。景気調整として所得税や法人税を用いて貨幣を一部回収することは必要である。論点は、財政支出に先立って財源が必要かどうか、あるいは消費税などによって定量的な回収を志向する必要があるかどうかである。
しかし、財政支出によりインフレが起こるという認識は、確かに国民の財政支出への躊躇を呼び起こし、それは緊縮財政(出来るだけ財政支出を減らそう、歳出を歳入に出来るだけ近づけようという考え方)への賛同をもたらす。そこで本稿では、彼らが取り上げた明治初期のインフレ(明治元年~明治4年頃)ならびに、西南戦争とその後のインフレ(明治10年~明治14年)の2つの時期について、以下の観点から検討を加えたい。
・インフレはどの程度起きたのか?
・インフレの原因は政府支出なのか?
その上で、日本の現状などから政府支出とインフレの関係を確認し、結論を提示したいと思う。
明治初期のインフレ
さて、明治初期の物価であるが、米を用いるものと朝日新聞社『物価大勢指数』による総合的な物価を算出したもの(以下、「総合物価」)、そして現代の研究者が試算したものとがある。米の価格は米問屋であった山崎繁次郎が大正になって出版した『米界資料』(1914)、斎藤修氏「幕末-明治の賃金変動再考」(1993)を使用した。ちなみに朝日新聞社『物価大勢指数』は「米・小麦・砂糖・醤油・生糸・綿糸・麻・綿織物・絹織物・染料・木材・銑鉄・銅・石炭・肥料」の単純平均であり、現代的な総合物価指数のような加重平均ではない点には留意が必要である。
これをグラフ化すると以下のようになる。
明治2年には生計費指数は1.6倍、米価格は1.5倍、総合物価は1.2倍という大幅な物価上昇が認められる。しかし、総合物価はその後は割と安定的なインフレ、米価については明治3年にはほぼ明治2年に比して横ばい、明治4年以降は明治元年よりも安いという結果になっている。また、生計費指数も明治4年以降は落ち着いている。ちなみに生計費指数は実は明治元年時点で慶応3年から物価が下落している。
ひでしゅう氏は
このように行政上の必要だけを念頭とした通貨発行が行われたため結果として急速なインフレーションが進むこととなった。そしてその後、このインフレーションは明治10年の西南戦争の勃発により財政規模が拡大し、紙幣発行の増加による更に加速した。
と記していた。これでは急速なインフレが止まらなかったかのように読めてしまうが、事実は全く異なる。
「貨幣乱発による物価上昇」という捉え方は、近代の日本でも広く受け入れられており、先の『米界資料』でも「紙幣を濫発したれば宛かも前年と正反対に物品高く紙幣低く(訳:紙幣を乱発したので、前年と正反対の物価推移で物が高く紙幣は低くなって)」などと度々言及されている(「紙幣低く」は銀との交換比率の話をしている)。しかし同時に『米界資料』の明治元年と明治2年の概観にはこのように書かれている。
戦塵先づ伏見鳥羽に揚がり続きて錦旗東征と決したれば江戸の騒動一方ならず、人心恟々市民帰向する所を知らず…(中略)…米の価格も自然に下らざるを得ずして三円七十銭の売買を見たり。(中略)夏季に入り地方霖雨不作の声高かりし等にて後半期には漸次昂進して七円九十銭まで跳ね返したり。(明治元年)
(訳)紛争がまず京都の鳥羽伏見で始まって、そのまま新政府軍が東へ進軍すると決まったので江戸の騒ぎは甚だしく、庶民の心は戦々恐々としていた。米の価格も自然と下がることとなり、三円七十銭になった。夏になって地方は雨が続き米は不作になるという噂が立って、米の価格は年の後半になると次第に上がり、七円九十銭まで跳ね返した。
去年の不作は供給の不足を来し七円四十銭を安値として十円以上に突発したり。南京米を輸入して米価緩和の策を取りたるも実に此の年を嚆矢とす。(明治二年)
(訳)去年(明治元年)の不作は米の供給不足をもたらし、米価格は七円四十銭を安値として十円以上にまで急に上がった。中国大陸南京から米を輸入して米の価格を抑制する政策を取り始めたのは、この年が始まりである。
また、三井家大坂両替店の記録「日記録」を見ると、明治新政府が支出を行う以前の慶応2年、3年にも米相場が2ヶ月で倍増したり逆に半値になったりと乱高下していたことが確認できる。貨幣乱発がインフレの原因とする理屈は、米価格の上昇を説明はできても下落については説明できない。政治情勢の不安と、米の不作、輸入米に拠る需給バランスが明治元年から4年までにおける米価乱高下の原因とするしかあるまい。つまり、明治2年の米価格上昇ならびに生計費指数の上昇は、米の供給不足である。
西南戦争とインフレ
そのまま政府支出を批判する文脈でひでしゅう氏は西南戦争を取り上げるのだが、ここもツッコミどころが多い。
当時、経済の中枢を占めた米価指数を見ると、明治十年を100とした場合、十三年までには203まで高騰している。一年に約70%近いインフレとなっている。東京重要品物値指数は十年を100とすると、13年までには130とまで高騰している。一年10%程度のインフレとなる。
おそらく彼が引用した数値は眞藤素一氏「明治初期のインフレーション」(1954)に由来する。
米価指数は明治10年を100とした場合、明治13年には203となっている。これは紛れもない事実だ。しかし、間の明治11年の117、12年の156を飛ばして記載しているのは何故だろうか。「一年に約70%近いインフレ」と書かれると、明治11年に一気に70%ものインフレが起こったかのような印象を受けるが、実際は17%の上昇である。
また、203をそのまま3で割って「一年に約70%近いインフレ」と結論づけるのも相当な問題である。歴史が専門のひでしゅう氏が間違えてしまっただけならいざ知らず、海外の大学で経済学を学んでいるらしい神谷ゆうた氏がここを見過ごすのは信じられない。校正をしていないのだろうか。
インフレ率とは前年比で求められるので、年率換算をする際には単なる等比数列の問題(あるいはインフレ率の相乗平均の問題)になる。ここでは、指数の起点100となる明治10年を一年目をa=1として、3年後の明治13年にar^3=2.03となるrを求めることになる。この場合のrは1.266になるので、明治10年~明治14年のインフレ率は年平均27%程度ということになるが、明治11年の上昇はそれを下回っている。同じく東京重要品物値指数は年9%程度の上昇である。
それでは、この物価上昇は本当に西南戦争が原因なのだろうか。普通、政治的混乱に拠るインフレはその年に起こる。政府に拠る貨幣乱発が原因なら、貨幣乱発をした明治10年時点で物価上昇が起こっていなければおかしいし、後に尾を引いたとしても物価上昇するなら明治11年であろう。極端な例だが、ドイツのハイパーインフレは1923年1月のルール占領から始まり、たった半年で約20倍に達している。
では西南戦争時は前年(明治9年)に比較してどうだったかと言うと、米の価格は10%の上昇、総合物価はむしろ下がっているのである。
そしてその後、米価格は13年に急上昇するのである。明治13年の物価上昇の原因を明治10年の西南戦争の貨幣乱発に結びつけるのは無理筋である。
『米界資料』は当時の世論を反映して以下のように記す。
不換紙幣二千七百万円を発行したれば財界急に活気を呈し此の年豊作の声高かりしに拘らず米価は騰貴せり。(明治十年)
(訳)政府は不換紙幣を2700万円発行したので財界は急に活発になり、この年は豊作だという評判が立っていたにも関わらず米の価格は上がった。
此年凶作にて戦後の財界変調を呈せり。(明治十一年)
(訳)この年は凶作で西南戦争後の財界は調子が変わった。(翳ったということか?)
地方は好景気にて米価益々上進すべき勢となり産地出穀渋滞を極め深川在米僅かに四万俵に減じたり。(明治十二年)
(訳)地方は好景気で米価格はますます上がる勢いとなり、産地の米は調達が困難になって、筆者山崎繁次郎が米問屋を営んでいる東京深川の米の在庫は四万俵にまで減った。
金納改正以来米は農商の自由販売品と化し質の善悪に就て適当の管理者なきに至りしを以て自然粗製濫造に流れ此の点よりすれば自然価格低廉なるべきはずなるに同時に需要増加したるを以て質の善悪に拘らず価格を維持したるが、十年戦争の不換紙幣濫発は財界に夥しき悪影響を与へ、此の年に至り害毒愈々甚だしく産業萎靡して物価の平準を破り…明治以来の新高値を示したり。収穫は十二年来普通作を得たるが故に年の豊凶よりすれば斯の如き突飛の高値を示すべき謂れなし。全く不換紙幣の罪に帰せざるを得ず。(明治十三年)
(訳)金納改正(明治9年に納税を円貨で行う法律が制定された)以後、米は農家商人が自由に販売できる品物となって、質の善悪に関して適切に管理するものがいなくなったので、自ずと粗製濫造となってしまった。この(自由競争という)点から考えると価格は自然と低くなるはずだが、同時に需要も増加したので質の善悪に関わらず価格は横ばいということになるのだが、西南戦争による不換紙幣の濫発は財界に大きな悪影響を及ぼし、明治13年にはその悪影響がますます激しくなって産業は衰退し、物価の基準がおかしくなって米は明治以来の最高値を更新した。収穫は明治12年に続いて例年通りの量だったので、米の供給量から考えればこのような突飛な高値になるような原因は見当たらない。これはどう考えても不換紙幣の乱発が悪いと言わざるを得ない。
明治10年から12年は需給バランスや好景気を背景にした価格上昇とみなして良いだろう。しかし、13年には正体不明の価格上昇に遭遇しており、その原因を「不換紙幣の罪に帰せざるを得ず」と、西南戦争の紙幣濫発に求めるより他ないという当時の世論に則った結論に至っている。こうした当時の世論が、現在の高校日本史の教科書にも引き継がれたということであろう。
しかし、先程も見たとおり、3年という時差から、西南戦争の貨幣乱発を原因とすることは出来ない。これは、財政収支を見ても明らかである。
大森 徹「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」(2001)より引用
明治10年での財政赤字2817万円は、その後の明治11年の845万円、12年の1136万円、13年の861万円の財政黒字で打ち消されており、さらに政府紙幣もそれに呼応して明治12年からは減少しているのである。
この点、インフレに関して興味深い結論を出しているのが一ノ瀬篤氏「明治9年の国立銀行条例改正と公債―公債による銀行資本金払い込みの意味するもの―」(1989)である。
氏は明治10年以降、国立銀行(名に反して官製の銀行ではなく、条例で認可された民間の銀行)による貸付が増大している事実に着目し、インフレの原因を財政赤字とする通説に
11年から14年にかけて,政府は財政収支の黒字化につとめ,政府紙幣の銷却を着々と実行した。この結果,上のような政府紙幣の縮小が実現したのである。したがって,この間,財政活動によるインフレはなかったといってよい。
と異を唱え
銀行券発行を基礎として,国立銀行がこの時期に,著しく貸出を拡大していることは確実である。これが,明治12-14年の激しい物価上昇をもたらした最大の要因であろう。
と結論づける。要は、民間の信用貸し付けによる貨幣量増加、もしくは活発な事業の投融資がインフレの原因だとするのである。
財政赤字と米価格・物価
もう一つ資料を提示して検証すべき課題がある。財政赤字額と米価格の関係である。
上記の大森徹氏作成の財政資料では、明治8年度~18年度は、7月~翌6月を一つの年度としている。試みに終始の異なる第1期から8期までも、年度の開始と終わりが7月~翌6月になるように単純に月平均を割り出してから調整した財政赤字額を試算し、その時点での累積赤字額を算出してみた。比較対象となる米価は、9月~翌8月を一つの年度とする第二種を用いた。なお、便宜上財政赤字は慶応三年12月~明治元年6月、米価格は明治元年1月~8月までのものを「慶応三年度」としてある。財政と米価で2ヶ月ほどのズレがあるが、概ね比較として用いても良いだろう。生計費指数はそのまま用いた。
すると累積財政赤字額と物価の関係は以下のようになる。
財政赤字拡大時には米価格が概ね減少しているように見えるのは気のせいだろうか…。
試みに別の比較もしてみる。今度は明治元年度末(明治2年6月時点)を1とした累積赤字額と朝日新聞社作成物価指数とを比較しよう。
やはり赤字額の拡大が物価上昇を招いているとは言い難い。もちろん貨幣流通量と物価を見たときには相関性はかなり出るのだが、明治10年以後を見れば、政府紙幣という政府の負債の増減自体が物価に影響を与えているわけではない。
単に「政府支出が先、納税が後」(スペンディングファースト)の例として持ち出した明治の財政支出に対して、論点が完全にずれたインフレという問題をひでしゅう氏は持ち出した。そのインフレ率の算出の仕方も大きく誤っていた。彼は歴史を専攻していようとも経済(あるいは歴史経済学)については日本史Bの教科書の記述と、戦後間もない論文を拾うことしかできなかったのである。
しかしこの通説も検討すれば、明治元年から2年のインフレは明治新政府樹立という政治的に不安定な情勢と、米の不作が原因であった。そして明治12年から14年のインフレは、西南戦争が原因ではなく、民間銀行による活発な融資、つまり新興国的な経済成長が原因であったのだ。
インフレの問題点とは?
さて、さらに考えるべき問題がある。彼らは「短期的に財政ファイナンスを行ったとしてもそれはインフレによる貯蓄価値喪失か税で返済する事が求められる」と、要は「政府赤字がインフレを招くからダメだ」と結論づけている。その論拠として神谷ゆうた氏とひでしゅう氏は明治初期のインフレを取り上げてきたのだが、政府赤字がインフレを招いているわけではないことはこれまでの論考で指し示したとおりである。
では次の問題だ。「インフレは悪なのか」である。答えは「インフレ自体は悪でも善でもない」である。インフレが悪になるのは、物価が庶民の収入を越えて上昇するときである。物価も賃金も一気に同じく倍になるなら実は何の変化もない。ここで文句を言うのは富裕層だけである。
しかし、物価が1.5倍で、庶民全体が等しく2倍の収入を得る場合、庶民は可処分所得の向上という恩恵を得ることが出来る。こういう認識の元で初めて庶民の収入と物価との比較、実質賃金が重要な指数となってくるのである(もちろん、物価下落局面における実質賃金上昇は大きな問題を孕んでいるのだが)。
明治時代の実質賃金を測定するのは非常に困難であるが、ここでは3つの資料を提示しておきたい。
一つは斎藤修氏「幕末-明治の賃金変動再考」で示された建築職人の実質賃金である。
あくまで建築職人という一職業の実質賃金でしかないが、幕末期という政治的混乱期に落ち込んだ実質賃金は明治元年にやや回復し、明治3年以降は急上昇したのが確認できる。明治元年、2年のインフレが仮に貨幣発行を原因とするとしても、実質賃金が上昇しているため全く問題にならなかったのだ。また、原文は未確認だが、神戸の副領事H.S.ウィルキンソンによる報告書(原題 Reports on the Production tea in Japan)によると、明治元年から明治四年にかけて、賃金は2倍に上昇した旨が書かれている(粟倉 大輔氏「明治期における「再製茶女工」とその再評価」)。支払いは天保銭だったため、天保銭をさらに円レートで換算した場合に価値が変わる可能性はあるが、仮に固定レートで考えた場合には実質賃金は生計費指数、あるいは米価格で1.07~1.3程度に上昇していると考えて良さそうである。
ちなみにこの場合、インフレに文句を言うのは富裕層である。(彼らや彼らが支持する日本維新の会は富裕層の味方なのだろうか?)
再び建築職人の実質賃金に目を戻すと、西南戦争時には内乱という問題から実質賃金はやや下落した。そして明治13-14年に物価上昇に伴って大きく下落した実質賃金は明治元年とほぼ同水準であったことが確認できる。この場合は確かに庶民は苦しむ。
明治13-14年のインフレ(そして実質賃金の下落)が西南戦争の貨幣発行を原因としないことは先に述べたとおりである。しかし、仮に政府支出が原因であったとしても、これはMMTへの批判には当たらない。何故ならMMTは、戦争などで国内供給力を国民生活に寄与しないものにつぎ込むことには反対しているからだ。(ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』第七章第一項など)
もう一つの実質賃金に関する資料は山本眞一氏「明治初期の家計補助的女子賃金」である。
こちらによれば、物価上昇をした明治13、14年の実質賃金は、日給で米一升分程度であったことが確認できる。賃金上昇を伴わない物価上昇によって庶民が苦しんだのは想像に難くない。
インフレが問題になるのは、このように庶民に貨幣が行き渡らないとき、言い換えれば格差が拡大する時である。しかし、MMT派は給付と組み合わせて国民のために財政支出をすべきだと考えている。財政赤字がただインフレを招くわけではないし財政赤字が庶民を苦しめるわけではないのはこれまで検証してきたとおりである。重要なのは、仮にインフレを招こうとも、庶民にきちんと貨幣が行き渡るような保障の仕組みを整えることである。 明治13-14年のように、新興国の活発な民間投融資は市場を歪め、経済成長とともに格差拡大(庶民の実質賃金低下)をもたらす場合がある(トマ・ピケティ『21世紀の資本』など)。その際に格差是正の政策が必要になるが、明治政府はそれをとらなかっただけなのだ。
盲目的に「財政赤字はインフレを招く」と言って、政府に出来ることを縮小させようとする思考は、事実に何一つ立脚していないイメージ先行の机上の空論、言い換えればイデオロギーでしかない。
貨幣量とインフレ
そして最後にもう一つだけ考えるべき課題がある。貨幣量の増加がインフレの原因になるかどうかである。歴史的事例とイメージのしやすさから、我々はこれを是としている。よく言われるのが価格革命だ。アメリカ大陸から銀が流入し、ヨーロッパ大陸で物価が高騰したという説明がなされている。高校の日本史で「明治政府の財政支出によって物価が高騰した」と説明されるのと同様に、高校の世界史では価格革命を通して必ず「貨幣の増加はインフレをもたらす」と習う。この価格革命という事例から、貨幣数量説(貨幣の増減が物価に影響するという理論)が打ち立てられたとも言われている。
しかし戦後に歴史研究は洗練されてきた。近世ヨーロッパでは実は銀の流入増加以前から物価の上昇が始まっていた(The Monetary Origins of the ‘Price Revolution’ : South German Silver Mining, Merchant-Banking, and Venetian Commerce, 1470-1540'など)ことが明らかとなり、さらなる検証が加えられてきた。こちらに関しては私が資料を集められない(英語の能力的にも、資料へのアクセス権という意味でも)せいで、研究の紹介に留めざるを得ないが、例えばハーバード大で博士課程を修了し、ジョージ・メイソン大学で教鞭をとるゴールドストーン氏は“Urbanization and Inflation: Lessons from the English Price Revolution of the Sixteenth and Seventeenth Centuries”という論文で、都市のネットワーク化、職能の専門化が貨幣流通速度を上げて、インフレを招いたことを明らかにしている。この論文がどれだけ妥当かについては今後の詳細な研究を待つとして、価格革命については他にも黒死病、人口増加、農業生産性の向上などが要因として挙げられており、決して金銀の増加が単に物価上昇を引き起こしたわけではないことは明らかになっている。
もちろん日本においても世界においても経済成長と物価上昇、貨幣流通量の増加がある程度連関しているのは間違いようのない事実であるが、それは貨幣流通量を上げればそのまま物価上昇に繋がるとか、経済成長に繋がるとかいう類のものでは決してない。その証拠に現代の日本の通貨量と物価の関係を示そう。
「財政支出でインフレになった」という事実を本稿では長い字数をかけて否定してきた。しかし仮に財政支出がインフレを招くとしても、増えた貨幣量に対して物価の上昇が緩やかであれば、可処分所得は上昇し国民は豊かになっているのだ。少なくとも明治初期は実質賃金も上昇していたため、この結論を当てはめるのに異論はないだろう。
しかし、実際には現在の日本において庶民は豊かになっていない。これは、実質賃金が上がらないまま税率だけが上がった結果、貨幣量が増加しているのに、庶民に貨幣が行き渡っていないのが原因である。
実は平成の日本では貧困層から年収800万円世帯まで、日本維新の会が唱えるフラットタックスが実質的には施行されているような状態が続いていた。そしてこれで中間層以下は活力を失って来たのである。そう、原因は消費税と社会保険料である。昭和の税制は下記の通り、教科書的な累進課税だったのである。
貨幣量の増加率と物価の増加率の検証をすることなく「貨幣が増加すればインフレになって打ち消されるから無意味」などと数値をろくに出さずに言うのは詭弁である。
そういうありもしないインフレの幻影に怯えるのではなく、政府は国民のために支出すべき項目をきちんと考えて、教育、研究、社会福祉、労働、投資、安全保障、インフラ整備などには赤字かどうかに関わらず支出するしかない。徴税時には不要な税を無くして減税をするとともに累進課税を整え直すしかないのだ。
これをケチって財政均衡の必要を唱えてきた結果が平成の30年間の日本であったと後に明らかになる日も近いであろう。
杜撰な資料集めは杜撰で短絡的な(しかし分かりやすいが上に受け入れられやすい)結論を生み出す
歴史学とは、高校の教科書で記述が完成しているものではない。神谷ゆうた氏もひでしゅう氏も大学という場にいるのであれば、新たな検証を加え、自分なりのデータ収集と分析を行うくらいのことはして欲しい。私は現在、コロナ禍で大学図書館に入ることができないため、インターネットで文献と資料を集めるより他なかった。現役の学生は大学図書館にアクセスできるという好条件にあるのだ。しかしひでしゅう氏はこの好条件を捨て、日本史Bの教科書に書いてある通説とネットで閲覧できる古い論文一本で結論を出してしまった。
杜撰な資料集めは、杜撰で短絡的な結論を生み出す。しかも、この直観にも沿った短絡的な理屈が、歴史の教科書にも書いてある説明と一致していたせいで、厄介なことにその後の検証をなおざりにしてしまったのである。そしてこのような短絡的な結論は、直観にも沿っているという点で安易に受け入れられやすい。
互いの論を寄せ集めて一つの結論を出そうとするのなら、なおのことチームメイトが互いに検証と批判を加えるべきであっただろう。それを無批判に自説に接続する神谷ゆうた氏の安直な姿勢もまた強く修正を迫られなければならない。神谷氏は海外の大学で経済学を学んでいるとアピールするのなら、経済学については明るいわけではないひでしゅう氏のインフレ率70%という記述について訂正を促すべきであった。
本論では明治時代のインフレの実態について歴史的な資料と史料、あるいは先行論文を用いて検証し直してきた。ここで明らかになったのは
政府は税を財源として支出しているわけではないし
財政赤字はインフレをもたらすわけではないし
貨幣量の増加はインフレをもたらすわけではないし
仮にインフレをもたらしても賃金水準が上がっているなら問題はないし
賃金水準が上がらないなら政府は減税によって可処分所得を増やす必要がある
ということだ。
従って、税が財源だと信じ、財政赤字と貨幣量の増加がインフレをもたらすと勘違いし、賃金水準が上がらっていないにも関わらず増税によって可処分所得を減らしてきた上に、逆進性のある消費税と社会保険料によって実質的なフラットタックスを庶民に課すことによって格差を拡大させ続けてきた政府の罪は重い。
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