しばしの別れ
しばしの別れ
もう間もなく、後一週間でこの2023年が暮れてしまおうとしている今日
小さな〈告知〉をアナウンスさせて頂こうと思い立ち、当初準備していた
〈無名の天才たちの料理本〉を取り下げることにした
もちろん大した〈告知〉ではないのだが、実は年内一杯で一度この〈note〉のアカウントを凍結させ、仮死状態にしておいて、〈書く〉ことも〈読む〉ことも、そして〈アクセスすることも〉しばらくは止めようと考えているのだ
断っておかなければならないのが、その理由は何か私生活や〈note〉内でトラブルを抱えているわけでもなく、〈書く〉ことや〈読む〉ことに決して疲れたわけでもなく、おそらくは昨今最も適した表現を使用すれば、それは
〈アウトプット〉を一度、この区切りの良い年末で停止状態にしておこうと思い立ったのだ
もちろんこのことは思いつきではなく、10月くらいからぼんやりと思い描いていたことでもある
ただもちろん、砕けた表現を用いれば〈ネタがなくなった〉わけでもなく
いくつか試験的に書き始めていた草稿は何種類かあり、試行錯誤を重ねていたのだが、それらも一度仮死状態にしておいて、来年からは逆に
〈インプット〉の、長い期間を設けようと思っているのだ
どうして今回このような〈告知〉に変更したのかはいうまでもなく、たとえわたしが〈書く〉こと止めても、それはあくまで書き手の都合なので一切の問題はないはずなのだが、〈読む〉こと、つまりこれまで親しくお付き合いして頂いた、そして、これをお読みの親愛なるフォロワーさんたちの〈新作〉を読まないことに関しては、そこにいささか問題が生じてしまうからだ
年が明けて、いきなり音信不通の状態になってしまうと、親しいフォロワーさんの、あるいはどなたかは、わたしに対してこう思ってくださるのかも知れない
あいつは・・・
まさか・・・
インドネシアの火山の噴火に巻き込まれて死んだのか!?
とか
集中豪雨で流されたのか!?
(あーれー)
とか
会長との暴飲暴食で心臓が止まってしまったのでは!?
と、無用な心配を招く結果が十分に予想できたからだ
それになによりも、たとえこの匿名性を重視した〈note〉の世界で、お互いに面識はないにせよ、そしてお互いのごく表層部分しか知り得ていないのだとしても、これまでの〈経緯〉というのは歴史のように確実に存在しているのだから、いきなり音信不通の状態になってしまうのは、皆さんにあまりにも失礼で、あまりにも礼を逸することになるので、今回は告知させて頂くことにしたのだ
そう決断した直接的な大きな理由は、来年から仕事が繁忙期に入ることがあげられる
先だってとても大きな契約がまとまり、ここインドネシアの、首都ジャカルタの中心地、それも新興エリアにバベルのように屹立つ高級ホテルの家具類の製造が決まったのだ
それは途轍もない規模で、現在はその準備として、約150名の現地スタッフの工程別のチーム再編成と、資材と情報の流れの再度の整流化、そして昼夜二交代制へのシフト編成を組む計画を立てている最中で、来年早々、一月の帰国休暇が明けてからは、この大きな戦いの幕が上がるのだ
わたしも、この国に赴任してちょうど三年目を迎えるので、ひとつの実力テストのようでもあり、このプロジェクトの大部分の、その中核を担うことになり、つまり責任を伴うことになる
もちろんそこに不安がないわけではないが、元来、わたしはこうした目標に対して計画を練り、問題点を炙り出してそれらをひとつひとつ潰していくことは性に合っていた
これから、現時点では見えざる問題点が次々と浮かび上がり、またそこには予期せぬ問題も秘められているのは間違いない
だがー
だが、最近は毎日このように思っている
その綱、渡ってみせよう
かなりか細く不安定な綱だが、渡ってみせよう
もちろん、わたしひとりで渡れるはずがない
わたしにはListianahを初め、優秀な現地人の相棒たちがいるのだ
かれらが常に一緒にいてさえくれれば、それだけでもう問題がない
納期や品質に問題が起こりうるはずがないのだ
そして、これがそのまま2024年の個人的な標語となり、だからしばらくは、この〈note〉から明確な意思を持ってしばらく完全に遮断しようと思ったのだ
確かに忙しい仕事中に、〈note〉で親愛なるみなさまの記事を読むことは良い気分転換や新しい発見にもなるのだが、もはやわたしの中では、〈note〉は単なる気分転換に収まらない、様々な思いが錯綜する巨大なツールへと自分で変貌させてしまったからだ・・・
どのような仕事においても集中力が求められることは間違いないのだろうが、わたし自身のひとつの資質、いや、気質を考えると、やはりここは仕事に集中するべき刻なのだ
しかしだからといって、来年一年を仕事のみと割り切るわけでもなく、週末や連休を利用しては、またインドネシア各地へカメラを携えて精力的に旅してまわるつもりだ
インドネシアの現在は、激動の時代を迎えているに違いない
来年二月には大統領選挙を控え、十年続いたジョコウィ政権が任期満了を迎えて退陣し、次世代の強力な指導者たちが現れようとしている
一般論ではこの国の政治の中枢は腐敗と汚職に満ちているとも言われており
現在は街中に候補者のポスターが貼られ、街宣活動が派手に行われ、マシンガンを携えたサングラス姿の警備兵が候補者を守り、その脇をサイレンを鳴らしたパトカーが各地へ急行している
人口二億七千万人による、得票率は約80パーセント超える
”世界最大の直接選挙”が開催される、アジアでも異質の国で
現在は国中が激しく揺れ動いているのだ
そうした燃え上がるような政治的な風潮が、ひとつの臨界点に向かってチリチリと高まっていきながらも、同時に自然の脅威も猛威を振るい始めた
ジャカルタの西のムラピ山が大噴火を起こし、多数の死傷者を出しながらも噴煙が上空一万五千メートルにまで達し、その気圧波の衝撃が突風と津波を呼び覚まし、空路と海路を引き裂いたのだ
加えてジャカルタは今年、WHOから”世界最悪の大気汚染”の都市と認定され、確かに空路でジャカルタへ入る際、窓からは分厚い光化学スモッグの重層的な雲が不気味に空を覆いつくているのがはっきりと見え、人体に有害なそして全てを痛めつける酸性雨を間断なく、この巨大な都市に降り注いでいるのだ
そして最近の報道では、ジャカルタでは沈静化したはずの新型コロナウィルスが汚染された空気の中で蠢き始め、新型の亜種が確認されて再び人々の命を奪い始めた
まだ罹患者数こそ少ないが、先週比では200%の増加、毒性が極めて強く、従来のワクチンの効果をあざ笑うかのように、獰猛に体内に忍び込むのだ
インドネシア政府の発表によると、低所得者を対象に無料のワクチン接種を始め、国際空港には再び体温検知器が設置され始めた
こうした首都ジャカルタの現状に、わたしのこの国における唯一の華僑の友人たちもある決断を下し始めていた
かれらのルーツは中国大陸にあるが、いわゆるマレー系の華僑で、もう一つの故国でもあるマレーシアへの移住を考えているのだ
30歳までには、もうひとつの故郷であるマレーシアに拠点を移すつもりです
若くして多言語を自在に操ることができる高い知能と、豊かな感性を持ち
同時に爆発的な行動力を秘めているかれらだ
友人たちの決断はいつでも早かった
かれらと話していると、いつも不思議な感覚が芽生えてくる
かれらの時間軸はどうなっているのだろう
40代の中盤に差し掛かったわたしにとっては、一年などという時間の単位はあっという間に過ぎ去っていく
かれらはそれよりももっと早く感じているのだろうか
あるいは逆に、極めて緩やかに感じているのだろうか
2024年も再びジャカルタで会うことになるのだろう
かれらと会うと、必ず、100%で〈note〉の記事が立ち上がることになる
次はどのような記事を書くことになるのか、自分自身でも楽しみだ
そして、ここスマランから東のエリアはわたしにとっては未踏の大地が広がっている
マドゥラ島にほど近い、ここジャワ島の最東にはインドネシア”第二の都市”
スラバヤが控えているからだ
人口300万人を抱える大都市で、ここにも多くの華僑と、そしてアラブ人たちが支配する巨大な海洋都市だ
第二次世界大戦におけるインドネシアでの最大の激戦地でもあった歴史を持つせいなのか、スラバヤにある在日本大使館からは毎週のように〈危険情報〉を知らせる電子メールが送られてくる
”暴動”・”デモ行進”・”賃上げ交渉”
”近づかないでください” ”近づかないでください”
来年は一度、この”闘争の街”にも行って旅行記を書いてみるつもりだ
そしてそのスラバヤのさらに東には、世界的な観光地でもあるバリ島が鎮座している
今年の四月のIdul Fitriではようやくバリ島へ行くことができそうだ
これまでも行く機会がないわけではなかったが、コロナウィルスの影響でスマランからの直行便が一時的に消滅していたのだ
三月にCEO(49)の長男が生まれてくることもあり、今年はわたしがここインドネシアに残る予定なのだ
この長期休暇を利用して、ビーチフロントのあるホテルでも取り、海沿いでビンタン・ビールでも飲みながら水着姿の女の子でも眺め、この〈note〉に復帰することになるのかも知れない
日本についても書きたいことがあった
わたしには4歳と2歳になる可愛い姪の他に、今年2歳になった甥もいるのだ
この甥との交流については来年以降はたっぷり時間を取って、何度も推敲しながら大事に書いていこうと思っている
この子は両手に小さな障害を持って生まれてきたのだ
わたしの弟の長男になる子なのだが、2年前の初夏に生まれてきた夜に、弟は泣きながらわたしたちの母親に電話したらしい
そのときわたしは、コロナウィルスの影響で海外から完全に引き上げて、日本で働こうと考えていた時期だった
すでに40歳は超えていたが、転職や再就職のことでこのわたしが悩むということは一切なかった
自分では何でもできると思っているし、広大な「世界」は常に全開に開いているように思ってもいる
そして何より気軽な独身なので、失うものがほとんど全く何もないのだ
例え給与が下がっても、また稼げばいいだけだし、わたしの身につけるものは長年連れ添ってきたタフでなければならないモノたちがそばにあるので物欲はなかったし、お酒もあれば飲むがなければ何日も飲まなくて平気なのだ
だから転職については、わたしの母はあるいはわたし以上に、何も心配していなかったに違いない
小言を含めて何かを言われたことは一切なかった
小さな姪たちが当時暮らしていた佐賀県の伊万里市にほとんど毎週のように母とふたりで遊びに行った
そうした時期に両手に障害を持った甥が誕生し、家族会議の中でわたしは再び海外へ出ることを、ほとんどその夜に決断したのだ
当時の時点の話として、その生まれたばかりの甥には数回の手術が必要だと医師から告知されていた
手術費用は一度に300万円
それが少なくとも年に三回以上
わたしが再び海外へ出る決断をしたのは、だからお金のためだった
稼ぐのに最も手っ取り早いのは慣れ親しんだ家具の世界へ戻るのが一番だったし、海外で仕事の仕方の大部分を学んできたからだ
わたしは家庭をもっているわけでもないし、子供を養っているわけでもないので、その手術費を含めて小さな甥をバックアップすることくらいは十分に可能だと思っていたのだ
”超強力な足ながおじさん”として人生を送るのも悪いことではなさそうだ
資金面だけでなく、以前、ドイツのミュンヘンで知り合った、当時医学生で現在は東京で大病院の外科医になったの友人にもコンタクトを取り、その複雑な手術に高い評価を得ている最先端の先生への紹介状も書いてもらい、その先生の書いた長大な英語の論文も五本取り寄せ、翻訳ツールを使って解読し、知識を蓄え、指先の神経の仕組みを洗い、万策を尽くした
その当時、わたしは少し英語が話せるということもあり、地元のワクチン接種会場で在日外国人の方のワクチン接種のサポートの短期アルバイトをしていた
素敵な女子大生スタッフに囲まれながら、アルバイト代のほとんど全ては
彼女たちへの慰労会の名目で業務後の居酒屋やBARでほとんど全てを支払い、のほほんとした安らかな日々を送っていたのだが、甥の一報を聞き即座に終止符を打って去り、”一撃必殺”で今の会社を仕留めて、会長と玲於奈社長、CEOの三人がわたしを拾って下さったのだ
しかし誤算だったのは、その手術費用だった
わたしたち家族は誰もこのような経験を持っていなかったということもあるし、だからほとんど知識を持ち合わせていなかった
結果的に福岡県からの補助でその高額な手術費用のほとんど全てを行政が支払ってくれたのだ
前回の帰国時に、弟の嫁から手術代と入院費、諸経費の明細を即座にデータで取り寄せ、本人とも直接話したが、その合計金額とはつましい大学生の一か月のアルバイト代程度の金額で、明細の大部分は、そのママの付き添い入院の「シーツ代」のみ・・・
弟の嫁はいった
お兄さん、ありがとうございます。でもたったのこれだけの費用なので・・・お支払いはもちろん済ませてありますよ!!
その日は弟は仕事だったので、母と甥とママを連れて、ROYAL HOST(水城店)でパンケーキを食べに行った
こうした家族間のことは、あるいは記事としては書くべきことではないのかも知れない
それは、いくら親しいフォロワーさんであれ、気軽にコメントとして踏み込む領域に在る内容ではないことが大きかったからだ
しかしわたしのフォロワーさんの中には〈家族〉について様々な視点から独自の表現で、印象的な素晴らしい記事を書かれる方が多いというのもひとつの特徴だった
コメントを出しても、こちらが恐縮してしまうような温かな返信が多かった
「家族の在り方」とは、時代に関係なく様々なのだ
その方々の素晴らしい記事の熱に当てられたということはもちろんあるのだが、それ以上に、この〈note〉を含めたSNSの在り方がわたしの中で変化を起こしていることもまた、間違いなかった
順当に、普通に考えて、4歳と2歳の姪、そして両手に小さな障害を持つ2歳の甥も、おそらく間違いなく、やがてSNSのアカウントを持つのだろう
それが5年後なのか、あるいは10年後なのかはわからないが、わたしの想像以上に速いような気もしている
そうしたときに、彼女らがわたしの記事を読むことももちろん考えられる、というよりかは、いつかは必ず読みに来る日がやって来るに違いない
そうした未来の彼女たちに、何か名文を残しておこうという考えは全くなくて、この〈note〉は、家族間の記録と考えても、最も有効な手段のひとつなのだ
なぜならば、たとえば他界した父の、現在のわたしと同じ〈44歳〉の記録はどこにも何も残されていないからだ
〈44歳の父〉が当時何を考え、どのような文章を書いたのかはわたしには知る由もないし、これまでは考えたこともなかった
〈44歳の父〉がいたころは、わたしはおそらく小学校の高学年だったはずで、毎日自宅で顔を合わせて一緒に夕食はとっていたはずだが、そのときの父への記憶は間違いなくあるが、〈記録〉は一切ないのだ
しかも、本人が本人の言葉で綴った〈文章〉は一切残されていない
それを考えると、大好きだった祖父や祖母の壮健期や若い頃のエピソードもほとんどないことになるが、現在のSNS、特に文章を書くことに特化したこの〈note〉には、それらを当たり前のように覆すことができる、時空を超えた普遍性さえをも内在させた特別な意味を帯びた機能性があるのだ・・・
そうした視点では、だから〈note〉は書いて書いて、書きまくるべきツールなのだ
単純に割り切っても、「数」だけが多くても良いように思えてもいる
自分の言葉でさえ綴ることができるのであれば、そこに優劣はなく、ただ傾向として「好み」だけは現れるのだろうが
わたしのこれまでの記事も、実は見えない部分で小さな批判やわたし自身の認識の誤りで相手に不快な思いをさせてしまったことがないわけではないが
投稿を止めることはなかった
個人の〈アウトプット〉には、どうしても不特定多数の全てを満足させることなどは決してできないからだ
なぜならば、いうまでもなく、「不特定多数」は「わたし」ではないからだ
当然そこに軋轢は生まれる
逆に最近は、特定の個人を攻撃するつもりは全くないとの認識を改めて表明しつつも、少し物議を醸しだすような記事を書いてみたいとも思うようになり始めている
その思いが、わたしの、いったいどこから出てきているのかは自分自身でもわからないのだが、衝動のように〈戦いたい〉という強い意志が芽生え始めているのもまた事実だった
〈戦って、死ね〉
わたしは、争いはおそらくはこの〈note〉の世界においても最も忌み嫌う一人のはずだが、この一年の終わりに、そうした出所が不明な感情が芽生えているのも、この一年の〈note〉での結果のひとつで、それは驚くべき事実でもあった
それが良い方向への変容なのか、それとも真逆への変貌なのかはわからないが、〈結果〉のひとつであったことは間違いない
それが来年から始まる、仕事上の大きな〈戦い〉に大きく関係していることは、自分自身でもよくわかってはいるつもりなのだが・・・
だから、来年以降はこの愛すべき〈note〉から一旦、完全に離れて、本来わたし自身がすべきことに打ち込むつもりでいます
それ以外に他意はなく、今回もつれづれなるままに書いてしまいました
また、この〈note〉で再会しましょうね
復帰後は、みなさんの作品を過去に遡って拝読させて頂き、そこに多少の時差は生じますが、いつの日か、別の日か、必ず舞い戻るつもりでいます
それまでどうか、お身体だけはご自愛ください
では
また
Yukitaka Sawamatsu
〈小さなお知らせ〉
年内にコメントを頂いた方にはご返信も可能なのですが、来年以降はコメント自体を読めない環境になるため、ご返信が一切できなくなります
悪意や他意は一切ありません
どうかご理解願います
NEXT
日時未定
”放蕩息子の帰還”
おしまい
どうもありがとうございました