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滲む ③【短編】



 わたしはほんの数ヶ月前まで、四条通から木屋町通を少し下りたところにある小さなフレンチビストロでアルバイトをしていた。フランスのリヨンで修行をしてきたオーナーシェフのつくるリヨンの郷土料理が評判の、知る人ぞ知ると云った評判の店だった。
 沙耶から大事な話を聞かされたのは、まだ12月になって間もないのにとても寒い夜だった。
 最後の客が店を出ると、わたしは外の看板を店の中に入れて扉の上の明かりを消した。オーナーが厨房を片付ける音が狭い店内に響く。
 ほっと一息ついてから、閉店後の片付けにとりかかろうとしたそのとき、紗耶が「わたしここのバイト辞める」とわたしの耳元で囁くように言った。「なんで?」驚いたわたしは咄嗟に訊ねたが、紗耶はまた後でと言ったきり、掃除を続けた。
 仕事を終えて紗耶とふたりで店を出た。いまにも雪が舞いそうな凍えた空気の中を沙耶と二人で白い息を吐きながら、背中を丸めてポケットに手を入れて、スニーカーの踵をアスファルトに擦り付けるようにしながら並んで歩いた。
 あっという間に師走になった。これと云った人間的な成長も感じられずにわたしの二十歳が終わろうとしていた。空っぽの二十年だったな。夢だとか目標のために一度だって主体的に動いたことがあっただろうか。そんなことを思いながら雑踏を歩く人たちを眺めた。
 紗耶とふたりで木屋町通から四条通に出てすぐの場所にあるマクドナルドに入った。二階の奥のテーブル席に座り、ホットコーヒーを飲みながらふたりでLサイズのポテトをつまんだ。もう23時になろうというのに煌々と明るい店内は学生らしき若者たちで賑わっていた。
 「あそこの店辞めることにした」そう言って紗耶はポテトを二本つまんで口に入れた。わたしは黙って紗耶の目を見つめた。紗耶はわたしより一歳年下だが、あのビストロでのアルバイト歴はわたしよりも少し長い。わたしが働きはじめた当初、わたしに仕事を教えてくれたのが紗耶だった。真面目で性格も優しい。明るくてスタッフの皆から好かれている。わたしも懐いてくれる紗耶のことを妹のように思っていたし、友情も感じている。
 「真衣は」紗耶はそんな風にわたしのことを名前の呼び捨てで呼ぶ。年下なのに紗耶からだと呼び捨てにされても全く気にならない。きっと彼女の人徳のようなものなんだろう。
 「真衣は柏原さんとわたしの関係知ってた?」わたしは紗耶の言葉を聞いてもすぐには理解できずに、何のことだろうと一瞬だけかんがえてから、えっと驚いた。柏原さんは同じバイト先の先輩で、二十代中頃の男性スタッフだった。紗耶からの意味深な問いかけが意味するものは、だいたい察しがついた。
 「もしかして柏原さんと付き合ってたの?」わたしの問いかけに紗耶がコーラをすすって頷いた。
 「半年前から付き合ってた。みんなには内緒でね。でも気づかれたみたい」
 全然気が付かなかった。わたしはそういう空気を読むのが苦手というか、鈍い。こういう、わたしだけが知らずにいたということが度々ある。それにしてもわたしが驚いたのは、わたしも3ヶ月ほど前に柏原さんから関係を求められたことがあったからだ。わたしは柏原さんのことはなんとも思っていなかったし、見た目はモテそうだけど軽い雰囲気の男性は苦手だった。そんな理由もあってきっぱりと断った。そのせいでこれから柏原さんと働きづらくなったら嫌だなと思い憂鬱な気分になったけれど、柏原さんはサバサバしたひとなのか、物事を深く考えない性分なのか、そんなことがあってからも何事も無かったかのように振る舞った。わたしを求めてきたのも柏原さんからすれば、単にわたしをからかっただけだったのかもしれない。そうだとしてもふざけた態度で女性に関係を求める柏原さんには嫌悪感を抱いた。いまでも柏原さんとは必要以上の会話はしない。そんなことを思い出しながら、ポテトをつまみながらコーラをすすっている紗耶をみて、わたしと柏原さんの間にあったことは黙っていることにした。
 「それにしてもわたしには知らせて欲しかった」何故わたしには柏原さんのことを打ち明けてくれなかったのか。目の前にいる紗耶の色が少し暗く濁ったようにみえた。
 「みんなには知られたくなかったから。結局知られてしまったけど」間を置かずに紗耶は続けた。
 「だって柏原さん、結婚してるから。そんなことをみんなには言えないよ。いくら真衣にでも」
 一瞬で目の前が暗くなった。衝撃を受けると目の前が暗くなるというのは本当なんだと知った。
 「柏原さんが結婚していたなんて、知らなかった」やっと口から出た言葉は月並みでしかなかった。人間が余程驚いたときは月並みな言葉しか思いつかないのだろう。たしかに、気のきいた言葉をはき出す余裕なんて無い。
 「柏原さんの奥さんって十歳年上の人で、もともと人妻だったの。そしてその柏原さんの奥さんは、あの店で働いていた人らしい」紗耶の言葉がわたしの頭を揺らして、目眩がした。暫くの間なんだかふわふわした気分になり、思考が失われたような変な感覚にとらわれた。
 「紗耶は柏原さんと不倫していたって、ことかな」唖然とした様子のわたしに紗耶が答えた。
 「そう。だからお店では内緒にしていたの」
 「オーナーは知ってたの?」やっとの思いで紗耶に訊ねた。紗耶は飲み干したコーラのカップに残った氷をストローでかき混ぜながら答えた。
 「わたしたちのことは気づいたらしいんだけど、その柏原さんの相手の人妻はさ、オーナーの奥さんの妹だったんだって」
 わたしの頭はすっかり混乱した。柏原さんの相手は人妻で、オーナーの義理の妹で、その人妻は夫がいながらも柏原さんと関係をもち、そして店を辞め夫と別れ、柏原さんと結婚した。柏原さんはいまも厨房でオーナーの右腕として働いている。
 紗耶が言うには、柏原さんの結婚にまつわる話は、それが略奪めいたきな臭い話なだけに店の中ではタブー扱いになっていて、その頃のことを知るスタッフもあまり自ら進んでは口にしない。そしていまではそのことを知るスタッフも僅かになった。
 「わたしが不倫をしてるなんて、真衣には言えないよ」わたしは黙ったまま紗耶の顔を眺めた。一重瞼だがきれいな半円のかたちをした目が紗耶のチャームポイントだった。わたしよりも一歳年下なのに大人びていて、男性からもモテる華のある女の子だった。
 「それで、まだ付き合ってるの?」わたしの問いに紗耶はすぐには答えず、相変わらずカップの中の氷をかき混ぜていた。
 「まだ続いてる。でも別れる。だって不倫なんてしたくないし。わたしも柏原さんは結婚してるなんて知らなかったんだよ」
 柏原さんはずるい。なんて卑怯なんだろう。アルバイトの皆で飲み会をしたとき、わたしがトイレから出るとそこに柏原さんが待ち伏せしていたことがあった。酔ってにやついた顔でわたしの行く手を遮るように立っていた柏原さんの下品な顔を思い出した。
 「クズじゃん」思わず言葉が漏れた「だって同じ職場の人妻と不倫して、その人と結婚したのは仕方ないとしても。結婚していることを隠して同じ職場の紗耶に手を出すなんて、クズだよ」紗耶は黙っていた。
 目の前にいる紗耶の白くて綺麗な肌と、柏原さんの浅黒い肌が重なり合うところを、汗ばんでしっとりと湿った紗耶の身体の上に覆い被さるようにして、荒い息を吐きながら紗耶の開いた両脚の太もものあいだに腰を打ちつける柏原さんの歪んだ顔を想像した。そんなとき沙耶はどんな声で喘ぐんだろう。そして目の前にいる紗耶のニット越しに膨らみをみせる柔らかそうな胸が、柏原さんの身体の下で揺れるさまを想像して、目を伏せた。
 「ねえ」わたしは紗耶に声を掛けた。
 「紗耶は柏原さんが結婚していたこと、本当に知らなかったんだよね?」紗耶は黙ったまま頷いた。そのとき紗耶の目が少し潤んでいるような気がして、わたしは思わず「ごめん」と言って紗耶の手を握った。コーラのカップを持っていたせいか、紗耶の手は随分と冷えていた。わたしはしばらくの間、紗耶の手を握り、さすり続けた。
 しばらく手を擦っていると、突然沙耶が言った。
 「先輩から誘われて夜職することにした。真衣もどう?一緒にしない?」

 一緒に夜職しないという沙耶からの突然の言葉に呆気にとられた。 
 「夜職って、キャバクラとかスナックとか、そういう仕事のことだよね」今夜の紗耶は驚くようなことばかり言う。わたしの鈍い頭ではもうこれ以上は回転が追いつきそうになかった。
 「ねえ、あのビストロはもう一緒に辞めて、わたしの先輩の勤める店で一緒に働こうよ」ついさっきまでは焼香の順番を待っているときのように沈んだ表情を見せていた紗耶が、いつもの陽気な表情でわたしに迫ってきた。
 わたしは紗耶の勢いに怯みながら、水商売なんてわたしには絶対に無理だと思った。根が陽気なわけでは無いし、会話が上手なわけでもない。外見だって、からかわれたり罵られるようなことはさすがになかったけれど、決して美人ではない。それに、夜の仕事は怖い。夜の街自体が怖い。
 喧嘩や恐喝。クスリの売買。肩をいからせて闊歩する暴力団員。派手な化粧にあざやかなドレスをまとった女たち。ヤクザがらみの店でひどい目に遭って道端に転がっている惨めなサラリーマン。巡回中の警察官ともめ事を起こす金髪の不良たち。そんなねじ曲がった欲望や暴力が充満する街。世の中が普段は隠している、諸々の闇の部分を凝縮して吐き出した場所。
 わたしは紗耶の顔をみた。何故だか心が揺れた。断ってしまうのもつまらないという気持ちが僅かにあった。潤んだようにもみえる紗耶の瞳に映るわたしの姿は、ゆらゆらと揺れているんだろう。



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