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【随想】薄情と友情

 人との「繋がり」とは、一方で「柵(しがらみ)」である。私は、長らく人間の良い面を見るという事と、悪い面を見ないようにする事を同じにしていた。そうして、知らず知らずの内に心的負荷を抱え込んでしまっていた。

 相手の要求を計りかねる時、私は恐怖する。人の求める事に従う事で、人間関係を築いてしまうからである。他者の無償を信じながら、その実、無意識に疑っているのだ。それに、私はいつも簡単に人を尊敬する。そして、簡単に失望する。それは、前述の人の良い面を本当の意味で見抜けていなかった所為である。

 結果的に私の人間関係は希薄となった。他者にとって、良い人でいようとした分だけ薄情者となる。我慢して私と付き合ってくれていた人たちの気持ちを私の身勝手な我慢の限界で、何の前触れも無く、ある日無下にしてしまうのであった。

 所属するコミュニティが変わる時、無料通話アプリLINEでブロックしたアカウント一覧を眺めてみたら、殆どが知らない人たちであった。そして、知っている人も、仲の良かった人も、お世話になった人も、付き合いたく無かった人も、先の知らない人たち同様に迷うことなく削除した。

 人生の、加害・被害の比率を見れば、私は加害の方が多いのかもしれない。「自分が居なくても誰も困りはしないだろう。」という意識が、私が消した人たちの中では心の傷になっているかもしれないということを、私は全く考えてこなかったからだ。

 自己評価の高い・低いとは、一体誰を基準にした自己評価となるのだろうか。凡その人間はきっと毎秒悩み、苦しんでいる。傷付く言葉が人によって違うように、心が楽になる言葉もきっと人によって違う。それは体質が、人の数だけあるように、人生の処方も千差万別であろう。


 詩人の萩原朔太郎と室生犀星の友情について、『二魂一体の友』(萩原朔太郎・室生犀星、令和三年、中央公論新社)を読み、片鱗を知ることとなった。しかしながら、この二人の関係を見る時に、私はそうした共鳴し合う魂の片割れを己も探そうとは思わなかった。この友情を成立させることは、互いの孤独を受け入れるということである。本書を読む私は、二人の詩を読む時と同様の鑑賞者であった。

 育ち方、取り巻く環境は、人間の人格形成に大きく関わってくる。萩原朔太郎は、父親が医者であり、実家は裕福で生活には困らなかった。しかし、学業には親があらゆる手を尽くしても身が入らなかった。その結果、家業を継げず、朔太郎自身は父親の目を恐れ、自身の立場に後ろめたさがあったようである。それでもなお、勘当されることも無く、親の庇護にあった彼は大人になっても生活の保障はされていた。そうした生活基盤があったからこそ、数々の近代詩を生み出せたというのも、因果なことであると思う。

 室生犀星は、生後間もなく寺へと出され、養父母によって育てられた。貧しい出自であったが、文壇にて出世した。その後の、彼の骨董収集や庭の手入れなどの風流趣味は、その生活の安定によって漸く手にした安堵の体現であったように見える。しかし、朔太郎は、犀星のそうした落ち着きに憤慨し、嘆いた。それは小説家としての犀星へ散々寂しさと怒りをぶつけるような文章から読み取れる。

 朔太郎が、初めて犀星の姿を見た時の印象について、次のように書いている。

 「かれこれして居る中に、金沢に居る室生君から手紙が来て、近く前橋へ行くからよろしくたのむという通知であった。僕も室生君には是非逢いたかったので、すぐに承知の返事を出した。そして早速室生君がやって来た。この「あこがれの詩人」に対する、僕の第一印象は甚だ悪かった。「青き魚を釣る人」などで想像した僕のイメージの室生君は、非常に繊細な神経をもった青白い魚のような美少年の姿であった。然るに現実の室生君は、ガッチリした肩を四角に怒らし、太い桜のステッキを振り廻した頑強な小男で、非常に粗野で荒々しい感じがした。」(『日本詩』一九三四年一〇月号)

『二魂一体の友』(萩原朔太郎・室生犀星、令和三年、中央公論新社)


 また、犀星の朔太郎と出会った時の描写は、

 「…前橋駅に降りると眼の前にこれも変なトルコ帽をかむり、たばこを口に咥えた萩原朔太郎は、ちょっと鼻の隆さからも、日にやけた皮膚の色つやからいっても、わかい比律賓人のような感じがあった。」(『新潮』一九五四年六月号)

『二魂一体の友』(萩原朔太郎・室生犀星、令和三年、中央公論新社)


 朔太郎は犀星を「田舎者」と言いながら、犀星の荒っぽさ、そしてその純情を愛していた。
 朔太郎は哲学の無い世俗を嫌っていたように見える。犀星の文章は、冷静であるが、朔太郎の文章には悲しみが滲んでいる。犀星には、愛情はあるが、同情は無い。

愛情は平等、同情とは格差を認めた感情であると私は思っている。だから、犀星の頑なさと正直さを、文面から感じ取ることが出来ている。

 私は世間を知らないということを、悪いものであるとは思わない。俗っぽいことを嫌悪したくなる気持ちも理解しているつもりだ。その上で、犀星は現実に足が着いているように感じる。
 世に背を向けることも、世に向かうことも、ただの選択の違いであり、良い悪いで判断したくはない。

 こうした二人の詩人の文章に表れるものは、いつも異なっている。だからこそ、正面からぶつかり合えるのではないだろうか。互いの正直さを愛しているからこそ、衝突の多い関係性であったように、私には思える。

 人間とは、歳と共に変わりゆくものである。変わらざるを得ないものである。犀星にとって、生活というものが、どれだけ大事であったかは、その文章からも感じとれる。だから、どうしたって、飯を食うために書かなければいけないのだ。芯の部分が詩人であろうとも、彼は小説を書かねばならなかったのだ。そうして選んだ道に、変わってゆく親友に、寂しさを覚え、年々風流趣味に浸る犀星へ朔太郎は老人趣味だと嘆きたくなったのではないだろうか。

 朔太郎は、そうした人間の変化を要しない環境に居たと思う。だからこそ、周囲から理解されない孤独に神経が蝕まれていったように見える。

 大凡の人間というものは、私が冒頭に書いた「繋がり」と「柵(しがらみ)」の中に居る限り、自分なりの処世術を見つけていくものだとほとほとに感じている。

 私も嘗ては、芸術で生きてみたいと思っていた。常識の外側に行ってみたかった。しかし、周囲が芸術に没頭し、経済的な問題について考えなくともいいような環境にあることを思い知った時、私は芸術を捨てたのであった。

 私が就職活動をしている時に、芸術に関するグループは、華々しく活動を続けていた。
 無論、私は、自分の意思で進学をした。そして、仕送りを貰わず、奨学金、授業料免除、アルバイトをして、楽しく学生生活を謳歌していた。何も文句の無い暮らしであった。決して自らを不遇とは思わない。
 そして、芸術を貫く同世代は、それぞれの人生の覚悟があったというだけのことである。私は彼等を否定しているつもりは無かったが、彼等と自分の生き方の隔絶に本当は苛立っていたのだと思う。だが、人を羨むことはお門違いだ。自分の意思で、芸術を捨てたのは、私に没頭する意気地も、覚悟も、無かったからである。

 私は、今頃になってものを書き出している。それでも、没頭には程遠い。もう、遅いとすら思い始めている。しかし、ものを読み、反応する自分の心に少しだけ賭けてみたいのだ。

 朔太郎の焦がれた抒情詩人が、詩を書くことを止めたことで、取り残されたような孤独感を思うことも、犀星の生き方について理解することも、私が単なる鑑賞者だから出来ている。

 私は、朔太郎や、犀星のような「正直」を知らない。人間を見て、人間と接し、何んとなしに相手に感想を持っても、それが友情になることは無い。人とぶつかることを避け、合わなくなった人間と離れても、寂しいとは思わない。朔太郎のように叫べないし、犀星のように応えることも出来ない。

 朔太郎は、犀星との関係を次のように書いている。

 「若し私共二人が、互いにその思想や主張の上で自己を押し立てようとするならば、私共はとくに血を流すような争論を繰り返して居なければならなかった。
 けれども私共は、始から「思想のための友人」もしくはその共鳴者ではなかった。私共が互にその対手に認めて崇敬しあったものは、思想でも哲学でもなく、ただ「人間として」のなつかしい人格であった。極めて稀にみる子供らしい純一無垢な性惰と、そして何よりも人間としての純潔さを、私共は互に愛し悦びあった。」(室生犀星『愛の詩集』聚英閣 一九一八年一月)

『二魂一体の友』(萩原朔太郎・室生犀星、令和三年、中央公論新社)


 魂の根底に繋がりがあると、信じているということが、彼等の「二魂一体」を成立させていたように思える。何もかもが同じだから、友情が生まれるという訳ではない。育ち方も、生き方も、考え方も異なり、自分の理想との隔絶に落胆しても、その魂を愛し、自らの一部に思うことが出来る。だからこその「なつかしい人格」ではないだろうか。

 果たして、私が朔太郎と犀星の真の友情の形について理解できたかどうかは、分からない。しかしながら、自分の薄情な面を突き付けられたような気がした。
 この文を綺麗にまとめることは、きっと「正直」ではない。だから、私は私に欠けているものについて、今はただ認めようと思うのであった。



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