文化を生み育て維持し続ける気概
川村記念美術館が、東京に移転し規模を縮小して運営するか、美術館の運営を中止するか、そして保有する美術作品の見直しも検討する…という状況にあるというニュースが話題になりました。(2024年8月後半あたりに話題になりました)
川村記念美術館に限らず、どこの美術館や博物館も維持が大変なようで、クラウドファンディングに頼らざるを得なくなるところも増えました…
現代日本は、文化的に素晴らしいものを沢山持っているのに、それらを維持発展させる事に、あまり意欲が無いように感じられます。あまりに当たり前に沢山あるゆえ、それは空気や水と同じように昔から今もそれらはあるし、これから未来も当たり前に存在するものだと一般社会から思われてしまっているのかも知れません。しかしそれらは意図してお金と手間をかけなければ維持すら出来ないわけです。
それと「文化とかそういうのって、好きな人が好きでやってんでしょ、だったらその界隈の人たちは自分でなんとかすればいいじゃん。興味の無い人にとっては、あってもなくても困らないんだから。まあでも、俺は興味無いけど、日本の文化としては無くならないようにしてよね。それがあなた達の責任でしょ」という心理が根にあるかな…というのは経験上、思います。
・・・文化を生み育てる事、保存する事は本当に大変で、それには研究や学習や経験…人材の切れ目ない育成と、沢山のお金が持続的に必要です。
かつ、その分野は直接生命に関わるものではないですから、お金に余裕が無くなれば一番最初に切られてしまい余裕が出て来ても一番最後に手をつける事になるのは経営の面からすれば仕方のない事でもあります。
文化は、社会という池の水に浮かぶ浮草のようなものですから、その水が枯れれば、その浮草も枯れてしまうわけです。
ある意味、池の水が腐らないように、停滞しないように、枯れないように維持する事自体が文化という浮草を育てる事にもなります。また、その水が豊富で清らかなら、その浮草は美しく育ち、それは世代を跨いでずっと美しくある事でしょう。
それゆえ、国家や民族の“格”は、そのような「浮草の質」で決まるところがあります。その浮草が美しく育つ環境を維持し続けている事自体が大変な事だからです。
それにはお金が沢山あるに越した事はありませんが、無いなら無いなりに出来る事があるはずです・・・その民族全体がそれを失わせない気概を持っていれば、文化は残ると私は考えます。
そこに強く意識を持つ事で当事者としての行動が起こります。結果、現実的にその文化の質が高まります。
ようするに、そういう気概のある民族は、民度が高いわけです。その気概の無い民族は、お金があろうと軍事力があろうと、他の民族や国家から下に観られてしまうのではないでしょうか。
何にしても、文化はその民族のその時代時代の鏡ですから、その時の民族の質がそのまま文化の発展、あるいは維持への姿勢に表れると思います。
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ヘッダー画像は、東博の法隆寺館に展示してあった1000年以上前の布です。
もう、現代のものとは糸も染も全てが違う、凄まじいもので、ボロボロになって状態でもその存在感に圧倒されます。