ずる賢くても自分を守ろう
猫を被る行為はあんまり良くない行為だと思う人が多いけど、私はそうは思わない。
悪く言えば「人によって態度をコロコロ変えているやつ」。
でも良く言えば「自分を守るために相手によって見せる顔を変えているだけ」って考えられるから。
私も今まで猫を被ることはだめなことだと思ってきた。
本当の自分はこんなんじゃないと分かっていながら、本性を包み隠して大人しそうな自分を振る舞う。
ちょっと性格悪そうじゃん?
でも今は猫を被るって実は賢い行為なんじゃないかって思う。
なんでその考えに至ったのかをちょっと書きたい。
私はどちらかというと内向的な性格で、外交的な人と比べると表に立って話すことや、リーダーを務めること、誰かに監視されながら物事を遂行することとかがものすごく苦手。
付け加えて、周りの人と比べても大多数の人に気軽に素の自分を出すことができない。
本脳的に自分が素を出せる人とそうじゃない人を区別してる。
私はHSPなとこもあるから「検知してる」って言ったほうが正確かもしれない。
素を出せる人には、家族と同じくらいの高いテンションで接するし、ちょっとふざけたりもするし、ペラペラ言葉が出てきて楽に話せる。
でも、そうじゃない人には、一定の落ち着いたトーンでしか話さないし、ふざけるなんて以ての外。
相手の発した言葉に適した返答を返さないとって変に気負ってしまったりもする。
「素を出せない人=嫌いな人」では全く持ってないし、気負ってしまうなら素を出せば?って話だと思うんだけど、私の場合はそうじゃなくて。
素を出せない人に自分の本来のキャラで接することよりも、猫を被ることの方が自分の無駄なエネルギーの消費量が断然少なく済むから楽に感じる。
波長が合う合わないってあるけど、そんな感じでどうやっても合わないものは合わない。
合わせようにも合わせられないものってある。
それなら無理に合わせるんじゃなくて、自分が調節してしまえばいい。
そう感じるようになってから、「自分の無駄なエネルギーを使わない=自分の心が疲弊することを避ける」だから、結局は自分の心を守ってるってことになるから賢い考えじゃない?って捉えるようになった。
大学生の時、4年間働いていたアパレルのバイト先の社員の人に言われた言葉がある。
「俺の前に目に見えへんバリアみたいな壁張ってるやろ?」
そんなことないですよ〜と返しながら、心の中では「仰る通り、めちゃくちゃバリア張ってます!!」と思っていた。
この透明なバリアを相手との間に作るのも、変にエネルギーを消費して疲れないためのものだった。
目に見えないけど、なかなか役に立ってくれる。
この前『「ひとりが好きな人」の上手な生き方』という本を読んだ。
その本の中にも、自分の限りあるエネルギーは上手に使おうということが書かれていた。
人それぞれ何に労力を使うのかは自由だし、みんなに良い顔を見せる必要もない。
たとえ「あいつ猫被ってんな」と言われても、自分のエネルギーを上手くやりくりして、使いたい時のために温存しておこう。
ずる賢くても自分を守ろう。