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自分で書きながらも、おもしろすぎてニタニタし、読み直してみても 「ヤバい、面白すぎる」 と、ニヤニヤが止まらず、これはバズッちゃうかも?と自画自賛しているnoteはあまり読まれてなくて、普通に自分の気持ちをストレートに駆け引きなしで書いたnoteのほうが読まれる不思議。 たぶん、面白いと思って書いているものは狙っている感じが見え見えなんだろうなと思う。なんでも調子に乗っている時というのは結果がよろしくない。 仕事の原稿を書いているときもそう。どうも調子が悪いなと思いな
もともとはというか今もかなりのおしゃべりガール。 「あんたのマシンガントークは健在ね」 なんて言われてやっと、自分ばかりしゃべっていたことに気づく始末。自分が体験した面白かったことを共有して笑わせたい、楽しませたいという、単に人が喜んでいる顔を見たい、わたしの話で涙がでるほど笑って喜ぶ姿をみるのがうれしいという気持ちなだけなのだが、時としてそれは自分だけが楽しいときもあることを知る。 特にライターをしていると、仕事をしているときは当たり前だが聞き役に徹しなければならない
「ねえねえ、どうやったらライターになれるの?」 友人の中学2年女子にいきなり聞かれた。 「どうしたらなれると思う?」 「わからないから聞いてるんだもん」 「じゃあ、なんでライターになりたいの?」 「書くのが好きだから」 「どんなのを書きたいの?」 「洋服やメイクが好きだからファッションの雑誌とかそんな感じの本を書く人になりたい」 「なるほど」 ここで止まった。一応、質問はしてみたものの努力してライターになったというより、時の流れに身を任せていたらライターになっていたので
幼稚園から小学生時代はなかなかの内向的な少女だったため、本が友達だった。さらに小学校から家まで1.5kmの道のりをあの短い足で登下校していたもんだから、すこぶる遠く感じ、なんとか家まで気を紛らわす方法がないものだろうかと思って考えたのが国語の教科書を読んで帰ること。 別に読みたくて読んでいたわけではないのだが、小さい体にランドセルしょって、国語の教科書を読んで帰る姿は、いつしか近所で 「秋田の二宮金次郎」 とまで呼ばれていた。 「さほど頭よくないのに、みんなにきっと東
1人ドライブの楽しみはラジオ。普段も聞くのだが、掃除しながら、料理しながらとあちこち動きながら聞いているもんだから途中で、何の話?と離脱してしまう。 音楽だけ流れる有線みたいなのも好きだが、めっきり音楽と縁遠い生活になってしまい、最近の歌はよくわからないし、昔の歌は聞いたことあるな~誰だっけ?タイトルは?と考えているうちに終わってしまい、ちっとも楽しめない。 これらを総合すると、ずっと同じ場所に座ってただ運転しているときが一番ラジオをゆっくり聞けるのだ。ラジオにのめりこん
仕事は終わりもなければ、正解もない。とはいえ、どこかで区切りをつけなくてはいけないジレンマと毎日戦う。それが仕事。 文章を書く仕事は正解がないために、何度も何度も読み直す。読み直すたびに書き直すも、いつまでたってもこれで完璧!という原稿ができあがらない。しかし、納期は守らなければならない。今まで数えきれないくらいの原稿を入稿してきたが、「完璧!」と自画自賛した原稿はいまだかつてない。 ある程度、納得はしつつ納品をしているというのが現状だ。 昔のメモを読み返して「自分が納
本屋に行くと、実に多くの自己啓発本がある。人それぞれ人生山あり谷あり。迷った時、悲しい時、落ち込んだ時などなど、方向性がわからなくなっているとき読みたくなるのだろう。普段は立ち入らないコーナーになぜいるのか。「はい、迷いに迷ってます」だから自己啓発本コーナーにいるのだ。 時の流れに身を任せ~♪ なんて歌もあるように、時には何も考えずに流れに身を任せるもよし、いやいや身を任せる生き方は何も進まない!少年よ大志を抱け!と発破をかけてくる強気の本もある。 さてさて自分はどっちが
ということで本来であれば自我が芽生え始めるころのイヤイヤ期、そして中学~高校くらいのちょっととんがっている時期を経て、大人への階段を登る。 のだが、お母さんが子育てノイローゼだったのを肌で感じ取ったらしいわたしは、お母さんの機嫌を損ねないように、イヤイヤしないような子だったらしく、さらにお母さんの怒りにふれるとめんどくさいと感じ取っていた中学高校時代は基本いうことを聞いていた。 そんな風に人の顔色をうかがって成長したわたしは、大人になってもそのくせが抜けない。とはいうもの
だいぶ昔のメモをnoteに転記しているため、ライター歴数十年たった今では当たり前のことだなと思うこともあるが、初心忘れるべからずなことも多々ある。 最近は、仕事を詰め込んで取材を一気に終わらせたいなんて生意気なことを考えることがある。そんなときはとにかく聞きたい内容を質問シートに沿って聞き、ある程度話が聞けたらありがとうございましたと終わることが多い。 昔はひとつひとつそのときに感じたなぜ、どうしてを素直にぶつけたり、私ならこう思うが・・・なんてやり取りをへて、相手が本当
とある取材でこんなことを聞いた。 「僕たちが提供しているサービスは全然褒められないんですよ。通常運転ができて当たり前。不具合が起きたら猛烈に怒られる。褒められたことがないんですよね。」 なんか共感しまくりなのはなぜだ…激しくうなずいてしまう・・・ は!ライターも同じではないか。 インタビューして、まとめて、さらに読者が読みやすい、理解しやすいように試行錯誤して作り上げて、さらに何度も見直して、構成を変えたり工夫してストーリーを作っても、全く褒められない。特に雑誌は読者
ライターの三種の神器とは? と自分で書いておいて、自分は3つ以上あることに気づく。 1.スマホ ボイスレコーダー兼当日の連絡ツール 2.ノート 結局メモにいいことが書いてある 3.ペン ノートにペンはセットでしょ 4.名刺 あいさつに名刺がないのはカッコ悪い と四種の神器となってしまった。このほかにPCもしくはタブレット、カメラなんていう人もいるかもしれない。 さくっと書ける旅行ガイドやホテル取材などは念のため録音するがほぼ聞き直したことがない。結局、ノートの走り書き
漫画は読書じゃない!なんていう人もいるが、立派な読書。 1冊の本を読むのは時間も集中力も必要。 1冊の本を読み上げることで、系統立てて物事を考えられるようになるのだ。 漫画といえども、ストーリー展開に 「そうきたか!」 と思うこともあるだろうし、何より集中力が養われる。 いつも書き始めが一番つらい。あ~だこ~だ考えているうちにだんだんいやになって、別のことをして気を紛らわしたりする。先延ばしにしているだけなのに。 こういうときは本を読んでも注意散漫。仕事が終わって
最近、観光関連でよく言われている 「普段そこいらにあって地元の人にとっては当たり前のことでも、観光客にとっては奇跡的なもの」 これはライターやっているとよくわかる。 最初は新鮮であれもこれも調べるのだが、あまりにも同じカテゴリーの記事ばかり書いて、感覚が麻痺して当たり前になってしまうと、読みやすくしようとだいぶ端折るようになる。 ライターはマニアックじゃないと気づけないことにも気づいて記事化しないといけないのに、当たり前なってしまうとこれがとても難しい。 ということで
ライター駆け出しの頃、某旅行雑誌のガイド記事を数多くこなしていたのだが、取材をするとついつい自分の思いをぶっこみたくなって熱く語ってしまうことがあった。 ガイド文には主観はいらないのだ。が、普遍的な主観は必要。 客観性を大事にしながら普遍的な主観を盛り込む なんてことを書いていた。 「主観をいれられないなんて!こんなガイドブックおもしろくない!」 なんて生意気なことを思っていたが、自分が面白いからといってみんなが面白いと思うはずがない。特にガイドブックはその土地に行