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レイク・チューリッヒ | アルトシュタットの迷宮




Zürich
Switzerland









レイク・チューリッヒ | 05
アルトシュタットの迷宮









1


チューリッヒに入ってからすでに数日が経過していた

わたしは中学校が一緒だった女性の同級生が住む、高層アパートメントのゲスト・ルームに滞在させてもらうことになり、そこを拠点に毎日精力的にチューリッヒ市内を歩き回っていた

彼女はいつもだいたい午前の遅い時間に車で市内の中心地まで出勤していたので、毎日その助手席に乗り込んでは彼女の職場があるミュンスターホーフ通りか、その途中にあるチューリッヒ中央駅で下ろしてもらい、一眼レフを片手に、17世紀から続くといわれる迷宮のような旧市街アルトシュタットを中心に、最前までのパリでの日々と同様に、気も狂わんばかりに歩きに歩いて、くたくたになっても、それでもまた歩き続けていた

その日はわたしは中央駅で下ろしてもらい、この頃よく通うようになっていた構内にある安直で簡易なスタンド式のコーヒー・ショップで、チューリッヒの暇をもて遊んでいるような老人たちに混じってはデミカップに入った濃いエスプレッソをまずは一杯飲んでから、さて今日はどこへ行こうかと作戦会議をひとりで行っていた


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このヨーロッパの小さな旅においては、わたしはSIMカードやポータブルのWIFIルーターの類などは意識的に一切所持していなかった

ひとつはどのようなルートでヨーロッパを巡るのかがはっきりしていなかったので、それに対応できる機器を探すのが面倒だったことと、最終的には何かとうるさいオンライン状態を、一時的であれ完全に自分から切り離すことに、この頃一種の快感のようなものを覚えていたからだった

仮に、初めて入る国でトラブルに巻き込まれても、もちろんトラブルの種類にも大きく左右はされるが、そこを切り抜けるだけの知恵と体力は自分にはあると根拠のない自信はすでに十分持ち得ていたし、ここチューリッヒにおいては在住歴15年の同級生が常時温かで細かなフォローをしてくれていたので猶更、必要がなかった

と、切れ味よくここに書きたいがやはり必要な局面があった

それは旧市街アルトシュタットの迷宮のような路地を散策するときにはどうしてもオンライン・マップが必要で、わたしはとにかくよく迷い、ときどき真剣に頭を抱えて「出口」を探す羽目になり、そうした場合は「目」ではなく「鼻」を頼りに、路地に薄っすらと漂う「水の匂い」を嗅ぎつけては旧市街と並行して流れるリマト河へと抜け出て「脱出」を図っていたのだ

そしてわたしはこの日これから、Fraumünsterフラウミュンスターという中世に建てられた古い修道院を観に行くため、中央駅構内のコーヒー・ショップで自動接続のWIFIを使って、そこまで行くおおよそのルートを確認していたのだ


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前夜、同級生の彼女が振舞ってくれた温かい手作り料理を食べ終わった後で
ふたりで食器を水洗いしてあと片づけをしている際に彼女はこういった

美術に強い興味があるならば、旧市街にあるフラウミュンスターには一度行ったほうがいいよ。

そこには・・・えっと・・・日本語では何ていうんだっけ・・・えっとね
ちょっと忘れたけど、ドイツ語では”ジャギュァ”。

ほら・・・ロシアの・・・あのかなり有名な・・・
きみも絶対知っている画家のステンドグラスの作品があるよ。


”ジャギュァ”?


わたしは熱心な美術ファンとまではいえないのだろうが、それでも義務教育の教科書に載っているような高名な画家の名前と作品タイトルは言えるぐらいの最低限の知識は持っていた

厳密にいうとそれは一般常識の範疇なのかも知れないが、しかし、どれだけ記憶を辿っても、その”ジャギュァ”の心当たりは全くなかった

彼女は濡れた手を拭き、スマートフォンを操作してその詳細を調べてくれようとしたが、わたしは慌てて止めてこういった



大丈夫。明日直接そこへ行って調べてみる。




冒険の匂いがする




”ジャギュァ”




お前は何者なのだ



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拍子抜けするほどあっさりとフラウミュンスターに辿り着いた

リマト河沿いに旧市街を歩いていると大きな時計塔のある建物があり、それがもう、ずばりだったのだ

入口に立つと初老の女性の係員から「館内撮影禁止」の注意を促され、わたしが肩からぶら下げていたカメラは一時預かりの没収となり、いささか落胆しながら内部へ入ると、通路の正面の壁に赤・黄色・青の原色をふんだんに使ったひときわ大きなステンドグラスがあり、その真下まで進んで見上げると、昨夜彼女がいった”ジャギュァ”の正体がわたしにははっきりとわかった


彼女が日本語で言いたかったのは”シャガール”のことだった
英語表記では”Marc Chagall”


それがドイツ語ではなぜ”ジャギュァ”との発音になるのかまでの語学的な素養をわたしは一切持たないが、わたしの目の前にあるのは間違いなくシャガールの作品だった。そういえば彼の作品は絵画を含め不思議とパリでは見なかったような気もする。オペラ座には有名な天井画が存在しているが、わたしの滞在中はちょうど改修工事中でどうしても観ることができなかったのだ

わたしは木製のベンチに座って、おそらくは間違いないだろうが聖書から着想を得て制作されただろう、天使が舞う作品を眺め、あまり感銘を受けることはなかったが、しかしどのような経緯で、このロシア系フランス人の、公然とピカソの作品を鋭くこき下ろしていたという毒舌家としての貌と、そして愛妻家の一面もあったという「愛の画家」の作品がこうしてチューリッヒにやってくることになったのかを、ぼんやりと想像したりしていた

もちろん、だからといってその経緯がわかるはずもなかったが、この作品にはそうした想像を柔らかく過去へ促すような、どこかメランコリックで懐古主義的な雰囲気が濃く表現されているようにわたしには思えた


そしてこの日は奇妙にも昨夜彼女がいった”ジャギュァ”のドイツ語の発音が私の耳からどうしても離れてくれず
わたしは呟くように、彼女のネイティヴ同様の発音を真似て




・・・”ジャギュァ”、”ジャギュァ”、”ジャギュァ”・・・

を阿保のように何度も繰り返し

次にやや変形して

ジャギュアアアァァ・・・♪

最終的には

♪ ジャギュアアアァァはぁ、シャガァアアアール ♪


と鼻歌を歌いながら街歩きをし、すれ違うスイス人から


こいつは大丈夫なのか?


の冷ややかな目線を浴びることになった



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旧市街


また別のある日、このフラウミュンスター付近をぶらぶらしていると、ひときわ近代的で瀟洒な石造りの建物を見つけ、何か役所関係の建物なのかと思い前を通り過ぎるも、明らかに観光客と思しき数名が入口に吸い込まれていったので、気になってわたしもふらふらと後を追うように中に入ってみた

内部はあまり人気がなく、入口を潜るとすぐ目の前にかなり長大な石の階段があり、わたしは高い天井を見上げながらそれを登りきると「受け付けらしき」カウンターがあり、その裏に黒いジャケットを着たスイス人の若い女性が所在なげにぼんやりと立っているだけだった

彼女は黒髪のアジア人のわたしの姿を認めると、予め英語に切り替えてくれこういった


ようこそ。一名様でよろしかったでしょうか。


はい。でもすいません、ここは何をする場所なのでしょうか。


と、われながら何をいっているのだろうと思いながら英語で問い返すと予想に反して彼女はにこやかに微笑みながらこう答えた

美術館ですよ。
チューリッヒ美術館。

そういわれればそうだとも思えるが、この徹底的に個性を排したような内部の造りには驚かされた

何しろ、ここが美術館であるということを示す一切の表示がないのだ
そしてほとんど全てが白で統一されている


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白い石造りの壁と階段、天井の照明器具、そして通路があるだけで辺りをよく見てみると、この彼女がいるカウンターには「受付レセプション」の看板も、美術館でよく見かける「順路ルート」の表示も、そして「化粧室トイレ」の表示も何もかもが一切排されているのだ

この美術館、あるいはこの時期だけだったのかも知れない限定的なコンセプトとは、「ミニマリズム」や「匿名性」だといい切っていいのかも知れない

少なくともわたしはこのような「美術館」には入ったことがなかった

わたしは改めて辺りを眺め、本当に何もないよなと日本語で呟くと、彼女はどうなさいますか、とわたしにたずね、逆に料金を尋ねるともちろんそれはスイス・フランで、おおよそパリのルーヴル美術館の二倍強の料金だと頭で換算すると、わたしは実際に思わず一歩引き下がってしまった・・・


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何より躊躇ったのはこの美術館の収蔵作品は、事前知識としては一枚も知らず、中にどのような画家の作品が展示されているのかが一切わからない状況で、わたしにとってはおよそ高額な鑑賞料を払うのはどうだろうとは思ったが脳裏に同級生の彼女の素敵な横顔が浮かび上がり、宿・泊・費・無・料の贅沢な環境にいることを思い出し、だから、その浮いた宿泊費の分でちょっと覗いてみようかと、半ば強引にそうこじつけては中に入ることにしたのだ

それにやはり、一切の装飾を意図的に排したこの白い世界には何かがある

そうして順路表示もなにもない、ただの白い石造りの空間の中に入ると途端にここに来て良かったなと思える画家たちの「布陣」に出会うことができた

モネ、セザンヌ、ロダンにダリ、ルノアール、そしてヴァン・ゴッホ

ヴァン・ゴッホの作品に関してはすでに直近にパリのオルセー美術館とロダン美術館で「星月夜」、「タンギー爺さん」は実際に観ていて、それ以前にも「ひろしま美術館」と「上野の森美術館」でもそれぞれ有名な、たとえば「自画像」や「糸杉」の連作の一枚はこれまでに観てきたが、わたしは個人的にはあまり好きな画家ではないということは間違いなかった

それは主題や画風、モティーフの問題ではなく、この世界的にあまりに有名になり過ぎてしまったひとりのオランダ人画家の破滅的な生涯を、すでにわたしたちの多くは広く知り得ているので、美術館で彼の一枚の作品と対峙したときに、もうすでに、そうした知識としての「フィルター」を通して観ることしかできないことに、その否定的な原因があったからだ

その「フィルター」とはすなわち彼自身が内面に持ち得た、そして生涯最後にようやく到達することができた「狂気」と、それを形成したであろう「孤独」と「貧困」、もちろんそれらは決して生易しいレベルではなく、最終的に拳銃の弾を二発も自身の心臓に打ち込み自裁するまで追い詰められた、いわば破滅型の天才として、つまり、わたしたち凡人にはあまりに眩しすぎる生と死への希求が「フィルター」となり、鑑賞者の視点を限定的な一方向にしか向かわせず、本来「芸術」が持ち得る伸びやかな自由性をほとんど完璧に削ぎ落としてしまっているように思えるのだ

そしてこのチューリッヒ美術館で観た有名な連作の一枚、「糸杉のある麦畑の風景」にも、そこにもやはり「狂気」が漂っていることに間違いなかったが、しかしこれまでわたしが観てきたヴァン・ゴッホの作品とは「狂気」の質が異なるように思え、それはまずわたしの眼には、「不気味さ」と映った


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この一枚が、彼のあまりに短かかった四十三年の生涯においての、正確にいったいどのような時期に描かれたのまでは調べていない

しかしこの風景が南フランスのプロヴァンス、サン=レミの風景を描いたものであればそれはおそらくは彼の晩年の作品であることに間違いはなかった

一見のどかな田園風景を描いた作品にも思えるが、ひときわ異様な存在感を放っているのはヨーロッパでは古来から墓場に植えられ、不吉な「死」を暗示するとされる糸杉で、麦畑は激しい強風に煽られ、空には白に混ざった暗色の、まるで不安をかきたてるような雲が渦巻いているようにも観ることができる

ヴァン・ゴッホが辿った生涯の情熱の軌跡、それを仮に狂気の軌跡と言い換えることが赦されるのであれば、その情熱と狂気が最終的に「自裁」へと収斂されるその直前に、まず彼が最初に到達してしまった「正常」から遥か遠い地点とは、彼が、彼自身の片耳を剃刀で削ぎ落としたという明瞭な事実であり、その事実と晩年を過ごしたとされるこの、サン=レミの風景を重ね合わせると、ふと、わたしは背筋に一筋の冷たい何かが流れるような、そしてこの名画に対して、一歩後ずさりたくなるような不気味さを感じ取ったのだ

つまり、耳を削ぎ落とす「前」に描かれたのか、それとも「後」なのか

不穏な強風が吹き荒れるキャンバス内において、それはこれから「嵐」がやって来るという暗示として、絵筆の脇にあったはずの剃刀を手に取ろうとしていたのか、あるいはもうすでに「嵐」は過ぎ去ってしまったという明示ともとれ、だからその余韻としての、耳に血が滲む包帯を巻いた姿でこの空漠とした激しいざわめきを描いたのか、そのどちらとも解することができるこの一枚には、ヴァン・ゴッホのあまりいいファンとはいえないわたしをしばらくの間不思議と強く惹きつけ、静かで、そして異様な迫力が満ちていると思える、彼の他の作品とは明らかに異なる鬼気迫る一枚だとの感想をもった


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館内は平日の昼間だったせいか閑散としていて、わたしは時間をかけてゆっくり一枚一枚を心ゆくまで鑑賞することができた

アンリ・ルソーにジョルジュ・ブラック、ジョルジュ・ルオー

以前、東京のとある美術館の大規模な展覧会を観に行ったことがあるが、それが大型連休の初日だったということもあり、館内は数珠繋ぎの超満員でキュレーターか、あるいは係員も来館者の誘導に天手古舞だったという状況に遭遇したことがある

そのときわたしは途中であっさりと列を離れて、そのまま出口から外に出たことがあるが、そのときの状況と比べると確かにこの閑散とした状況は恵まれていたのかも知れないが、しかし閑散としすぎるこの状況もどうなのだろうと思わないこともなかった

別にわたしが気にする必要などは全くないのだが、この人の少なさでいったいどうやってこの巨大な美術館の運営ができるのだろうと思うも、いや、あれだけ高い鑑賞料を取るのだから何とでもなるさ、と、だからわたしはこの美術館の料金の高さをいささか不満に感じていたのだ


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しかしその捻くれた思いを帳消しにする一枚に巡り合うことができた

わたしはその一枚を見つけ、その前に立つと思わず「発見」と呟き
次に、「ここにあったのか」と続けた

それはパブロ・ピカソの、二十歳前後の極めて若い頃にパリで描かれた有名な「青の時代」の一枚で、わたしは絵画全般を通して最も好きな作品がこの時代の一群の作品でもあった

これまでにわたしは鹿児島の「長島美術館」と東京の「上野の森美術館」でそれぞれ一枚づつ観て以降、世界中に散らばっているこの「青の時代」の作品群を一枚一枚探しては観に行くというのが美術鑑賞におけるひとつの小さなテーマとなっていたのだ


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上野の森美術館


一般論として、およそ近代の画家のおいては、このパブロ・ピカソほど「天才」の名を冠することが容易にできる画家はいないように思えている

代表的な、いわゆる対象を一度解体して再構築するという、独特の「キュビズム」にどうしてもスポットライトが当たりがちだが、広く知られている通りに、その根底にあるのは幼少期から「神童」と呼ばれた、その精緻で卓抜した「デッサン力」にあり、そうした超越的な技術を自分で正面から否定してときに破壊し、そして封じることができた豪胆な創作姿勢と純粋な意欲が果てない美への探求心を支え続け、それを生涯において未来方向に向けてのみ解放しつづけることができた強靭な精神力こそが、同時代の他の画家たちが終には到達できなかった芸術家としての最大の分岐点であったに違いない

しかしわたしはごく個人的に彼の「天才性」を認めることができるのはキュビズムでもデッサンでもなく、その両時代の中間地点とも呼べない空白地帯にも近い、僅か四年間にだけ存在した、この二十歳前後の「青の時代」にこそ、もしも赦されるのであれば、それを認めることができるといいたいのだ


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チューリッヒ美術館

この時代にピカソが好んで繰り返しモティーフとして選び出したのは、当時のパリの最下層に属するひとびとで、その多くは娼婦、浮浪者、盲人、サルタンバンク、ピエロ、ギター弾き、女性、子供、死者、そして何より自分自身であり、その色彩は極めて暗い青や青緑を基調とし、寓話性を持たせた構図の中に極めて低温の冷たい悲哀を込め、そして当時深刻な鬱病を抱えていたという若きピカソは、交友関係を全て断ち切り、粗末なアパートの一室からほとんど一歩も出ずにひたすら絵筆を握り、当時、一枚買うのにも苦労したという安価で粗末な白いキャンバスの上に、自身の昏い情熱を、致死性の高い、猛毒を想起させる青い絵の具の中にひたすら混ぜ合わせていたという

「若さ」がもつ、肉体的なひとつの絶頂期でもある二十歳に、後に「天才」の名を冠されるスペインからパリに現れたひとりの貧しい画家の心は、しかし昏く、冷たくて青い、深い海の底へとどこまでも沈みこんでいった・・・


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オルセー美術館



そしてこの、無名時代のピカソがひとつの極北として辿り着いた
「青の時代」の作品群の裏側には、わたしにはどうしても
もう遥か遠い昔に物故した、今は亡き祖父の幻をみてとることができるのだ




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わたしの母方の祖父の晩年は、壮年期に目覚めた仏教の世界へとより深く入り込んでいき、朝と夕暮れには自宅の仏壇で毎日欠かさずに読経をあげ、近くのお寺の「総代」も務めるほどに、その精神世界の奥へと傾倒していった

わたしたち孫はそうした祖父からたまに、実家の近くあった祖父宅に呼び出されて、まずは祖母が手作りでこしらえてくれた粒餡のおはぎを盛大に振舞ってくれた後には、座敷に正座してお茶を飲みながら必ず「説教」を行った

そこでは様々な「説教」を聞かされてはきたが、後年のわたしにほとんど唯一、強く印象に残ったのは、仏教のいわゆる「独生独死」の思想で、それは文字通りに人はひとりでこの世に生まれて来て、死ぬときもまたひとりだという、子供にはいささか難解な話ではあったが、祖父は繰り返し繰り返し好んでこの話をした

このとき祖父はすでにその身体は不治の病魔に冒されており、本人もそのことは誰よりも深く理解していたということを思い出すと、そのとき祖父が語った「独生独死」の想念とは、刻々と間近に迫ってきている自分自身の死期に対して、わたしたち孫に言い聞かせるというよりも実は自分自身に対して「説教」をしていたのではないかと、時を経て今、明確に推察することができる

つまり、ひとりで生まれてひとりで死んでいくということは
この宇宙の極めて明瞭、且つ不変な「法則」であるということを

祖父が最晩年に鋭く対峙した病魔とは、咽頭部で見つかった極めて悪性の腫瘍のことで、ほどなく祖父の声帯の全てを奪い去り、だから残忍にも「声」を奪い、それだけでは足らないとでもいうように、病魔はありとあらゆる臓器に次々と転移を繰り返しては、絶望的な猛威をふるい続けた

しかしそれでも、祖父の「説教」は続き、声が出ないその代わりとでもいうように、わたしには祖父が徹底的に読み込んだであろう、大事に使い古された仏教関連の書籍を数冊譲り受けるも、だからそれを熟読する、といったナイーヴさはわたしは一切持ち合わせておらず、実家の書棚で薄っすらと埃が積もっていきながらも、しかし不思議と祖父が語ってくれた「独生独死」という言葉だけはいつのまにか、そして永い時間をかけてわたしの心の中の深くまでゆっくりと落ちていき、社会に出て巡り合うことができた人々の中にやがて点々と、そして大小様々な黒点のように死者が現れだすと、時折、ふっとこの言葉を思い出すようになっていたのだ

しかしそれはまだずっと後年のことで、当時十代という若さだったわたしたちが「独生独死」という仏教の深い精神性を学びとるには、いくら何でも早すぎたように思え、わたしの幼い小学生の弟などはそのときの祖父に対して

じゃあ、おじいちゃん?双子で生まれてきた人ってどうなるの?

と、もちろん祖父を揶揄したり挑発したりするわけではなく、あくまで純化された疑問として、そう言わざるを得なかったほどに私たちは幼かったのだ

もちろんそのあとで、祖父を含めその場にいた全員で
大笑いすることにはなったのだが



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祖父の語ってくれたその真意についてはもちろん、もうわからない

可愛い孫たちに真剣に、仏教をひとつの窓とする豊かな精神性の世界があるということを伝えたかったのか、あるいは自分自身の「死」に対する畏れをひとりで見つめるために繰り返し語ったのか、あるいはそれは老境に入らなければわからないひとつの境地であったのか、それとも全く別の何かなのか

いずれにせよもう、一握の白い灰となってしまった祖父にその真意を聞き出すことは誰にもできず、かつて、惜しみない愛情をわたしたちに平等に与えてくれた祖父からそうした話を聞かされたという事実だけを、子孫のひとりとして、わたしは記憶の引き出しの奥深くに閉まっておくことしかできない


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若きパブロ・ピカソが、この「青の時代」にくらい情熱の青い炎をキャンバスに塗り込めていたこの時期に、彼はこのような言葉を遺したとされている



”人間の魂の色とは、青色なのだ”



果たしてそうなのかは、きっと誰にもわからない

しかしこの言葉には祖父が幼いわたしたちに語った「独生独死」の精神性と
深い部分で、ある有機的な共鳴があるようにわたしには思えてならなかった


つまり祖父の言葉にピカソが「青」という色彩を与えてくれたといってよい

だから、祖父が語ってくれたその言葉をひとつの素地として、わたしにはその後に知ることになったピカソのこの言葉と「青の時代」の作品群を、そのまま、一切何の抵抗もなく素直に受け入れることができる感受性を、実はすでに遥か昔、少なくとも十代の頃には祖父によって与えられていたというこの事実を、不思議と透き通るような透明性をもって、明瞭に理解できたのだ

そして、何よりわたしが思うピカソの「天才性」とは、最晩年の祖父が到達することができた深い精神性を、当時、わずか二十歳であったピカソがその真理に肉薄し、無名で貧しい、そして精神に重大な苦悩を抱え込んでしまったひとりの若い画家として、絵筆をもってキャンバスでそれを証明するために深い没頭という殻の中に閉じこもり、その中で見いだされることになった深い「青」に、ほとんど病的なまでに執着して完成させた、この「青の時代」の一群の作品には、魂の色とは、本当に青色なのかも知れない、、、、、、、、、、、、、と強く予感させる、静かな迫力が確実に内在しているとしか、このわたしには思えないのだ

だから、彼の昏い情念がこの世界に産み落とした、実体をもち可視できるこれらの時代の傑作群と、この世のひとつの真理に切り込むことができた極めて怜悧な洞察力、それに想像力、そしてそれらを青い絵の具と共に混ぜ合わせてキャンバスに、まるで時を止めたかのように永久に定着させることができる「神童」時代から磨き抜かれた、その超越した表現力に対して、畏敬の念を込めて、わたしは彼に、「天才」という呼称を冠したくなるのだ・・・


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”La Vie”(人生)
「青の時代」の最高傑作と評される大作
左手の若い男女は当時のピカソの親友、自殺したカサヘマスとその恋人ヴェルレーヌ
右手の赤子を抱えた女性は未だに解明されていない
オルセー美術館で撮影
(所蔵はクリーブランド美術館のパーマネント・コレクション)


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結局、たっぷり二時間ほどをかけて会場内をまわり、意外な場所で意外な作品に巡り合えたことに感謝しつつ、そしてやはり、ヴァン・ゴッホとパブロ・ピカソという二十世紀が生んだふたりの「巨人」に打ちのめされたのか、と少々悔しい思いを抱きながら、わたしは長い石造りの階段を下りて美術館の外に出て、目についたカフェで長い休憩を取ることにした

珈琲を飲みながら撮影した写真を整理し、その中からヴァン・ゴッホの一枚を短い感想を添えて仕事中の彼女に送信すると、意外にも即座に返信が入りそこには、ゴッホの作品はよく海外の美術館に貸し出しの旅に出ているので運が良かったねということと、仕事でちょうど外に出ていて、しかも美術館の近くにいるので、ちょっとお茶でも飲もうという嬉しいお誘いで、わたしはガラス窓の向こうに見えるチューリッヒ美術館に対して最終的には、鑑賞料として7,000円も払っただけあって、なかなかいい美術館じゃあないかこれで帳消しだぜ、という謎の上から目線の感謝の気持ちを伝え、さっと珈琲を飲み干し、彼女から指定されたカフェへ向かうために急いで席を立った





つづく






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2024年12月14日(土) 日本時間 AM 7:00

レイクチューリッヒ | 06
雪と、薔薇色のざわめき






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