生きづらさをチカラに~心のリハビリ~
普通、なんてない。
なんで?って…ひとりひとり、おんなじ人間なんておんなじ人生なんてないのだから。
私の普通、きみの普通。
誰かのものさしでは測れない、その人にしか分からない感情や経験が『私とゆう普通』になる。
だから理解して貰えなくても、仕方ない。
きみには普通に出来ることも、誰かにとっては精一杯がんばらないと出来ないことかもしれないし。私には自然に想えることでも、誰かにとっては自然に想えることではないことだってある。
私の声の小ささは、周りから見たらそれが今の私の姿として映っている。けれど私にとっては…悔しくて堪らない。声を出せて元気だった頃の自分を知っているから…言いたい事を言えない、喉元まで出てこようとしている言葉達が何故か体の奥の方まで戻ってしまう。声を聴き返される度に喋れなくなる度に…今の私を突きつけられる。
声を出して笑うことも、家族以外には出来なくなった。私はどこに声を置いてきたんだろう、と…その瞬間は想い心俯いてしまう。元気な頃の私は家族以外の人達に、どんな風に心をオープンに開いていただろう?と……あの頃の私にふと尋ねたくなる瞬間がある。
病院で働いていて、感じる。私にも心のリハビリが必要なんだろうと。手や足、体全体のリハビリも、毎日の積み重ね。1日1日、凝り固まった体を解し動かしながらそれが筋力になりその人にとっての今のチカラになってゆく。声も食べ物を飲み込むチカラも、筋力が必要になるんだと……日々患者さんのリハビリから感じさせられる。
心もおんなじ、かもしれない。
ずっとずっと昔の話でも、傷みが深ければそれだけ、その傷みが癒えるには時間がかかる。それだけの傷みだったのだと…まずは傷を負った自分の過去を許してあげてほしい。
もう38歳になったのに…… と、自分を責めないでほしい。複雑性PTSDになってしまったのは、仕方のない現実。病気になって気づけたことも、沢山ある。
沢山の傷みを知ったから、誰かの表情から声なき想いを感じられるようになった。まだまだ働きながら学ぶことも多いけれど…沢山の患者さんから今も、逆に私の方が生きるチカラを貰う瞬間もある。
体と心は繋がっているから、体が想うように動かなければ心も俯いてしまう。みんなそれはおんなじ。でも誰かと話すことで一瞬でも笑顔になれたり、悔しい想いをチカラに変えようときつくてもリハビリをがんばったりしている。そんな姿を見ながら、私も枯れそうな心の花に、水とゆう生きるチカラを注いで貰っている。
看護師さんや先生達をサポートする、私達看護助手(ナースエイド)。資格はないけれど、縁の下の力持ちとして支えられる、患者さんの心に少しでも寄り添える……そんな看護助手(ナースエイド)になってゆきたい。
少しずつでも自信をつけてゆきたい、と資格の勉強も始めた。看護助手と認知症介助士。きっと知識として持っておけば、少しは自分のチカラになってくれるかもしれないと、そう想ったから。
ゆっくりゆっくり……
心の氷を溶かす春風のように、溶けない傷みはないんだと信じて『心のリハビリ』をがんばっていきたい。
ほんの少し、
何をするにも臆病になってしまっただけ…
だから、『大丈夫』。
凝り固まった心を、深い深い傷みを…
解し和らげてゆく心のリハビリ。
まずは『ここまで生きてこれたこと』に……
ありがとう。
『泣いてばかりのあなたは、
いつでも胸を張れる程にちゃんと生きてる
泣いてばかりのあなたよ、
明日は少し笑って前向いてみよう
天気予報だと夜にはまた雨
でも平気さ 歩き出せるよ』(wacci 泣きっ面の歌詞より)