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【映画批評】『オッペンハイマー』クリストファー・ノーランの罪と罰
はじめに
本作は、原子爆弾の開発者である理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマー博士について『ダークナイト』三部作、『インセプション』のクリストファーノーラン監督が映画化したものである。本作は第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞を含む7部門で最多受賞を果たした。しかし、本作は原爆という大きなテーマにもかかわらず、クリストファー・ノーラン本人をオッペンハイマー博士に自己投影させた極めて個人的な映画だ。
物語
赤狩りの嵐が吹き荒れる1954年、ソ連のスパイ疑惑を受けたオッペンハイマーは、秘密聴聞会で追及を受ける。1959年、その事件の首謀者ストローズの公聴会が開かれる。本作は、これらとオッペンハイマーの生涯の時系列が交錯する形で展開する。
異なる時系列を交互に進行する一人称映画というノーラン節の集大成。
本作は、モノクロとカラーの2つの時間軸が交差する形で進行する。オッペンハイマー博士が、大学を出て、原子爆弾を開発する過程が時系列順にカラーで描かれ、聴聞会がモノクロで時間を逆行する形で描かれる。オッペンハイマー博士の一人称なのだ。
オッペンハイマー博士はぼーっとしている。脳内には物理学の原子の世界が広がっている。声をかけられてふと我に帰る。
なぜこのスタイルなのか。その監督のスタイルはその監督の生活態度が現れると日本の映画監督増村保造は語ったが、時間軸を入れ替えたり、一人称のノーランの人間性が表れている。
実は、ノーラン監督はアスペルガー症候群で同じくアスペルガー症候群のオッペンハイマー博士に共感しているのだ。
アスペルガー症候群は、社交的な困難や特定の興味に強い集中を伴う自閉スペクトラム症の一形態。得意なことと苦手なことに極めて能力の差があり、知的障害はなく、高い知能を持つこともある。歴史上の偉人もアスペルガー症候群と言われている人が多く、エジソンやアインシュタイン、そしてスピルバーグもそう診断されている。ノーランが時系列をなぜいじるのかはアスペルガー症候群の特性と関係している。アスペルガー症候群の人は、視覚的に発達しており、ビジュアル思考の人が多い。クリストファーノーランが時間や空間を独特の解釈で映像化するのも彼がアスペルガー症候群だからだと言える。そしてアスペルガー症候群の人は、フラッシュバックを起こし、過去の強い感情やストレスを突然思い出し、感覚的に再体験することが多々ある。彼らには時間が相互的に影響を与えるように見えるのかもしれない。
このことが、本作のスタイルに大きく関わっていると考える。
本作は究極のクリストファーノーランによる究極のアスペルガーフラッシュバック一人称映画である。アスペルガー監督によるアスペルガーの内面を描いたアスペルガー映画である。
人間に興味がないが故に「それを作ったらどういうことになるか」が想像できず、原子爆弾を開発し「核の恐怖による偽りの平和」の社会を作ったことへの十字架を背負うという話だ。
オッペンハイマー博士は、物理学意外に興味がなく、自分の家に台所がないことさえも気が付かない。クリストファーノーランは、オッペンハイマー博士から世界がどのように見えるのか徹底的に描き、オッペンハイマー博士の記憶をIMAXに印字した作品である。他のノーラン作品もそうだが、今作は今まで以上にクリストファー・ノーラン自身の頭の中の構造を我々が見る。ノーランの時系列いじり癖とオッペンハイマーの内面が交差し、原爆を開発するのと問い詰められるのをモノクロとカラーで描く。
オッペンハイマーは自分で計算したり作ったりすることはない。それらをやる科学者たちを束ねる仕事である。つまり映画監督と同じなのだ。原子爆弾の実験場所は、映画の撮影所。映画監督であるノーラン自身が映画を作る様子とオッペンハイマー博士が原子爆弾を作る様を重ね合わせる。原爆を開発してしまった人間の贖罪。ものを作る事で背負う十字架。スピルバーグの『フェイブルマンズ』もそうした映画。天才が天才に共感する極めて内向的で個人的な映画である。
原爆を描く作品としてどうだったのか。
アメリカでは広島長崎での原爆投下は正しいと言われている。原爆や放射能の被害を知らないからだ。それを払拭する映画だっただろか。反核をテーマにしているのならば、もっと視野に広がりがなければならないだろう。原爆の被害者の人にインタビューをしたことがあったが、僕らの想像を絶する世界で、自分の世界を生きている場合ではないと思った。奇しくも、クリストファーノーランもオッペンハイマー博士も自分の世界を生きているが為に、想像力に欠けるのだ。『窓際のトットちゃん』や『この世界のかたすみに』のように日常に戦争が侵食する様子や、市井の人の苦しみなども描いて欲しかった。ほとんど赤狩りの映画だった。
総括
ノーラン映画が、ハリウッド映画界の作風のトレンドを変えてしまったことでノーラン自身の罪の意識が、原爆を作ったオッペンハイマー博士の贖罪に重なる。ものを作る人は、その人にしかわからない十字架を背負うらしい。作品が人々に影響を与えてしまうからだ。本作は、原爆を作った人の伝記映画というよりは、クリストファーノーランのそうした罪の意識が反映された個人的な映画である。そういった意味では、クリストファーノーランらしい映画ではあるが、反核映画としては主観的であるし、演出はいつもの引き出しなのでマンネリ化している。会話劇なのでIMAXで撮るべきなのかも疑問だ。
一年待つほどの作品だったのか。
反原爆映画としては、もっと頑張ってほしかった。
クリストファーノーラン監督には、ドラマの演出について自分のスタイルにこだわらずもっと新境地を切り開いてほしい。
原子爆弾についてはジェームズキャメロンに期待。
ノーラン次回作は『オデュッセイヤ』だそうだ。
演出☆☆☆☆
映像☆☆☆☆
物語☆☆☆☆
テーマ☆☆☆☆
75点