あゝ青春の正しい夏
先日読んだ本の後書きに「正しい夏」という言葉が出てきた。
それを見てふと思い出した、高校一年の夏休み。あれこそわたしにとっての正しい夏だったと思う。
高校生の時、私は吹奏楽部に所属していた。
吹奏楽経験者ならお分かりと思うが、吹奏楽部にとって夏はコンクールの季節である。
また、私の入学した高校の吹奏楽部は、夏に市内の歴史あるホールを借り切って、コンサートもしていた。
一学期はテスト勉強そっちのけでコンサート曲の練習に明け暮れる。夏休みに入ってすぐコンサートがあり、それからようやくコンクール曲の本格的な練習期間であった。
コンクール曲の練習のため、生徒主導で山奥の保養所を借りきって合宿をするのが毎年の恒例だった。周囲は見渡す限り山なので、金管楽器の大きな音も鳴らしたい放題。外の駐車場にパイプ椅子を持ち出し、楽器ごとに集まって練習した。
私はもともとユーフォニアムという中低音域の金管楽器パートに所属していた。ところが、コンサート前にトロンボーンを吹いていたひとりが退部してしまい、トロンボーンが足りなくなった。そこで、同じ音域のユーフォニアムからひとり、コンクールを乗り切るために貸し出されることになり、私はトロンボーン担当として合宿に参加した。楽器の変更なんてずいぶん乱暴な話なのだが、それでも成り立つレベルの部だったということである。
トロンボーンは、私を入れて1年生がふたりと3年生の先輩、の3人で、しかも部内イチ怖い男の先輩だった。
合宿1日目。金管楽器はほとんどが男子だったが、その中に混じって、ひたすら真面目に楽譜に向かった。虻が寄ってこようと、短めのスカートから出た膝が日差しに燦々と焼かれようと、キャーキャー騒ぐことなど許されない雰囲気の中練習した。
1日目の入浴時、膝の日焼けがジンジン痛くて洗えないほどだった。ずっと屋内で練習していた木管楽器の友人たちは私の膝を見て「ずいぶん日焼けしたねー」と目を丸くして言った。それでも、当の本人は明日には落ち着くだろうと軽く考えていた。
2日目も1日目と同じように練習した。山だからそれほど暑くはないが、日光を遮るもののないコンクリートの上である。膝にタオルを掛けて日除けにしたがすでに遅かった。
夕方頃、両足とも膝から太ももの真ん中ごろにかけて広範囲に水ぶくれができ、38℃台まで熱が上がってきた。皮膚が突っ張ってまともに歩けないほどだった。
3年生のトランペットの先輩の中に医者の息子がいて、家に電話をし対処の仕方を聞いてくれた。曰く、とにかく冷やしてできるだけ早く受診との指示。2年生のパーカッションの女子の先輩が濡れタオルで冷やして夜中看病してくれた。
そこまでになって初めて、大ごとになってしまったことを理解した。私は長女だからか、お世話してもらうことに慣れていない。私のために他のパートの先輩方まで巻き込んでしまっていることが申し訳なく、ひたすら恐縮した。
3日目の合宿最終日。顧問の先生は車で来ていたので、部員たちが帰路につく時に私は先生の車に乗せてもらい、自宅近くの外科を受診した。
診断名はⅡ度の熱傷。医師に日焼けしたというと、日焼けでここまでのヤケドになることはなかなかないと変な感心をされた。
その後しばらくは毎日ガーゼ交換に通うことになったが、夏休みの間には治療終了となり、ヤケドの跡が赤黒く残った。
その後、夏休みの前頃から付き合いだしたトロンボーンパートの彼とは怖い先輩の元で結託して親交を深め、コンクールはそこそこの成績で終わって、私はユーフォニアムに戻っていった。
高校一年生とはどんな年齢だろう。中学生の時より行動範囲や交友関係が広くなり、自分で担う責任も大きくなり、大人へ向かって一歩前に進んだ手応えを感じる年頃だろうか。
けれど精神的にまだ中学4年生のような私は、合宿初体験だし、トロンボーンに移籍したばかりだし、先輩は怖いしで、「くそ真面目」以外に振る舞い方が分からなかった。
家族以外に看病される経験も初めて。彼氏に心配される経験も初めて。もちろんあれほどの日焼けも初めてである。
日焼けの跡は数年かかってようやく消え、そこから数十年経つ今は、もう思い出しもしない。だがあらためて思い返すと、過去イチ青臭くて正しい夏だった。
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